ピンポーン、と再びチャイムが鳴ったのは、程良く睡眠を貪り、ぼんやりと眼を醒ましたときのことだった。
今日はお客さん多いなぁ、と重いながらインターフォンから返事をすれば。
『——あ、春夜? 大丈夫?』
……わーお、深緒だよ。なんだこれびっくり。
いや本当どうした! 一体何なんだ今日は!
チェックのトップに深い赤のシフォンスカートという、洒落た恰好で家に上がった深緒はベッドの上に正座するあたしをじぃっと見つめ——っていうか睨んできた。
「……えぇと」
「春夜、ちゃんと寝てなきゃ駄目だよ」
「……いや、うん、そうしたいのやまやまなのだけれども! どうして深緒がお見舞いにきてそんでどうしてあたしを睨んでいるのか! あたしちょっとそこが気になるな!」
あ、やばいくらくらしてきた。叫んだせいだ。と、深緒が綺麗な黒髪を揺らしてにっこり微笑う。……目がちょっと大人しくして、いやしろ、と命令形で言っていた。視線にも系統が色々あるんだなぁ。
「千乃達とのね、話して、私が代表してお見舞いにくることになったのね」
「……ぇえ? 何で?」
普通に学校休んでも、今までお見舞いなんて滅多に来なかったのに。まあ小学校でもないし、そんなに家が近い訳でもないから当然だ。
だからこそこんな訪問に吃驚仰天している訳で。
そんな疑問は顔に出ていたらしい。僅かに小首を傾げて深緒は続ける。
「だって春夜、本当に倒れるし。私と千乃は結構春夜と家近いしね。で、千乃だと悪化させかねないからって本人が辞退したんで私が来ました。お土産はプリンね」
「……あー、ありが、とう」
(うーん、嬉しいんだけど! な、何かがっ、何かが何かに突っ込めって言ってる!)
その何かが分からない!
「春夜? なんかまたぐるぐるしてない? 安静にしてないからだよ」
「う、はい。ごめんなさい」
「はい寝る寝る」
釈然としないながらもあたしは大人しく布団に潜った。夏だというのにひんやりした手の平が額にかかる。柔らかい匂い。——佐川と違って、安心する手。気配。温度。匂い。
死にそうになんかならない。当然だけど。
「……あのね、春夜が熱出してるって自分で気付くように私をやったのも、千乃達だよ。自分達じゃ空回りするだけだからって。本っ当、ぶっきようだよねぇ。まったく何でもかんでもなんとなくで回すからだよねぇ」
しみじみとした言い方のそれに、あたしはほんの少し、どきりとした。“なんとなく”で回す。なんだかあたしが言われているみたいだった。すぅっと白い手が引いていく。その後を目で追うと、落ち着いた色の深緒の目とかち合った。
「一応ね、心配したよ」
「……ごめん、ありがとう」
一応、っていうのが、温かかった。酷い筈の前置きなのにとても申し訳ない気分になる。……多分、これが、心配をかける、ってことなんだろう。ああ情けないなぁ。泣きたいような、困ったような、——嬉しいような、気分になる。
「うん、よし。台所、勝手に使っても良い? お水でも取ってくるよ」
「いぃよぅ。……うん、それより、一緒にプリン、食べてくれると嬉しい」
へへ、と照れくさく言うと、深緒はきょとんとしたあと、笑顔で頷いた。あたしはその表情にふと瞬く。そうして唐突に気付いた。
(…………あー、そっか)
こっそり苦笑する。千乃達は多分、深緒のことも、心配している。悩みの種は一緒くたに解決させようというところか。まったく大雑把な。
がさごそと箱からプリンを出す深緒の背に、見えてないのを承知でひらひらと片手を振る。重い毛布と布団に圧されてその動きひとつが重労働だ。
「みーおー」
「うん? 苺プリンとマンゴー抹茶プリンどっちがいい?」
「……苺プリン。なんだそのチョイス。何で敢えてそれを選ぶんだってイヤそうじゃなくて」
「一番普通のが売り切れだったんだよねぇ。はい、マンゴー抹茶プリン」
「ちょっと待ってあたし苺プリンを選んだ筈なんだけど?!」
「そういうこともある」
「ないって! ああもう、そうじゃなくてね!」
あたし風邪っ引きなのに!
そう思いつつも差し出されたプリンをしぶしぶ受け取る。ちらりと蓋を見る。……なんてことだ本当にマンゴー抹茶プリン。冗句じゃなかった。これスイーツとして成り立つのか。むしろ成り立っていいのか。
「多分美味しいと思うから」
「にっこり苺プリン食べながら言うことじゃないよね!」
あたしはばりばりと蓋を取り、プラスチックの簡易スプーンでなんだか不思議な色合いのプリンをすくいとった。恐る恐る口に含む。うわあああ、どうしてこんなに必死にあたしはプリンを食べているんだろう本当に。
(……、……あれ?)
