ふぅ、と凝った肩を叩いてほぐし、巻き尺を握りしめる。

 もう陽が傾き、ほとんどのクラスメイト達は帰ってしまっていた。窓から差し込む夕陽で教室の一部が朱色に染まる。夕焼け時だ、とあたしは思った。

 多分、佐川ももう帰ってしまっているだろう。となると明日辺りにでも寸法と、この衣装でいいかどうか聞かないと。……聞かないと、いけないんだけど。

「……気が重い」

「何が?」

 ぎゃっと飛び上がって、突然背後に現れた佐川を睨む。

「帰ってたんじゃ、」

「なかったんだなー、これが」

 ぽんぽん、とまた頭を触られる。今度は柔らかく、叩くように。

「朝倉は? まだ帰んないの?」

「あ、うー、うん。その」

「歯切れ悪いな」

「……佐川のっ! 衣装のことなんだけ、ど」

 気まずく良い募ると、佐川はきょとんとしてから肩にかけていた鞄を下ろした。

 誰かの椅子を引いて、躊躇いなく腰掛ける。座れば? と言われたので、あたしもしぶしぶ座った。たぶん深緒の椅子に。

 それから千乃に言われた言葉を交えつつ、衣装案を見せる。

 あからさまに、佐川は嫌そうな顔をした。

「……え、それ、着るの? 俺が?」

「う、うん……」

「…………」

 やっぱ嫌だよなー。

 無言になってしまった佐川から、そろりと衣装案を引っこ抜く。

 ……あ、どうしよう。逃げたい。

 夕陽のせいじゃなく顔が熱い。傍にいるだけで動悸がする。怖い。

 ああ。

 このひとが、好きだ。馬鹿みたいに。

 嫌だなぁ、もう。何でだろう。もっと、可愛い恋が、したかったのに。

 こん、な。

「————わかった。いいよこれで」

「あ、やっぱり無理だよねー……って、ぇええ?! 」

 いいのっ?!  

 心臓が違う意味で飛び出そうになった。い、いいのッ?! こんなびらっびらふりっふりの王子コスで?! 

「や、嫌だけどさ。早田もこれっくらいのひらひらした服なんだろ?」

 早田、っていうのは深緒のことだ。……一瞬誰だよそれとか思ってごめん深緒。

 いない人間に心中で謝って、ああなるほど、と頷く。

 眠り姫が完全無敵なひらひらドレスで王子が隙有りまくりの平民衣装だったら、確かに変だ。

「……なんかごめん」

「へ? ……あー、別に? これ考えたの朝倉じゃないだろ」

「うん、まー、そう……なんだけどねぇ」

「それに王子役引いちゃったんだからしゃーねぇだろ」

 宥めるように、佐川が笑う。どくん、と鼓動が一際大きく胸を打った。

 佐川のことが、好きなんだって自覚したのは高一の冬の、終わりの頃のことだった。

 中学からエスカレーター式のこの学校では珍しいことに、あたしと佐川は中二からほとんど同じクラスで。それくらいずっと傍にいたのに、気付かなかった。気付いていなかった。

 切っ掛け、は。

 全然、全く、大したことじゃあなかった。

 今みたいに、教室で。二人だけだった時、に。

 何故か眠り姫の話を、取り留めもなくしていて。佐川が、ぽつりと言った。

『キスで起きる眠り姫の王子は、じゃあ先着順なのな』

 なんとも身も蓋もない言葉だ。

 何それ冷める、とかなんとか、あたしは笑って、ほんの少し、佐川に顔を近づけた。

 それがいけなかった。

 存外色のない目があたしを見る。意味もなく、垂れたあたしの髪をすくいあげられた。多分、邪魔だったんだと思う。それから。

 ふと、空いた方の佐川の人差し指が、あたしの指と触れた。

 雷撃みたいだった。指先から衝撃が奔り、その眼差しがあたしを射抜く。身体中が沸騰するように熱くて、今直ぐにでも死にそうになった。

 何がどう、なってるか、分からなくて。

 ただ。

 すくいあげられた髪が、そこだけ痺れるようで、あたしはただ、髪を離して、と震えそうになる声で、言った。

 怖かった。

 たぶん、これは、初恋で。あたしは、これがどういう感情なのかまだ分かっていなくて。だけど、へらりといつものように軽薄に老獪に微笑んだ佐川が帰ってから。

 漸く、それを恋情というのだと、理解した。

 怖いほどに。

「……でも、相手役が深緒で良かったじゃん。深緒、演劇部だけど台詞間違っても多分、笑ってフォローしてくれると思うし」

「……あー、まぁ、な」

「歯切れ悪いなぁ」

 仕返すように言う。ああ嫌。早く帰りたい。衣装もこれで良いって聞いたし、うん、帰りたい!

