「深緒」
ぽん、と軽く肩を叩いて呼びかける。びくっ、として、深緒はすごい勢いで振り返った。
あたしはにこにこした。おつかれー、と言うと、深緒はぱちくりと瞬きしてから、うん、と頷いた。うん、ありがとう。おつかれ。ふわっと綿菓子がほどけるみたいな口調と雰囲気。
あたしは縫いかけの衣装を一旦横において、一応畳んだ毛布を深緒に差し出した。休憩に入ったばかりの深緒は、ちょっと疲れているみたいだった。いつも通りに柔らかく笑ってくれるけど、なんとなく、覇気がない。
教壇と黒板がある教室の前方で、姫がいない場面の練習が繰り広げられている。それを千乃がパイプ椅子に座ってじっと見ている。……どっから持ってきたんだろう、あれ。
「大変だねぇ、姫」
「うーん、でも、まぁ、ほとんど寝てるから。佐川の方が大変なのかな」
「えー、深緒は人が好いからなー」
それはどうなんだろう。
気苦労は深緒の方がありそうだけどなぁ。
「あ、っとそうだ。これ、ありがとう。気持ちよく寝れました」
ぺこんと頭を下げると軽やかな苦笑が降ってくる。もう、昼寝用じゃないんだけど、なんて言いながらどこかほっとした色が滲んでいる。あたしはばつが悪くなった。
「あ、あのさ」
「うん?」
「あたし、そんなに具合悪くないよ、大丈夫。心配かけて、ごめん」
深緒は少しだけ、動きを止めた。ぴたりと。長い睫毛に彩られた綺麗な目で、あたしを眺めてくる。ふうわり艶やかな黒髪が頬にかかって、白い肌がさらに際立って見えた。
「……春夜は、鈍いねぇ」
「はあ?」
本日何度目かの言葉だ。憮然とするとにっこり笑った深緒がくしゃくしゃあたしの頭を撫でてきた。う、わわ。——こんなとこまで、似てる。
「ちょっと具合を悪くしただけで人は死ぬよ」
「……え、」
「という、演劇の台詞があります」
……あ、そう。そういえば、深緒もわりと、食えない方だった。
「この前の大雨で、風邪引いたんでしょ」
「あ、うん。みたい」
「で、熱出したんだねぇ」
「う、——ええ?」
熱ぅ?
あたしは慌てて額に手をやった。……通常通りの体温に感じる。ん、だけど。深緒がくすくす笑うから、心もとなくなる。あたしと深緒じゃあ、大体深緒が言うことの方が合ってる。
「……ほんと?」
「普通は自分の方が分かるもんだと思うけどなぁ」
「だっていつも通りに感じるし」
「手も熱いからねぇ」
「苦しくもないよ」
「ぼぅっとしない?」
……そういえば、なんとなく、朝からだるいような。眠いだけかと。ついついそういう顔をしてしまうと、
「帰ろうか?」
微笑みのままで、これだ。なんとなく気まずくて深緒から目を逸らす。ニヤニヤしている礼奈と目が合った。いつの間に。もうやることは終ったのか、思いっきり寛いでいる。その隣で新谷がとんかんとトンカチをゆらゆら動かして何か得体の知れないものを作っていた。なんだろうあの毒々しい道具。紫と赤ど泥沼色を適当に塗りたくった、かろうじてベビーベッドみたいな形の何か。
「……でも、さ。今日全然、仕事してないんだよね」
「明後日にまた頑張ればいいんじゃない?」
「……間に合わなかったら、」
「ハール」
もう、と言うように深緒は腰に手を当ててあたしの言い分を遮った。
「あのね、確かに春夜は衣装班の班長だけど。だからってそんなに気負わなくていいよ」
あたしはぼうっとしてしまった。
(……気負う)
そう、なのか。あたし。
「……気負ってた?」
「ちょっとね。春夜って、あと一歩のところで不器用っていうか。多分、私達が結構頑張ってバリバリ練習してたから、早く完成させようとしてくれたんだろうけど。一日休んだくらい、なんてことないよ」
「……うーん。そういうつもり、なかったんだけど。ていうかさりげなく酷くない?」
「だって春夜って、なんかナナメなんだもん。向いてるベクトル」
「なにそれ」
「それからね」
ふいに深緒の目が緩く和んだ。こういう顔を見ると、本当美人だなぁと思う。
「毛布ね、私のだけど」
「うん?」
「春夜にかけたのは、私じゃないよ」