「……そんなに変な味じゃない?」
「だから言ったのに」
「いやでもこのセンスで変な味じゃないってそっちの方が吃驚だよ」
げっそりあたしが言えば深緒はくすくす笑う。それが、やっぱり少し、……元気がない。あたしは眉尻を下げた。
「ねぇ深緒」
「うん?」
「木戸くんになんか言われた?」
「——」
ぴたり、と深緒のプラスチックスプーンが止まる。ゆっくりと、あたしを見て、瞬く。
「なんで?」
「なんとなく。沈んでる深緒と違って、木戸くんはすっきりしてる感じ」
「……よく、見てるねぇ。自分のことは鈍いのに」
「失敬な」
「——うん。大したことじゃあ、ないんだけどね。……私は、いつも、失敗ばっかりする」
落とすような声。だけど口許は微笑んだままだ。まるで癖みたいに。深緒は、笑み作る。
抹茶の味が、苦かった。
「……春夜は、何を言われたかは聞かないね」
「んん、言うつもりなさそうだし。言わないんでしょ」
「そうだねぇ。……うん、言わない。多分ね」
あたしはばくりと大口でプリンを頬張った。マンゴーの味が強かった。
「でも言いたくなったら言って欲しい、かもしれない」
「かも?」
「かも。深緒は、木戸くんが、好き?」
ふっと深緒は黙った。あたしの方をちらとも見ない。ぼんやりした眼差しのまま、虚空を見つめて、だけど不意に俯いて、噛み締めるように言った。
「——うん」
うん、と繰り返す。ぎゅうとプリンのカップを握りしめた指がさらに白くなる。
「うん、多分ね」
「多分?」
「……どうして好きか、とか。どれくらい好きか、とか。そんなこと。どうやって決めればいいのか、私は知らない」
だから多分、と深緒は笑う。困ったように。必死に。
——その言葉があんまりにもその通りで。
少なくともあたしにとっては、すとんと胸に落ちてくる言葉だったから。だから、あたしは二の句が継げない。確かだけど、不確かで。なんて簡明で難しい。どこかの誰かが言っていた。恋は落ちるものだという。ああ、これは本当にその通りだ。落ちて、そこから自然に這い上がれるか、どんどん深みに落ちていくか。——出られてしまうか出られなくなってしまうか。アリスの歌のようだ。フォーリンダウン、フォーリンダウン。穴の中から穴の中へ。落っこちていく。
出られない。
あたしは食べ終わったプリンのプラスチックのカップを、ぐいと手を伸ばして椅子の上に置いた。からん、と軽い音が鳴る。空になったカップは食べかすがところどころ残っていて、マンゴー色と抹茶色が混ざったせいか大分汚く見える。……ゴミ箱に捨てたい。
「……深緒は、なんて言いたいの?」
「え、」
「すっごい落ち込んでる。木戸くんに、何か、言いたそうに見え……なくもない」
「曖昧だ」
「あたしはサトリじゃないからねぇ」
ふふ、と深緒が笑う。あたしは枕元からエアコンのリモコンを取った。ピッ、と除湿から冷房に設定する。ブォンと送風が緩やかに性質を変えて動き始めた。ひんやりした空気にこの暑い中よく我慢出来てたもんだ、と思う。
「……そばに」
ぽつり、零すような。深緒の声。水みたいな。透き通って沁みる。
「そばに、いるのが。嫌いじゃあなかった。多分、きっと、幸福だったんだろうなぁ、って。思うの。訳分かんなくなったし、怖かったし、吃驚してばっかりで、全然、穏やかじゃなかったけど。でも、——ああ」
ああ、と嘆くように。深緒は額を押さえた。瞼ごと、覆うみたいだった。
……泣くのかと思った。一瞬。
微かに声が、震えていたから。
「すき——だ、った。となりが。仏頂面でも、私に話しかけてくれて、たまに笑ってくれることが嬉しかった。嬉し、かったの、に。なのに、今は、あんな——あんな、に。笑って、くれる、のが。かなしい、」
痛い。
そう絞り出して、深緒はぎゅうっと額の上で拳を作った。手の甲を裏っ返して押しつける。
あたしは息を忘れて眼を見開いて、苦しそうな深緒を見る。
……木戸くんは、そういう人だったろうか、とか。色々、疑問が渦巻くけれど。
それより何より、深緒が確信を持ってないことに驚いていた。
——深緒。
深緒、どうして。だって、そんなに。
そんなに全身で好きだって叫んでいるのに、どうして分からないなんて言うの。
「……みお」
呼びかける。こわごわと、割れ物に指先を伸ばすみたいに。
「みお、木戸くんは、深緒が好きだって言ったの?」