 ……って寸法聞いてなかった。

「ハルちゃんだったらもっと嬉しいよ?」

「だからハルちゃん言うな!」

 冗談混じりににやりと何だかものすっごく残酷なこと言われた気がするけど気にしない。それよりも呼び名の方が問題だ。

「朝倉って何でそんなにハルちゃん呼ばれたくないわけ?」

 呆れたような口調だ。む、と唇を尖らせる。

 あたしの名前は本当は春夜だ。はるや、なんて響きだけ聞くと男じみた名前だけど、あたしの顔と字面だけ知るとはるよ、に見える不思議。またはしゅんや、とか。で、長いからって短縮してハルハル呼ばれるけど、あたしはその呼び方が嫌いだ。超嫌い。深い意味はないけどなんとなく嫌い。九割、単にむずむずするから嫌。であとの一割は。

「……お姉ちゃんと被るから」

「は?」

「うちのお姉ちゃん、未春っていうの」

 思うにうちの親は単に春って字が好きなだけなんじゃなかろうか。混ざるんだよ春春と。しかも上から繋げると未春夜、で未だ春の夜、になる。洒落てるつもりか!

 さらに言えばお姉ちゃんはあたしの数倍美人だ。忌々しい。

「ふーん、なんかカッコいい親御さんだな」

「どこが?! 」

「なんか風流じゃん」

「……佐川、お父さんになってもこういう名付け方しちゃ駄目だよ。子供怒るから」

 げんなりと言うと、ぴしっと佐川は固まった。……まさか付けるつもりだったの?!

「……いやいやいや。何それ?」

「え、図星? いや本当やめとこうよ!」

「……あー、朝倉は、本当に酷い、なぁ」

「え」

 そんなにショック受けるようなこと?! 

 ちょっと申し訳なくなってきて、意味もなく髪をいじる。う、うーん。

「ご、ごめん? まぁ、一意見だから」

「…………本ッ当に酷いなぁ。まぁ、いいけど。朝倉ってこう、ズレてるよな」

「え、何でそうなる。今そういう話?! 」

「一瞬持ち上げてざっくり落とすみたいな」

「いやだから何の話。って違う。あのさ、サイズ聞きたいんだけど、分かる?」

 本題本題、と裏紙を取り出す。今分かったら今の方が良いよね。

 そうしながら、何だか普通に長く佐川と話せている自分に呆れた。逃げたい、と思っている癖に、まだ近くで声を聞いていたいと思ってやがる自分に呆れた。馬鹿じゃないの。

 ……きっと叶わないし。

「サイズ? ……あー、分かんねぇ。正確な方がいいよな?」

「うーんそうだね。うっかり変な差異あると、ちんちくりんになったりぶかぶかになったりするかもだから。一部が」

「だ、なぁ。……あれ、巻き尺あるじゃん」

「え? ああうん、女子の分測ったから」

 他にも女子の役はちょい役でもちらほらあるから、たくさん聞かなきゃいけなかった。……疲れた。

 さすがに男子の寸法は測ってない。そこまでしたくない。そっちの分は、手先の器用な衣装班のエースにして珍しい男子班員、木戸くんがやってくれました。ありがとう木戸くん。なんかあのひとくん付けしちゃうんだよな。

「じゃあそれで今測ってよ」

「うん? ————はぁ?!  嫌だよ何で!」

「だってそっちのが早いだろ」

「いやそうだけど明日木戸くんにやって貰えばいいじゃん!」

「ちょっとだってちょっと。ぱぱってやって終わりだろ」

「いやいやいや待て待て待、————あ、ちょっと!」

 ぱっと巻き尺を取られ、かと思ったら手の平に落とされる。にんまりと佐川は笑った。……くそぅ、こういうところが軽薄に見えるんだよ。

 根負けして、「……前向いて腕あげて」とふて腐れた声で言うと、押し殺した笑い声と一緒に佐川はあたしに背を向けた。

「どーぞ?」

 ぐ。

(う、うううう。こいつ、何で、こう)

 余裕なんだ!

