けふ、とどうにも判然としない頭にうんざりしながら、あたしは細く息を吐いた。
汚いわけでもないけど綺麗とは言い難い天井、淡いピンクと茶のチェックのカーテン、それからもふっとした、見慣れた掛け布団。——が、一息で目につく。あたしの比較的丸い頭は白い枕に埋もれ、毛布を中にたくさん被っているせいか、わりあいふかふかのベッドに沈み込んだ身体と両足ともに重くて動かない。だからこれは不可抗力だ、と思う。
「春夜、あんた何だってこんなこじらせたわけ?」
呆れに呆れて呆れ果てたわ、という内なる声が聞こえてくるようなそれに、むっつりとする。ぼやける視界で相手の顔ははっきりと見えないけれど、誰かは分かる。お姉ちゃんだ。今年、大学に入ったばかりのお姉ちゃんは、あたしと随分違って、容赦がない。……あれ、何であたしの周りの人って、大抵容赦ないんだろう。
「ふかこうりょく」
「返事遅い」
ばっさり言って、お姉ちゃんは乱暴にあたしの額からお湯に濡らした手ぬぐいを剥ぎ取った。ぱしゃん、という水音。どうやら濡らし直してくれているらしい。珍しく姉らしい行動に、ちょっと寒気がした。
「……お姉ちゃん、どうかしたの?」
「何が」
「看病とか、柄じゃないでしょ」
沈黙が落ちた。
あたしとお姉ちゃんの間で、こういうことは珍しくない。ていうより、お姉ちゃんとの間で、の方が正しいか。考え無しの域にあるあたしと違って、お姉ちゃんはふとした瞬間、普通よりゆっくりしっかり考えてから、喋る。ことがある。普段はぽんぽん適当に返してくるけど、考える時は考える。言葉を間違えてしまわないように、ゆっくりと。そういう時の沈黙は、あまり重くない。ちょっと余所事をしていて、ほんの少し忘れた頃に、投げるように呟かれる。綺麗で思慮深いお姉ちゃん、なんて言えば聞こえはいいけどつまりマイペースってことだ。外見が良いだけ余計にたちが悪い。
「もうすぐ行くわよ」
「大学?」
「うん。出さなきゃいけないもん、あるからね」
レポートってやつだろうか。どうでもいいことだけど、お姉ちゃんは女郎花学園大学には上がっていない。確か、アクセサリーとか、そういうものを専門にする大学に行ったとか言ってた気がする。お姉ちゃんならなんとかなるだろうし、なんとかならなくても別に良いんじゃないかなぁ、とわりあい薄情なことを思っていたから、あんまり聞いたりはしていなくて、よくは知らない。ただ、昔からお姉ちゃんがそういうのは得意だったってことは、覚えてる。うちはわりと放任だから、お姉ちゃんの進路で荒れたこともないし、モンスターペアレンツな感じに盛り上がったこともない。受かった、頑張った、っていうだけで、両親はそれなりに大喜びして、また頑張りぃ、で終る。好きなように生きろってことだろう。贅沢な話だ。
「はやく、行かなくて、いいの?」
ちょっと喋っただけで息が上がるのは、多分熱のせいじゃなくて盛り過ぎた布団やら毛布やらのせいだと思う。重い。お姉ちゃんは、専門のことは上手いけど、看病とかは下手だ。されてる側が言えることじゃないけど。
「だから、もうちょいしたら行くわよ」
きゅ、と手ぬぐいを軽くしぼって、お姉ちゃんはあたしの額に再び乗せた。じわりと水分が入ってくるような感覚。
あたしは昨日、ぐったり半死状態になって、千乃に引っ立てられて連れ返された。大分こじらせていたみたいで大抵ふわふわ笑っている母さんも「……馬鹿?」と心底呆れた具合に呟いていた。……というところで、昨日のあたしの記憶は途切れている。起きたら一日の間にさらに悪化してしまったらしく、自分でも分かるくらいの“熱を出してる”状態だった。さすがにあたしも、馬鹿だ、と思った。
それにしても風邪っ引きに出すご飯は普通お粥だと思うのだけど、何でかうちはカレーだった。それはどうなんだ。しかも夕飯はカツレツらしい。チョイスがおかしい。それでも残さず食べて空になった皿を、お姉ちゃんが下げてくれた。気持ちの問題かもしれないけど、なんかカレーの匂いが充満している気がする。よ、酔いそう。
「ん、じゃあ大人しく寝てなさいよ?」
とっくりあたしの顔を覗き込んでから、お姉ちゃんはそう言って家を出た。がちゃん、と鍵が閉まる音が聞こえる。いってらっさい、とふやけた声で、多分絶対届いていないだろう声で呟いて、ふー……と息を吐く。げほごほと咳が漏れる。時計がカチコチと動く音がたわむように部屋中響く。