黒くて長い睫毛が瞬く。茫然と。……ああ、これは、肯定だ。きっと。少なくとも、それに近いことを言われたんだろう。
ばか。
ばか、深緒。
何でそんなに鈍いの。こんなことに限って。
「深緒、好きでしょう」
木戸くんのことが好きでしょう。
深緒は戸惑った顔で、あたしを見た。あたしは布団から半身はみ出た。ベッドに手をついて、魚人みたいな恰好のつかない姿になる。
「なら、きっと、そう言えば良いんだ。だって」
だって、ねぇ、深緒。木戸くんは深緒を好きって言ったんでしょう。木戸くんは深緒が好きなんでしょう。
深緒は、それと一緒のベクトルで、木戸くんのことが好きなんでしょう。
「だって、木戸くんは、深緒に好きだって言われたら、きっと酷いくらいに嬉しくなるよ」
少なくともその瞬間、心臓が千切れそうなくらい好きな誰かに。ほんの一ミリでもよく似た想いを返してもらえたなら。
そんなすごいことはない。たぶん、あたしが思うより、ずっと。
遠くて、難しくて、なかなか届かなくて。
けれど道ばたの蒲公英の横に転がってるみたいな、そういうものだ。
深緒は心底吃驚したみたいに喉を詰まらせている。固まっていた睫毛をせわしなく瞬かせて、ぼと、とプリンのカップを膝に落とした。
「……って、わ——何してんの?!」
「……あ、大丈夫。汚れてない」
言って、ベッドから抜け出そうとしたあたしを押しとどめる。深緒はちょっと焦点の合わない眼差しでぼんやりしてから、眼を瞑った。それからゆっくりと唇を噛み締める。うん、と密やかな声が聞こえた。深緒の中で何かがかちりと嵌まったみたいな、そんな声だった。
「まさか春夜にそんな普通なこと言われるとはなぁ」
「え、何それ。酷くない?!」
「だってじゃあ春夜は何で言わないの」
……なんか千乃にも言われたなこういうこと。よってたかって振られろ振られろ振られてこいとばかりにまったく。
「あたしは意気地なしで小心者で欲張りなの。せめて風化するまで好きでいたい」
「……何それ?」
「そりゃ、木戸くんが深緒に言ったのが違う意味のものだったらあたしだって『言え』なんて言わないけどさ。……このまま、木戸くんが深緒から遠ざかるのは、なんだかすごく不満」
全部が全部、あたしの我が侭なんだろうけど。それでも両想いなら、お互いがそう知っていればいい。悲劇のロミオとジュリエットじゃないんだから、知らなければ良かったなんてこと、あるもんか。
「……春夜は、何で外野のことにはそうでもないのに、自分のことだと鈍感なんだろうねぇ」
「……ぇえ?」
「いっつも、人のことばかりだからかなぁ。やっぱりすっごくもどかしいね。……あたしは春夜が結構好きだから、お節介を焼きたくなるよ」
「あ、ありがとう?」
「うん。——じゃあね、お邪魔しました。お大事に」
にっこりいつも通りに戻ったかと思うと、拍子抜けするほどあっさり深緒は腰を上げた。どうやら帰るつもりらしい。突拍子がない。
「……あ、ちょっと待って。あのさ、えーと……深緒、何で佐川に泣かされてたの?」
「————は?」
う、しまった。なんか覚えてないっぽい。墓穴。
あたしは慌てて布団を被り、いやいやいやと撤回する。
「ごめん、何でもない」
「佐川に泣かされ、って——……ああ、もしかして大雨の日?」
「……あ、うん」
なんだ覚えてるよ。ぱちくりと瞬いてそろそろと眼の当りだけ布団の外に出る。
——それがまずかった。虎の子に逆に取って食われた感じ。
「うん、ちょっとね。相談、聞いてもらってた。泣かされてたんじゃないよ。……なに、気になる?」
「何で嬉しそうなの。ああもういいよ、それなら。ばいばいお見舞いありがと!」
「ふふふふふー。ん、じゃあね。温かくね。あ、この鍵借りるよ。玄関の植木の下に入れちゃっていい?」
「どーぞ!」
ふっふっふ、と未だに楽し気な様子で深緒は静かにあたしの部屋の扉を閉めて出ていった。
……ああ、羞恥で熱が上がる。何訊いてんだろ。馬鹿だ馬鹿馬鹿。蛇足過ぎる。
(————でも、)
口の中に甘苦いプリンの味が広がる。残り香みたいに。
でも。
お見舞いは、たぶん、嬉しかった。
だから、どうもありがと。……みんな。
夢も見ずに深く眠って、けれどほんの一瞬微かな疑問が脳裏を掠める。
佐川はいったい、どうやって鍵をかけてあたしの家を出たんだろうか。