 む、む、む、むかつく。ああああたしがこんなに狼狽えてんの分かってんの?! ああ嫌。もうほんっと嫌。何であたしこいつ、が。

 好きなんだろう。

「……びしっ、と伸ばして!」

「はいはい」

 危うく沸騰しそうになった思考を振り切るようにジャッ、と巻き尺を伸ばす。恐る恐る、佐川の肩の辺りから背中を過ぎた辺りまでそれを押しつけ、メモしてから今度はその背中を過ぎた辺りから踵まで。それから伸ばした指先から指先まで。

 ……熱が。

 佐川の指が、あたしの指に、ほんの少し、触れる。それがとてつもなく恥ずかしくて、離れたくて、だけどそこから巻き尺を下ろすことに苦労する。

「胴回り、いきます」

「りょーかい」

 正面に回って、あたしは眼を閉じた佐川の胸の真ん中に端を推し当て、ゆっくりと背中に片方の腕を————

「……あれ?」

 届かない。

 何故かあとちょっとのところで腕が足りない。

 ……待て待て待て。

 落ち着こう。落ち着こう自分。これは。これは多分もっと密着すれば届くとは思いますがしかし仮にもコレはあたしが好きな相手であってさらに言うと逃げたい相手であってもっと根本的なことを申し上げると生物学上男なんですよコイツは! これ以上無理だろ!

「……、……あ? おーい? 朝倉ー? まだか?」

 怪訝気な声が降ってくる。びくーっ、とあたしは肩を震わせた。

「う、あ、いや」

 どもった。

「むむ無理」

 さらにどもった。

「……はぁ?」

 夕焼けが暗い。影になった佐川の顔が見えない。

「あ、あした、木戸くんにやってもらいな、よ。ほほら他は終ったし!」

「いや何今更」

「こ、これ以上は抱きつかんと無理な気がしますの」

「誰だよ」

 間髪入れずに突っ込まれる。うぐ。

 眼を泳がせてそっと佐川から距離を取る。が。

「役得役得、おじさんの胸へどうぞ?」

「イヤ同い年だからていうか酔ったド変態みたいな発言しな…………………………は?」

 今なんと?

 妙な肌寒さを感じて、そろりと見上げる。にっこりと、だのにさっぱり表情の読めない笑顔が待ち受けている。

「……無理?」

「あのね、俺なんて王子役で早田をがっつり抱きしめなきゃいけない訳で」

「だから変態臭いんですけどしかもそれ役得だろつぅかよく恥ずかし気もなくさらっと!」

「そういう時期は小学生で終わりました。これぐらい年食えば誰だって言えるさ」

 言えねーよ。突っ込めたのは胸中でだけだ。どうしようもなく混乱する。瞼が熱い。

 抱きついて?

 あたし、が。測る?

 熱気が増す。佐川が近づく。穏やかで軽薄で、揺り椅子に座る老人のような空気。けれど眼差しだけ、が。

(なに)

 不可思議な色を、宿している。

 こわい、とあたしはまた、瞬間的に思った。どくどくと心臓が暴れる。このひとに抱きつく。——抱きつく? そんな、夢にさえ見ないようなこと。ああ、違う、だってこれは、必要なことだ。だか、ら。だから、佐川はあたしにそんなことを促す。

(……————本当に?)

 これは本当に必要なことだろうか。

 分からない。ぐるぐるして、くらくらして。何だか頭が働かない。

 あたしは眉根を寄せて、もう一度巻き尺の端を佐川の胸元に当てた。ぐっ、と身体を押し出す。

 一瞬、吐息が降りてきた。酷く近い、位置で。息が、詰まって。苦しくなる、ほど。近くで。

 けれど動揺も一瞬。あたしはすぐに巻き尺を通して、するりと数を確かめた。

「……終り?」

「……うん。終り。なん、か。お疲れ」

「はは、朝倉もな」

「本当にね」

 痛い。

 心臓が、肘が、足の先が、頭の芯が。

 痛い。痛くて堪らない。ひりひりする。

 馬鹿みたいだ、と思った。それはすぐに、だから気付きたくなかった、に変わった。

(分からなかった? 頭が働かない?)

 本当に?

