「止まないねぇ、雨」
途方に暮れたようなその言葉は、恐らくクラス中の人間の心を代弁していたことだろう。
……とかナレーションしたい気分だ。
止むどころかますます酷い豪雨になっている。ざああああ、と激しい音が、窓という窓を打ち付けていた。
くそぅ、お天気お姉さんはこんなこと言ってなかった! 今日は一日中晴れるって言ってたじゃないお姉さん!
なんて居ないどころか知り合いでもない人間に八つ当たりしても仕方ない。兎も角、傘もなく、かといってこれ以上学校に留まっているのはどうかという時間に、あたし達はひたすらげんなりしていた。
うちの学校は決してハートフルでも保守的でもない。
何が言いたいかっていうとつまり、もうすぐ宿直の先生がやってきて、さっさとずぶ濡れで帰れという命令が下されるだろうってことだ。……ああ鬱だ。嫌だ。ぽつぽつならまだしも、何だこの降りっぷり。半端ないよ。全然夕立なんかじゃないし! あーもう、絶対風邪引く。ていうか引いたことにして明後日の登校日サボりたい。
雨に負けず劣らずじめじめうだうだしていると、案の定先生がやってきて、予想した通りの台詞を放って出ていった。瞬間、はぁああ、と大きなため息がそこら中から響く。部室に置き傘なかったっけかなぁ、とか何とかぶつくさ言いながら、数人が諦めよく、あるいは諦め悪く帰っていく。
(あああ……みんな帰ってく……)
勇者どもめ、と項垂れる。どうしよう。あたしもさっさと帰ろうかなぁ。でもなぁ、さすがに雨酷過ぎると思うんだよなぁ。
もう一度ため息をついて、残っている級友達を見る。
(……あ)
ぱち、と瞬く。
深緒だ。
肩を落として、綺麗な黒髪ごとしゅんとして、深緒が荷物をまとめている。
あたしは咄嗟に声をかけようとして、だけど千乃と佑香が居ないことに気付いたせいでうっかり口を噤んでしまった。そうしている間に深緒は帰ろうとしている。寒そうに震えてから、白い手が教室の引き戸にかけられた。
(……まぁ、明日でも、いっか)
ふぅ、と息を吐いて、言い訳するみたいに考えてから、諦める。なんとなく、一人で聞ける勇気がなかった。まったく情けないったら。
と、地味に落ち込んでるあたしの脇を誰かがすり抜けていった。きょとんとしてから、後ろ姿にあっと声を漏らす。
木戸くんだった。
今にも姿が見えなくなりかけていた深緒の肩を、木戸くんの手が掴む。びくりとその細い肩が震え、振り返り、そしてさらに大きな瞳が驚きに瞠られ、ひどく揺れた。
あたしはそれで、ああ本当に、木戸くんと何かあったんだなぁ、と思った。
いつもふわふわにこにこしている木戸くんが無言で、深緒の手を引いていく。深緒は唇を噛み締めて、俯きがちに教室から連れ出されていった。
「……深緒、」
「ハルちゃんは傘ないんだ?」
びくぅっ、と突然降ってきた声にあたしは深緒以上に仰天した。
湿っぽかった空気なんてまるでなかったみたいだ。きっ、とあたしは佐川を睨み、それから慌ててドアを見る。……あああやっぱりもう居ない。
がっくりと斜めに傾いて、何で断定系なの、と刺々しく言う。佐川は深緒を慰めていたんだろう時と同一人物かと疑いたくなるほど軽い笑顔になった。
「だってさっきからジメジメ落ち込んでるし」
「雨だからってだけかもよ?」
「ハルちゃん雨嫌いじゃないだろ?」
げ。
「……何で知ってんの」
うんざりと見上げればさらに嬉し気な笑みが返ってくる。ああむかつく。こんなうざったい笑顔にすら、どきりとするんだ。
「そりゃ、ハルちゃんだし。ってのと、俺だから、ってのかね」
「意味分かんないし。てかハルちゃんってやめてってな、ん、ど、言えば分かってくれるかなぁ」
ヒクヒク頬を引きつらせて拳を握りしめる。どうどう、とこれまたむかつく言い方で流された。
「そう苛々しなさんな。ほら笑って笑って。最近あんまりハルちゃんの笑顔見てない気がするからものすんげ見たい」
「何そのド下手な口説き文句みたいなの」
「ぶすくれないぶすくれない。これ、いらないんかね?」
「え」
にやっと笑みを悪戯っぽいものにすり替えて佐川が示したのは、深い緑の折り畳み傘だった。
……ええ?!
「え、な——なんで?!」
「お天気お姉さんに頼らずとも、知り合いに天気を当てるのがうまーいお方がいるんでね」
「……え、毎朝わざわざ聞いてんの?」
「……ニクいこと言うのはこの口かなー? ご近所さんな、ん、で、す」
「あだだだだ」
ぐいー、と緩く両頬を引っ張られて目をきゅっと細める。い、痛い。掴まれた頬の先から、佐川の匂いがする。穏やかで、風の気持ちいい夜みたいな匂い。引っ切りなしに心臓が早鐘を打つ。近い。すごむように寄せられた、佐川の顔が、身体が、近い。
「ご、ごめ、ん」
「うむ。では今日は入れてしんぜよう」
「ご、ごめん、ありが————は?」
入れて?
って、それは、つまり。
「……傘一つってこと?!」
「他にどんな意味があるんだよ。おまえ、入れてもらう身分で文句とはなんちゅう、」
「ややややそうじゃなくて! じゃ、じゃあいいよ! 悪いし!」
あたしは二つ置き傘してるんだと思っていたのだよ!
「……そこまで拒否らなくても。いいよ別に。朝倉んち、そんなに遠くないし」
「や、でも、でもさあ、ほら」
「何」
「……ぇえー、と。ごめん、じゃ、途中まで」
「ん、途中までな」
からり、と微笑。うう、眩しい。イケメンでもないくせに!
(……佐川って本当、そういうの気にしないよねぇ)
相合い傘だなんぞとは言わないけど、わりと気まずいことには変わりないのに。
だけど上手い言い訳が見つかる訳でもなく、「すきなひとに誤解されるんじゃね?」とも聞けず——そもそも本当にすきなひとがいるかどうか確定してるわけでもないし——、よくよく考えてみればただ一緒に、ちょっと近い位置で帰るだけだよ大丈夫大丈夫とか阿呆みたいに心中で誤摩化して、あたしはすごすご鞄を肩にかけた。
「お、春夜帰るの? って佐川も」
「あ、うん。千乃まだ帰ってなかったんだ」
「俺はオマケか」
「水飲んでた。佐川が春夜のオマケじゃない時なんてないでしょ」
さらりと酷いことを言って、じゃあねと手を振る千乃に同じように振り返して、あたしはぐいっとドアを開けた。……立て付け悪いなぁ。
「三輪島、」
「んん、宗治? 何」
「おまえは帰らんのか」
「え、帰るけど」
「傘」
「ないけど?」
「俺はある」
「……だから?」
「帰るぞ」
「……ああ、うん、わかった」
幼馴染み特有と称していいのか微妙な会話を尻目に、あたしは佐川と一緒に廊下へ出た。
……千乃と井場って、謎だ。