静かだった。
自分の浅い息遣いと、それこそ時計の音くらいしか、聞こえない。むっとするほど熱いのに、冷房が効いているせいでたまにひんやりした風が頬を擦っていく。
(あー……)
そう、不可抗力だ。
こんなにだるいのも、情けない気分になるのも。
布団が、毛布という毛布が、重くて。
足が動けないから。
だから、と誰にとも知れず言い訳なんか考えて、ため息をつく。馬鹿だ、もう。もともと許容量の少ない頭で、色々詰め込み過ぎた。夏が始まってここずっとぐるぐるしていたのが、風穴空いたみたいな感じになっている。ぽっかり、拍子抜けするような。
ふんわりした眠気に襲われて、うとうとと微睡む。微睡みながら、考える。あたしは。あたしは、どうして、こんなに。
あのひとをすきなのが怖いんだろう。
ここ数週間で何度も何度も巡っては混乱する、不毛な懸案事項。冬から春にかけては、ただ焦ってこんがらがって躓きまくっていたことが、——逃げていたことが、一息ついたところで突きつけられる。
なくしてしまいたかった。だけど出来なくて。
なくしてしまいたくなかった。だから、ただ好きでいると決めた。
……それで。
それで、あたしは、どうしたいんだろう。
好きで居続けたいから、好きと言わないことにした。多分、これは逃げ、っていうので、合ってる。だけど、だからって、ずっと見ていられるだろうか。凪いだ心でいられるだろうか。佐川が——誰か、好きな人と一緒にいるところを、ずっと、観ていられるだろうか。
甘ったれだ、段々堂々巡りになる思考に嫌気が差す。寝よう、と布団を頭まで引っ張り上げた。そのとき。
ピンポーン。
……何故このタイミングでお客さん。
げんなりして、どうせ郵便物でしょ、と決めつけたあたしは、それを無視して寝返りを打つ。すみません郵便屋さん。でも今日はちょっと寝させてください。では。胸の裡で念じて目を閉じる。が、再びチャイムが鳴った。あたしはむっつりしながら起き上がった。さすがに二回居留守にするのも気が引ける。よたよたとベッドから這い出て、はぁいとインターフォン越しに返事する。目を擦りつつ、返事を待つ。……あれ?
何故かなかなか返事が来ない。
「……郵便ですか?」
ぼんやりとした声でふにゃふにゃ問いかけると、一拍の間をおいて、漸く返事が返ってくる。
『……朝倉? 大丈夫か?』
…………ん?
ぱちぱち、と瞬く。
あれ……? なんだ、今の声。電子音になっていて、微妙に分かり難い、けど、なんか聞いたことあるっていうか、朝倉って明らかに知り合いだよなぁ。なんだろうこの嫌な予感。
『俺、佐川だけど』
…………だから何でこのタイミング?!
ずだだだだ、と転がるように玄関まで行き、乱暴にドアを開ける。と、何やら紙袋を持った佐川が立っていた。
……居たよ。本当に居たよ。
「な、ななな……」
「うわ、おい、そんな恰好で出てくんなよ。病人は寝てろって」
「なんでいんの?!」
眠気も吹っ飛んだ。
思わずご近所迷惑も考えずに叫んでしまうと、佐川は「はあ?」みたいな顔になった。
「朝倉こそ何言ってんの? 見舞いに来たんだろ。いいから入る入る」
「いや、ちょっと、——入る入るって、ここあたしの家なんだけど!」
言ってからこれまたタイミング悪く咳が出る。ほーら、と佐川は呆れたように言って、ぐいとあたしの肩を押した。
「またこじれたらどうすんだよ。大丈夫、ちゃんと見舞いの品も持ってきたから」
「いや、ちょ、そんなこと聞いてな——」
「ぐちゃぐちゃ言わん。ほれ」
「う、わ——っとと」
騒いだせいか、押されたせいか。くらりと目眩に襲われて、あたしはふらっと家の中に舞い戻ってしまった。ああこれぞ不可抗力。心底座りの悪い気分で、あたしは仕方なく部屋に向かった。えぇと、お茶とか、出さなくていいかな。いいよね別に。うん。
「どーぞ、本当、お構い出来ません、が……」
とりあえず普段ほとんど使わない勉強机の椅子を引っ張って、佐川に受け渡す。あたしはぼて、と自分のベッドに座り込んだ。佐川は困った顔になった。
「いいって。それより横になった方がいいんじゃないの?」
「……あのねぇ」
そんなこと出来ますか!