(違う)

 たった一度。甘い夢が見たかった。熱、を。きっと絶対に踏み入ることを許されない位置にある、その温度に。

 触れてみたかった。

 こんなに傍で。二人っきりで。あたしだけを、見る。その眼をこわいと思いながら、なのに近づきたいなんて、思った。

(……何、してんだろ)

 本当に、馬鹿みたいだ。

 だって、きっと、佐川があたしを好きになることなんてあり得ない。このどこか遠くを見て、静かに、穏やかに、まるで関係ないとばかりにどうでもよさそうな顔で笑うひとが、ただ馬鹿を言い合うだけの同級生を好きになるもんか。

 佐川は多分、遠いひとを、ゆっくりと、穏やかに、とても優しく想うようなひとだ。

 昔ほんの一瞬眼にした眠り姫を想う王子のように。

 眠りについて、ゆっくりと恋を待つ眠り姫のように。

(……姫って何姫って。やばいあたし大分眠いんだ。だからファンタジック通り越してアホ過ぎること考えてるんだなうん)

「……朝倉」

「え、あ——何?」

 やべドリーム入ってたし。取り繕うような笑顔で振り返ると、佐川はさっさと帰り支度を始めていた。鞄のショルダー部分を抓ってから肩に背負う。と、何故かあたしの鞄を取り、ひょいひょい筆箱やら裏紙やらを放り込んであたしに寄越してきた。……ど、どうも。

 何だか釈然としなかった。けれど一応お礼を言う。佐川はほんの少し、にっこりと邪気なく微笑って、あたしが眼を丸くした隙にあっさり思案顔へと翻した。

「眠り姫はさ、何で王子とハッピーエンドなのかね?」

「はあ?」

「いやだって普通さぁ、白雪姫もだけど、寝込み襲われたらむしろバリバリ嫌うだろ」

「あー……」 

 それはある程度お伽噺をただの物語と見ちゃった穿ち気味の人間が一回は引っかかる命題だ。

「まぁ、王子様から目覚めのキスは乙女の夢よね! とか言っても王子が好きな相手じゃなかったら本当ただの痴漢だからねぇ」

「しかし眠り姫って百年眠ってた訳だろ? 王子のことぜんっぜん知らねぇじゃん。まぁ王子もだけど」

「王子もよく助けになんか行くよねぇ。もし語り継がれてたり肖像画でも残ってたとしても、普通行かないよね、世継ぎの王子が」

「なぁ」

「まぁ若さ溢れる正義感からかもしれないけど。眠り姫は、ねぇ。起こしてくれたからって惚れるもん? て感じするけど」

 ううん、と顎を掴んで考え込む。どうでもいいが何でこんな話してるんだろう。

「……百年たったら居場所なんてほとんどないから、とか?」

「え、すがる奴が王子だけだった、てか?」

「うーん、まぁ」

「それは萎えるわー……。どんだけ色気ないんだよ」

「それか“キスされてしまったもうお嫁にいけない!”とか?」

「ある意味純情な……。っかしどっちにしろシビアだなぁ」

「イヤこうだったらリアリティーあるよね? って話だからさ」

 本当じゃないよ?

 ああでも、とあたしは首を傾けた。

「でも、もしキスされて、このド変態! と思いつつも、助けてくれた王子に、なんかこう甘い雰囲気の相乗効果でひと目惚れとかしてたなら、中々ロマンスなんじゃない?」

 そのキスがもし心から自分に焦がれてなされたものだったら。

 多少気持ち悪くても、許せるのかもしれない。……いやでもどうだろう。初対面でソレ結構きついけどなぁ。ほっぺちゅーでさえぞわっとすると思う。寝ている間に、なんて……うわー、眠り姫ってなんか可哀想だなぁ。

(てかあたしさっき眠り姫の王子みたいに〜、とか考えてなかったっけ? うわごめん佐川)

 悪気はないんだちょっと自己嫌悪と後悔でいっぱいだっただけなんだ。……ははは。

「————って佐川?」

「あ、ああ、……そうだな。せめてな」

「ねぇ。ってことで帰る? もう暗くなってきちゃったし」

「あーそうだな。帰るかー」

 ぽん、と頭を軽く叩かれる。叩く、というより撫でるような柔らかさで。それだけで心臓が一際大きく波打って。

「……ま、頑張ってよキス魔王子」

「いやらしい言い方するなよ……」

 一刻も早く逃げ帰りたい気持ちが再び沸きあがってきて、あたしは誤摩化すみたいに軽口を叩いた。

 

 

 

 


 


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