やってしまった。

 げほ、と喉が引き攣れるような具合に、咳が出る。

 本日快晴、恨めしいほどの晴れっぷりだ。

(あ————……。うええ、しまったぁああ……)

 ずび、と鼻をすする。

 熱い。

 天気のせいだけでなく、身体が微妙に熱い。

 あたしは肩にかけた鞄を背負い直して、額を軽く覆った。ふぅう、と息を吐く。もう目と足の先にある教室を前にして、気負うように立ち止まる。

 あー、もう。

 やっちゃったよ、ともう何度目かの文句。

 

 

 ……どうやら風邪を引いてしまったらしかった。

 

 

 

 

 

 

 朝っぱらから嘘みたいに元気な級友達にうんざり挨拶して自分の席に向かう。窓際の、後ろから二番目。そのひとつ前の席では千乃が悠々と台本を睨んでいる。濃いローズピンクの機能性重視っぽいシャーペンを持ったまま、苛々と耳の横をぐりぐり押している姿は、どこかの気難しい演出家みたいだった。

「……おはよ、どうかしたの?」

「あ、春夜。おはよ。んー……、ちょっとねぇ。気に食わんとこが出てきちゃって」

 数ミリ驚いたように顔をあげてから、すぐにまた台本へ戻る。あたしはそんな千乃の様子にぱちくりと眼をしばたたいた。

「……今?」

「そう言うなって。こう、他が上手くいってくるとおかしなとこが目立ってくるっていうのかな。そんな感じで」

 ふぅん、と呟く。何だかよく解らんが監督も大変そうだ。……助監督の方が苦労してそうだったけど。

 まぁ、あたしに何が出来るわけでもなし。そこは監督方に頑張ってもらおう。とりあえず衣装仕上げないと。

(もう時間もないしなー……)

 けほけほと咳き込みながら机に鞄を置き、ロッカーから裁縫セットを取り出して、まとめておいた衣装を取り出す。あと、少し。もう登校してる他の衣装班のところにすれ違いがないよう確認にいって、あたしはゆっくり衣装縫いの続きを始めた。

 あたしは暫く黙って針を動かしていた。だけどだんだん窓から照りつけてくる太陽の光に耐えられなくなってきてカーテンを閉める。じっとりと手に汗を掻く。いつの間にか千乃は居なくなっていて、遠く仰々しい台詞が聞こえてきた。それが、時々中断されて注意を受け、また再開、を繰り返している。なんだかくらくらしてきた。ぐっと眼を擦る。と、不意に視界に影が差した。

 顔を上げると、礼奈が縫い終わったらしい門番用の衣装を無造作に丸めてあたしを除き込んでいた。……丸めるなよ。皺ついたらどうすんだか。

「礼奈、何?」

「……春夜さぁ、熱いんじゃない?」

「へ…………ああ、うん。今日すっごいお天気好いもんね」

 けど、それがなんだ?

 唐突過ぎる言葉に首を傾げる。世間話かな。なんか言い回し変だけど、礼奈だし。

 そんなことを思っていると、礼奈は言葉以上に変な顔をした。なんだか納得いかな気な。何にかは分かんないけど。

「そーいう意味じゃ、なくってさ」

「んん?」

 どーいう? とさらに首を傾げる。上手い繋ぎが見つからないらしい礼奈は、もどかしそうに髪の毛をぐしゃぐしゃにした。

 謎だ。

 と。

「……林道、分かり難い」

「ぬぐ」

 ひょ。

 ものすごく忽然と現れた新谷に、あたしは頬を引きつらせた。け、気配。気配がなかった!

 ぼんやりと眠そうな、真っすぐで長めの前髪に隠れた眼がひとつ、緩慢に瞬く。仮にも教室で堂々とヘッドフォンみたいな形のイヤフォンを肩から落としている。あれって、何て言うんだったけか。白いシャツから伸びた右腕には時計ではなくリストバンド。それも白黒パンダ模様のだ。この猛暑になんたる暴挙。が、当の新谷は汗一滴流さず涼し気だった。

 新谷功。ミスター無口。何故か礼奈と気が合ってるらしい、傍目には礼奈の飼い主——げふんごふん、お目付役。

 が! 喋った! あんなに!

 遅れてじわじわと驚愕が胸に迫ってくる。ななななんって珍しい。

「に、新谷……っ」

「じゃー新谷が訊きなよー。あたし苦手なんだよね」

「……俺はそもそも喋るのが得意じゃない」

「いやあんたは面倒なんでしょーが」

 礼奈、凄い。

 新谷が長文喋ってても全然動じてない。それとも礼奈にとっては普通なのか。

「てか新谷の声、っすんごく久しぶりに聞いたわ」

 ……珍しかったらしい。

 からりと片頬に笑みを浮かべた礼奈を新谷がぼんやりと見る。ぼんやり。ひたっすらぼんやり。あんまり喋らないのは井場も同じだけど、新谷の方が謎度が高い。とは間中談だ。おまえも充分謎だよ、と思ったけどまぁ一理あったから一応その時は黙っていた。