ひくひくと頬が引きつる。本当、何しにきたんだこいつ。
「寝なって」
そんな軽ぅく言わないでくれますか!
心中であたしは思いっきり叫んだ。それで何だかもうどうでもよくなってきて、あーはいはい分かりましたよ、とふて腐れたように言い、佐川の言う通り、布団の中に潜り込む。
(……ひとの気も知らないで)
むかむかしたあたしはふんと佐川に背を向けた。だけど、かさ、という音が聞こえてそっと振り返れば、佐川は紙袋の中から何かを出しているところだった。
「……なに、それ」
「アップルパイだと」
「……だと、って」
「見舞いにいくなら持ってけって言われてなー」
「……誰に?」
「近所の知り合い」
その言葉に、あたしはほっと胸をなで下ろした。良かった、クラスの誰かじゃないらしい。千乃辺りに知れたら絶対いじられる。
「まぁ食べたくなったら食べてな」
「……ありがとう」
なんとなく釈然としないまま、お礼を言うと、いやいやと佐川は笑った。
ああ、気まずいなぁ。
ものすごく自然にあたしは思った。気まずい。何で、うちに、佐川がいるんだろう。それもひとりで。これ、絶対おかしいよねぇ。普通女の子同士で近所ならまだしも、比較的近所って言っても異性でしかもただのクラスメイトのお見舞いって、来ないと思うんだけどなぁ。
うーん、と考えつつも、あたしは暫くは聞かなかった。家にくるくらいだから、何か用でもあるのだろうかと佐川の言葉を待っていたのだけれども。その期待というか予想と反して、佐川は静かなままだ。椅子に座って、何故かあたしを見下ろしてくる。……いや、そりゃお見舞い相手を見るのは当然かもしれないけど。何か。何か、話を!
ついに沈黙に絶えられなくなって、あたしは自分から口を開いた。
「……あのさぁ」
「ん?」
「……何でお見舞い?」
「は?」
佐川はきょとん、となった。その顔をしたいのはむしろあたしの方なんだけど!
「や、だってさ。普通、来ないでしょ。お見舞いとか」
「そうかー?」
「だってあたし達高校生だしさ。そも佐川って男じゃんか」
「男以外だったら怖いなぁ」
「あたしは一応女子なわけで。こないって絶対。大体女の子同士でもよっぽど仲良いか家近いか幼馴染みとかじゃないと来ないと思うけど」
「んー、そうかね」
「そうだよ」
あたしは力一杯頷いた。掛け布団を握りしめて。佐川はちょっと苦笑いした。
「変?」
「おかしい」
言うと、ふぅむと唸られる。そっぽを向いて、がしがし後頭部を掻く。その様子をあたしはさらに訝しく見つめた。……怪しい。
「……朝倉のそれってさー」
「風邪のこと?」
「おう。……それ、俺のせいだよなー、って思って」
「…………はあ?」
何じゃそりゃ。
(どこがどうねじ曲がってそんなことに……——って、あ)
さっぱり意味が分からなかったあたしは、ふと眉を開いた。
「傘のこと?」
佐川はんん、と苦笑気味に呟いて、顔をだしたあたしにぐいっと布団を押し被らせた。わぷ。一気に視界が暗くなる。何する、と文句を言おうとして、
「……ごめんな」
静かで小さな声に、それは押し込められた。雫が一滴、落ちるようだった。ぽん、と布団の上から柔らかに叩かれる。労るような叩き方。
「……傘、忘れたあたしが悪いと、思うんだけど」
「でも、俺が引っ張っちゃったからなぁ」
「早く帰れたのはラッキーだったよ」
「熱だしちゃ本末転倒だろ」
ゆっくりした反論に言いくるめられそうになる。でもあれは、絶対的に傘を忘れたあたしが悪い。筈だ。雨足が弱まるのを待って、それか先生に拝み倒して借りれば良かったかもしれない、ってことを、言いたいんだろうけど、佐川についていったのはあたしで、入れてもらったのもあたしだ。佐川が謝ることなんて一つもない筈だし、むしろ感謝されてしかるべきだと思うのだけど、当人はそうは思わないらしい。
む、と一旦口を噤み、考える。どう言えば伝わるだろうか。
「……でもさぁ」
「んー?」
考えたけど、結局上手い言い方は見つからなかった。
「でもさぁ、あたしは、助かったよ」
少なくとも、あの寒い中一人で帰るより、ずぅっと。
いい加減に息苦しくなってきて、ずりずりと下に毛布を引っ張る。釣られて掛け布団もちょっとだけ下がる。
……何を考えているのか分からない、色のない目とかち合った。
ぼうっとしているようにも、考え事をしているようにも見える。軽薄な奴にしては老いた、老成なこのひとにしては隙だらけな、よく分からない眼差し。
熱が上がる。
千乃の言うように、いつかこのひとじゃない誰かを好きになることがあるんだろうか。今と同じくらい、強く、誰かを。
(……考えたこと、なかったなぁ)
何しろ思い知ったばっかりだったし。慌てふためいて、そんなこと考える余裕もなかった。
だけど、考えても、実感は沸かない。違和感が、拭え、なくて。
——だって、未だにこのひとが基準になってる。
“誰か”、じゃなくて。“このひとじゃない誰か”。
「……うーん」
「……何?」
「ハルちゃんは、やっぱりナナメだねぇ」
「だからハルちゃんと言うなと、」
言いかけて、何故か眼を塞がれた。……う、わ?
