理由もはじまりも分からない。どうしてなんか、分かるもんか。
だって、気付けばそれは、降り積もる夜みたいにあたしの中にあって。
ただ。
その、あたしの全てを占めるような感情に気付いた切っ掛けだけが、鮮明に記憶に灼き着いている。
軽薄なほど、快活な人だった。
だからといってクラスの中心的存在、とかそういう訳でもなく、かといってさして見目麗しいという訳でもなく、本当にごくごく普通の少年だった。
敢えて特徴を上げるならば少し老成した、妙に達観したところがあったことくらいで。それだって大して目を引くことじゃなかった。
だけど、気付けばあたしは好きだった。
どうしてか、いつの間にか。
恋という、どうにも面倒臭く阿呆らしい想いを抱いていて。
……気付かなければ良かったなぁ、と思わなくもない。
あたしにとってその恋は、友人達が言うような可愛らしく甘酸っぱいものではなかったから。
ただ、ひたすら、恐ろしいほどに積もっていくもの。
振り返れば幾度夜を越えてしまったのか、と愕然とするような感覚。
それは、正直に言うと、何か、とてつもなく怖く感じた。
怖い。
止まらないその恋情が、そう。
あたしは確かに怖かった。怖く、なった。そうと気付いた、あの日の夜に。
かと言って逃げてしまえる訳はなく。教室に行けば彼は普通に居る訳で。
「お、はよっす」
夏休みになってほっとしていたところで、九月初めに行われる文化祭の準備などという忌々しいものがあるのだから世の中本当に甘くない。
相も変わらず軽薄で、どこか老成して見える笑みを浮かべて片手をあげる彼に、あたしはぐっとため息を堪えて、
「……おはよう」
笑顔で挨拶した。
*
「演目は眠り姫!」
「オーロラ姫?」
「……何拗ねてんの?」
「てない」
「いや機嫌悪いし」
「……夏休みまで学校、きたくなかっただけ」
しつこく邪気たっぷりに聞いてくる友人に、頬杖をつきながらあたしは半分本当を言った。実際はあいつに会いたくなかったってだけだ。
お世辞にも真新しいなんて詐欺働けなさそうなボロい机でため息を吐くあたしの前で、千乃は無邪気なんて言葉とはほど遠い笑顔で、にこにこと台本を広げている。
「ね、やっぱり眠り姫役、イヤ?」
「嫌に決まってんでしょうが何であたしが」
「だぁって彼氏役、佐川だし」
「彼氏役言うな王子役でしょ。……何で佐川だからあたしがやるの、むしろ嫌だよ」
心臓が死ぬ。
文法的におかしいことを本気で思いつつ、赤い表紙の千乃の台本を退けようとして、
「酷いなおい」
びくっ、とあたしは肩を震わせた。
何故か耳に甘く響く声にぞわーっと全身の毛を粟立てて、恐る恐る振り返る。
「……さ、佐川」
「何ハルちゃん俺のことそんなに嫌いなの?」
全くさっぱり堪えてないだろうにこにこ顔で、佐川灯夜があたしの髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。う、わ、わ。んなななな。
「は、ハルちゃんっていうな! て、いうか、ちょ、やめ、痛い痛いいたたた、」
「ふふふふそんな不届きもんには王子の制裁を!」
「意味分かんないからー!」
勝手に疾走っていうか迷走し始める心臓は無視してぐちゃぐちゃになってきた頭を押さえる。てかマジで痛いんですけどちょっと?!
だというのについついかーっと赤くなってしまった。意味もなく目線をうろつかせて、はっとする。千乃がニヤニヤとこっちを見ていた。く、くそおおおお。
「別に佐川が嫌いな訳じゃないから! 勘弁して王子!」
「ほほーぅ」
「あたしは役につきたくないだけ! いーからもー離してってば!」
「はいはいっと」
ふわっ、と骨張った手があたしの天辺から離れる。どき、と、した。なんだか、ものすごく柔らかい手つきで、指が離れていった気がした。そんなわけ、ないけど。
にっと子供みたいに、だけどやっぱり大人びた表情で笑って、佐川はキャストのグループの方に去っていった。
ほっと息をついていると、前から何やら盛大なため息が聞こえてきた。さっきのあたしのため息のなんとささやかなことか。
「あんた馬鹿?」
「何いきなり」
「……なんていうか、あんた達って、疲れる。見てて」
「はあ?」
何それ。
怪訝に首を傾げる。でも千乃はひらひらと手を振るだけでそれ以上何も言わない。
「そうだ人の恋路にかかずらってる暇じゃなかった」
じゃあ突っ込んでくるなよ! ひくひくと頬が引きつる。が、まぁ、これ以上何も言われないならそれに越したことはない。
「衣装のことなんだけどさ」
「あ、うん?」
役にもつかず、かといって照明係でもなく、大道具班でもないあたしは衣装係兼小道具担当だ。何でこの二つを一緒くたにするのか微妙によく分からないというか甚だ疑問だけどまぁそれは措いといて。
「あのね、姫の衣装はこんな感じで……」
ぐりぐりとどこからか取り出した裏紙に図案を書き始める千乃は監督だ。監督があたしなんかと油売ってていいのかとさっきまで思っていたけど、多分これが本題だったのだろう。ちなみに今は助監督がみんなをしごいている。超絶面倒臭そうなのが可笑しい。推薦で決まってしまったから、助監督の彼は面倒で面倒で仕方ないんだろう。キャストはくじだったけど。当たんなくて良かった。その他のサポート役は適当に立候補。
「……ん、分かった。あとで深緒に聞いとく」
一応、姫役本人が絶対嫌! と言えば変えないといけないだろうし、サイズもちゃんと測んなきゃいけない。
「お願い。で、王子はね」
「うん」
王子、とその役の男を思い浮かべる。……蒸発しそうになった。
「ここがこんな感じでー……」
「……王子もまた派手だね」
「まあ劇だし。折角だからね」
すんごい嫌がりそうだなぁ、と斜めに視線を逸らし、——はっと気付く。
「え、ちょっと待ってこれあたしが聞くの?!」
「だってあんた班長でしょ。衣装班の」
……そうでした。じゃんけんで負けたんでした。
「じゃーちゃんと聞いといてよ」
「うー……」
恨めし気に下睨んだけど、まったく気にせず千乃は「そんで魔女はねー」とさくさく説明を続けた。
……この女、いつかいじり倒す。