「……朝倉」

 ぼうっと呼びかけられる。あたしは一瞬、自分が呼ばれたのかアサクラとただ呟かれたのか分からなかった。一拍してはっと姿勢を正す。

「あ、は、はい。何?」

「…………」

「……?」

「………………………………——」

「続き言いなよ!」

 恐ろしいことに礼奈がまともに突っ込んだ。

 新谷がむっと眉に皺を寄せる。乏しい表情が僅かに不満そうになった。

「……考えてた」

「んじゃ考え終わってから呼びかけなよ」

「…………」

 むぅ、と新谷はさらに眉を寄せ、ぐにっと眼を細くした。雨を嫌がる猫みたいな顔だ。不覚にも笑いそうになった。

 どうやら礼奈のむちゃくちゃ論に納得してしまったらしい新谷は、暫く黙ってから、ゆっくりと、もう一度あたしを呼んだ。

 うん? とあたしももう一度、問い返す。

「……具合、悪いか?」

 あたしはぱちりと瞬く。てん、てん、てん、と数秒の間をおいて、

「……そう?」

 本日何度目か、首を傾げる。

 ……具合、悪そうか?

 うーん、風邪引いたからかな。と、暑さでやられてか?

 頬を擦ってみると、ほんのりいつもより熱い。やっぱり温暖化のせいだな。うん。ひとり結論付けて、夏だから、と笑う。新谷はものすごく微妙な表情になった。完璧に眉がハの字、口は三角形だ。えええ、なんて意外な表情。

 ちらりと礼奈を見ると、礼奈も礼奈で嫌そうな顔をしていた。

 ……何で?

「え、ちょっとその反応酷くない!? 何故に!?」

「解答に満足がいきませんでした。三点」

「ちょっとまってそれ何点満点!?」

「……問題はそこか?」

 ぼそっと呟いた新谷がふらっと動く。イヤフォンが左右に揺れた。一般男子の癖して羨ましいくらいさらさら真っすぐヘアもゆったりと揺れる。くぅう、なんてことだ。これが美少女の髪の毛だったら崇めるだけだけど、いかにも適当に切ってもらってます、な髪型だとちょいちょいむかつく。

 そんなことを思っていたら、冷たくも熱くもない温度の手の平が額に触れてきた。ぎょっと身をひきかける。が、後頭部に礼奈が軽く平手を押し付けてきたせいで、上手く逃げられない。

 だらだらと冷や汗を掻くあたしの前で、新谷はまたむぅと眼を細くした。ただし今度は片目だけ。と、あっさり手の平は離れる。同時に礼奈の手も。

「……な、なな何っ?!」

「……」

 どもりつつ聞いても新谷は無言だ。イヤイヤイヤそこは一言ぐらい言ってほしい! 今のは一体何なんだ!

「あ、やっぱり?」

「……」

 さっぱり分からないあたしと対照的に礼奈は諒解したように顎を引く。何でだ。何で今の無言を解読出来るんだ。

(二人とも、なんか電波発信してるのかな……)

 気が合うっていうか、波長が合ってるの方が、正しいんじゃなかろうか。電波的な意味で。

 ぐったり机に肘をつく。すると礼奈がくいっと額を突いてきた。びみょーに痛い。

「あのね、春夜」

「うん?」

「別に無知を恥じろとか文学的なことは言わないけど、鈍感は度が過ぎると害悪になるよ」

 ——害悪。

 淡々とした声だった。だけど、何か、忘れてはいけない部分を貫かれたような心地になる。酷く不安定で、ざわざわする。ふと新谷に視線を向けると同じ様に淡々とした眼差しと眼が合った。てん、てん、てん、とまた合間。今度は新谷の方が、だけど。そうしてこく、と頷かれる。顎を震わすような本当に小さな動きだった。

「……空気を、読めってこと?」

「空気読まない、ならいいけど。空気読めない、ってのが問題だね」

 にやっとシニカルに礼奈は笑った。垂れ気味の眼と密やかに吊り上がった口角が見事な完璧具合。左耳の下に緩く結んだ髪がふわふわと波打つ。染めていない、綺麗な栗色。

「とりあえず自分の具合くらい、読もうね」

「……へ?」

 具合?

「あたし一枚終ったから、それ仕上げちゃる。もうほとんど出来てるっぽいし、その間だけでも、寝てなよ」

 ぱっと伸びた手に縫いかけの衣装を取り上げられる。針刺さったままなのに。そうぼんやり思っていると新谷に背中を押された。ごん、と机に激突する。ぬ、ぐおお。この二人、突拍子もなく酷いところもそっくりだ。

「……風邪くらい、どうってことないよ?」

「あれ、それは気付いてたんだ。でも惜しい。微妙に足りないね。——まぁいいからいいから」

 おやすみ、と礼奈は軽やかに笑った。ひらひらと手を振りながら。

 ふぅ、と新谷の、肩の荷が下りたようなため息が聞こえた。

 それで、ブラックアウト。


 

 

 

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