蕩けるような声がした。

 砂糖菓子みたいに甘ったるい、どこか浮かれた、だけどふわんと耳奥に沈む、柔らかな声。焼きたてのシフォンケーキ。ジャムかなくて蜂蜜と、クロテッドクリームたっぷりのスコーンの一番ふわふわした柔らかい生地のところみたいな。甘くて、優しくて、穏やかで。静かに心臓の音を早くする。居心地の悪いような、気持ちが良いような、洗い立ての羽毛布団に転がってる時みたいな、気分になる。

 それは、何事か小さく囁いてきて、ゆっくり、風で揺するみたいに、あたしの髪をかき撫ぜる。

 おじいちゃんの、手みたいだ。

 生憎うちのお爺ちゃんはこんなに優しくはないけれど、でも、ぎこちなく、頭を撫でてくれる時の、微妙な触り方。あれに似てる。

 あつい、と呟くと、一瞬その指が硬直して、ちょっとしてからふわりと優しく撫で叩かれる。うん、と穏やかな声。変わらず甘い、声。不明瞭なそれは、だけど今度ばかりはきちんと形を持って耳に届く。

 うん、そうだな。

 子供にするみたいな、絶対に相手を傷つけない言い方。

 それがほんの少し申し訳なくて、どうしてか謝りたくなって、だけど意識はどんどん沈殿していく。ああ、もう、何て言ってるのか分からない。自分が何を言ってるのかすら、分からない。どんどん、どんどん。

 白く、落ちていく。

 ……なんか、木陰で眠るみたいな、感じ。

 最後にそう思って、もう完全に、声は届かなくなる。

 

 

 

 

「……ん、」

「お、起きたー?」

 緩慢に瞬いて小さく身じろぐと、明るい礼奈の声が降ってきた。

 完全にばったり突っ伏してたらしく、肩が痛くなっている。き、筋肉痛。いや逆筋肉痛か?

 ともかく、よろよろ身体を起こして、あたしは「起きた」と呟いた。白いレース襟の衣装を手にした礼奈は、機嫌良さそうににっこりする。

 ……えーと。何であたしは寝てたんだっけ?

 ぼうっとする頭でそう考えて、眠りにつく前のことを思い起こす。ぐりん、と斜め後ろ向きに頭を傾けた瞬間、背中からするりと何かが落ちた。

 床に衝突する前に慌ててその布を掴む。

「……な、んだこれ?」

「何だってしっつれーだねー。深緒の常備毛布」

「ああ……」

 道理でどっかで見たことあると。

 超冷え性の深緒は、大抵膝掛け毛布をロッカーに押し込んでいる。夏はさすがに使わないんだろうけど、まぁ、おいとくにこしたことはないらしく、春から入れっぱなしにしているんだそうだ。っていうのを前に聞いたことがある。

「そっ、かぁ……。うわ、深緒に悪いことしちゃった。いっちばん忙しいだろうに」

「……ん? あー、うん。まぁ、そう、だねぇ?」

 ……なんか歯切れ悪い。じとっと怪訝に睨み上げる。が、んふふと笑ったままで、はぐらかされる。

 なんだこいつ、と脱力してから、あたしはあっと声を上げた。——そうだった、礼奈に衣装、任せちゃってたんだった。

「ごめん、礼奈。衣装、」

「んん? ああうんらっくらくよー。ほとんど終ってたし」

「う、でも。……こんなに寝ちゃって」

 教室の掛け時計を見上げれば、もうお昼時になっている。皆が忙しくしている中、一人だけぐうすか居眠りこいてたなんて、気まず過ぎる。

 ばつの悪い顔をしてしまうと、礼奈はにやにや笑って手を伸ばしてきた。

「どー? さらに酷くなってない?」

「ないよ、大丈夫。ただの風邪だし」

「うーん、春夜は頑固だからねぇ。まぁ無理強いはしないけどね。あたし保健委員じゃないし」

「何それ?」

「んん、何でもないとも」

 にぃっと唇の端を吊り上げる。だけど飄然とした眼がどこか心配気なのは、多分気のせいじゃない。……あーもう、何で風邪なんか引いちゃったかな。あたしはものすごく申し訳ない気分になった。

「ね、それ。続きやるよ」

「えーいいよ。これやったらあたしも休むしー」

「じゃ、それやるからもう休みなよ」

「……なんか筋が通ってるようで通ってない台詞だよね、それ」

「そんなこ」

「そうだよ朝倉さん。無理し過ぎるとぶっ倒れるよ」

 反駁しかけて遮られる。びくっと肩を揺らせば、礼奈の真後ろに木戸くんがやってきていた。どうやら丁度一枚終えたところらしく、器用にも歩きながら畳んでいる。さすが木戸くん。

「おぅ木戸くん。それで今日のノルマ終わり?」

「あともう一枚。林道さんはそれで終わり?」

「に、しようと思ってる」

 悪びれない礼奈の言葉に木戸くんはのほほんと苦笑した。あの雨の日の重い空気は欠片も見られない。……もう、解決したんだろうか。よく分からないけど。そうぼんやり思ったところで、ふと視線を感じた。振り返る。