「あれ、そうなの?」
きょとんとする。そうか、でもそういえば、練習していた深緒にそんな暇ないか。じゃあ——微妙に違和感があるけど、千乃かな。さっき礼奈が千乃がどうこうって言ってたし。ふーん、そっか。ふんふんと頷いて、でもやっぱりありがとうとお礼を言う。深緒は何故かちょっと残念そうな顔になった。肩すかしくらったみたいな。
「……ちなみに、春夜は誰と思ってるのかなぁ?」
「千乃とか」
「……えー……、……うーん」
「あっはっは。だぁめだよ深緒。そりゃー、ハルーは鈍いけど、それだけじゃ誰だって分からないよ」
伸びをしながら礼奈が近づいてくる。その後ろを、新谷が窓際に沿って歩きながらカーテンを閉めつつ、追いかける。……何で閉めてるんだろう。怪訝に思ったが、教壇側を見ると暗幕を使うシーンに変わっていたので、それに対しての配慮なのかもしれない。
「礼奈、知ってんの?」
「そりゃーね」
「誰?」
佑香とかかな。ていうか、そんな顔見ただけで分かるもんなのか、こういうの。
(そんなに赤いかなぁ……)
釈然としなくて、ぐいぐいと頬を擦ってみる。……意味なかった。
礼奈は閃かせるように笑んだ。悪ガキの顔だった。
「我らが王子殿下ですよ」
班長、と人差し指を口許に当てる。あたしはその意味が直ぐには分からなかった。——王子殿下?
ぼんやりぼんやり礼奈を見てから、はたと知る。
(王子、——王子?!)
佐川のことか?!
仰天してずるっと足が滑った。あやうく何もないところでスッ転びそうになった。目がちかちかする。……いやいやいや、そうじゃなく。
(な、なん、何?! 何それ?! ありえない。ありえないだろそれは!)
ばくばくばくばくと引っ切りなしに波打つ心臓が煩わしい。そりゃ、確かに礼奈が、佐川は知っていると言っていたけど。それで何で佐川が毛布なんか寄越すんだ。何かがおかしい。いやおかしくないのか? でも今日一回も喋ってない気がするのに。
「な、なんで、そこで敢えて佐川」
「おや、おかしいの?」
にまにましながら礼奈が聞いてくる。まるで、良かったねぇとでも言わんばかりだ。ああ憎たらしい。
(す、きな、相手に。失態見られた上に毛布なんて、恥ずかし過ぎるっていうか情けなさ過ぎる。って分かっててこの顔なんだろーなぁこいつはああああ)
ああううもうどうしよう。合わせる顔がない。むしろ合わせたくない。気まずい。気まずいったらない。だって、そりゃ、同性で友達だったら多分、なんてことないけど。ないけどさぁ。こう、微妙なオトメゴコロほにゃららっていうかさぁ。そうだよそうとも別に向こうが毛布かけてくれるくらい、全然おかしいことじゃないとも。仮にもクラスメイトだし多分友達、かもしれないし。諸手上げて感謝するべきなんだろうともさ。でも。でも、あたしが、気まずいんだよおおおお。あーなんだこの得体の知れない情けなさ。
「……春夜? ちょっと大丈夫?」
ていうかていうかていうか。じゃあ、つまりあのなんかひたすら甘ったるくて幸せーな夢は、それか! ムイシキのガンボウとかいうやつか! うーあーもー信じらんない! ばかばかばかばか、バカあたし! つまりつまりなんだ、あたしは、佐川に、優しく頭を撫でてもらいたいと! そういうことか! あっはっは何それ憤死する。あり得ない。寒い。寒過ぎる。アホか。どんだけ夢見るオトメなんだバカじゃないの。あんだけ。
「——春夜?!」
あれだけ、怖がってきたのに。
くら、と酩酊感に襲われて、ぐわんと耳に響く深緒の声にさらにくらくらした。うう、なんだ、これ。きもちわるい。
「春夜」
ふと、呼吸が楽になる。視線。視線を、感じた。誰だろう、これ。誰だろう。朧気な視界で、その相手を捜す。その。その視線に。見られている、って、だけで。何でか酷く、安心する。ああ、だいじょうぶ。大丈夫、だ。訳もなく、そんなことを思った。
「馬鹿だね」
見上げる。いつの間にかあたしは床に膝を突いていた。
あたしを呼んだのは千乃だった。だけど。
視線の主は千乃じゃ、ない。