かぁ、と赤くなったことがバレなければいい。真っ先にそんなことを思いながら、頭の中を疑問符でいっぱいにする。
「なにッ?!」
「ちょっと」
「何が?!」
押し付けられた手のひらをぐっと押す。だけど哀しいかなびくともしない。
「……困ったもんだなぁ」
「こっちの台詞! は、ず、せ!」
「はいはい」
適当な返事で、だけど思いのほかあっさり外される。あたしはちょっと拍子抜けした。……今の、なんか意味、あったの?
なんなんだ、という視線を向けると佐川はふっと微笑った。どきり、と、した。久しぶりに、あたしは、——怖い、と思った。
「さが……」
「おやすみ」
遮られる。穏やかな声で。
眠れるわけないじゃないか、とあたしは悔しくなった。そんな、声で。そんな、口調で。言われて、眠れる訳が、ない。
「……じいちゃんさ、死ぬ前に風邪、変な風にこじらせちゃってたんだよな。だからって訳でもないけど、朝倉が倒れてた時、ひやっとしたよ」
そんな、ことを。
どうして今言うの。
そんなおかしいくらい優しく、どうして。
「倒れて、ない」
そう言うのが精一杯だった。心臓が煩い。破裂しそうだ。熱。熱の、せいだ。きっと。耳が、おかしくなってる。穏やかな声が、弱く、どこか砂糖菓子みたいに、響く。
泣きそうだ。
「知ってるよ」
宥めるように、言われる。
何でこういう時に限って、いつもの軽薄ぶりを発揮しないの。茶化して、笑って、それで終わりにしてくれたらいいのに。
「……だけどさ、入院患者で亡くなる人には風邪こじらせて、が原因の人はわりといるらしいからなぁ」
「……健康なんだけど」
「一瞬構えるんだよなー」
「佐川、風邪引いたクラスの人全員のお見舞い行ってんの?」
「そんな訳ないだろ。今回は特別。しまった、っていうのと、後ろめたさによりまして」
何だそれは。
話は終わりとばかりに漸くちゃらけた言い方をして、このよく分からない人は立ち上がった。そうしてもう一度、おやすみ、と呟く。観念して、あたしもおやすみと返した。とんでもなく恥ずかしくて、情けなかった。
「お大事に、な」
……何で、そういう言い方、するかなぁ。ああ、もう。
「……お見舞い、ありがとー」
居たたまれなくて、毛布がはみ出るくらいに中へと潜り込む。ふいと背を向けて、あたしはとりあえず無理矢理眠ろうと試みた。
ふわりと、控えめに、頭を撫でられる。いつものような乱暴さの欠片もない。本当に今日はなんなんだ。
現金なことに、それであたしの意識は眠りへと落ちていく。軽い睡魔に抗わず、ぺったり瞼を下ろして微睡んだ。だんだん身体が重くなっていく感じがする。
優しい気配がした。
ふ、とこめかみの辺りに、とても柔らかい感触。それが何かは分からなくて、だけど嫌な感じはしなかったから、あたしはもうほとんど眠りながら、ちょっと笑ってしまった。
暫くして、パタンとドアが閉じる音がした。多分佐川が帰ったんだろうなぁ、と夢現に思う。
「————、————」
すっかり意識のなくなったあたしには、その小さな呟きは聞こえなかった。