 ——深緒。

 下がった目尻で、深緒が木戸くんを見ていた。緩やかに唇が動き、だけど直ぐさまきゅっときつく閉じられる。焦ったような、困ったような、もどかしいような、表情。つられてあたしの眉尻も下がっていく。うう、多分、聞かない方が、良いのかもと思うけど。気になる。深緒は微笑み美人だから、ふんわり笑ってた方が好きなんだよなぁ。や、美人は関係ないかもだけど。

(……あー、うー……。うぬぐ、何だろうこのモヤモヤ。もどかしってか)

 癇癪起こしたい、みたいな。ってこの歳でそれは駄目か。

「ハルーはー?」

「ハルーってナニ。あたしはまだ一枚も終ってないからまだまだだよ」

「一枚は終ったじゃん」

「というか、今日は休んでた方が……」

「だーじょうぶだよ! もう日数ないし、ちょいちょい無理しないと」

 二人してたかが風邪に大袈裟な。

 そう、仰け反ってみせるけど、でもさぁ、と礼奈が珍しく困った顔をした。

「でもさぁ、千乃が。言ってたんだよぅ」

「千乃ぉ?」

 千乃なら気難しい監督みたいに監督業してましたが。

「千乃がさー、春夜がやばげでどーにかして、って言ってたんだよぅ」

「ぇえ?」

「で、見にいってみりゃ本当にぐでんぐでんだし」

「林道さん、それ、酔っぱらいに言ってるみたいだよ」

「近いから大丈夫大丈夫」

 近くねーよ。

 って、えええ? 千乃が? ものっすごく違和感あるんだけど。思い出してみても、全然そんな素振りなかったし。大体があたし、そんなに具合悪くないと思うんだけどなぁ。

 納得いかずに黙ってしまう。だけど二人はそうそうと勝手に盛り上がって、さらに失敬なことを言い続ける。

「大体ねー、ハルーはあれだ。色々鈍過ぎるんだよ。犬も歩けば棒に当たる、ていうか。落とし穴があれば落ちる、ていうか」

「犬も歩けばって、用法そんなだっけ」

「細かいことは気にしないー」

「まぁ、でも、朝倉さんってあとちょっとな感じだよね」

 ……それはつまり残念ってことだろうか。オブラートに包めてない。包めてないよ木戸くん!

「タイミングも見事に、悪いしねー」

「……なんで日常的な嫌味言われてんのあたしは! もーいいって! 気をつけるってば!」

「んんん、でも帰らないんでしょ?」

「……ぇ、はあ?」

 ぴっ、と人差し指で指されて、間抜け顔になる。帰らない、って。何でそんな突飛なことに。

 だというにそう思ったのはあたしだけらしく、木戸くんもうんうんと頷いている。……木戸くんは、とりあえず、早く深緒と仲直りしようよ! 礼奈と二人してあたしを貶してないで! 

(ったくぅ。全く関係ないあたしがこんなに気をもんでるってのに、何故に木戸くんはもうスッキリしましたみたいなことになってんだ。や、別にあたしが勝手にはらはらしてるだけなんだけどさ)

 それにしても深緒とのこの違いはなんなんだろう。不思議だ。

「しゃーない、最終兵器を呼ぼう」

「最終兵器?」

 これは木戸くんも分からなかったらしく、首を捻っている。あたしと顔を見合わせて、また捻る。……うん、なんだろうね。

「さーがわー」

(それかああああああ!!)

 どばんっ、と机を叩いて椅子を蹴倒すみたいにして立ち上がる。直ぐに拳を握りしめて礼奈の背中に勢いよく向かわせる。ゴッ、と良い感じに入った。ぎょえっ、とかなんとか、人間らしくない悲鳴が上がった。……こころなしか木戸くんは白い笑顔になっていた。

「いい。それは、いい。呼ばなくていい。ていうか言いふらすな」

「えーでも佐川、知ってるよ?」

「なんで?!」

「なんでも」

 なんでも。

 一瞬、その言葉にどきっとした。何でも。どこかで、聞いたような言葉だ。いやそりゃ日常会話で結構使うけれど。でも。何か。引っかかる、具合に。聞いた、ことが。

 ——誰に?

「……と、とにかく、大丈夫だから。折角来たんだし、一着ぐらい、なんとかしたいよ」

「うーん、そう? まぁ、じゃ、ちょっとねちょっと」

「えええ、林道さん……」

「まぁまぁ、もうちっと好きにさせてやろうよ」

 ぽん、と礼奈が木戸くんの背中を叩く。それを受けた木戸くんは仕様がなさそうにため息をついた。それからあたしを見て、いかにも人の好い困り顔で言う。

「あんまり、無理しないでね」

 ……そりゃ、木戸くんの方だ。

 

 

 

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