毎年のことながら、女郎花学園の文化祭の張り切りっぷりはちょっと怖いものがある。
いつもなら風紀指導の先生にアッパーかけられて廊下に埋められるようなことも笑顔で許されるし、先生達も、というかむしろ先生達の方が生徒以上に楽しんでいる。担当している以外のクラスの演し物にも片っ端から練り歩いているらしいあたし達の担任もうきうきとクラスの前を幾度も横切っていた。元気だ。
とは言っても、もちろん生徒だって大張り切りだ。びりびりするくらいの大声がそこかしこで呼び子している。お客さんもたくさん来ていて大盛況。馴染みのご近所さんもくるから、休憩室の種類が、一般用、お子様連れ用、お年寄り用、と三種類もある。もちろん一般用にお年寄りが居ても、お子様連れ用に若い子が居ても、追い出されたりはしない。ただ居やすい場所、として生徒会が作っただけだそうだ。生徒会と言えば、この時期は特に忙しいのに、文化祭本番ともなればもうてんてこ舞いなんだろう。腕章をつけた人達が駆けずり回っているのをよくよく目にする。まぁあの人達はいつも忙しそうだけど。
「そこなお嬢さん! 水泳部特製クッキーはいらんかね?」
「十一時から水泳ショーやるよー! 是非観にきてね!」
「こちら科学部恐怖の館! 女神も震える科学トリックをご覧あれ!」
「って馬鹿! トリックとか言うな!」
「漫画研究部でーす! 部員が熱い魂込めて描き上げた部誌ネバーランドはいかがですか?」
「今年の展示はノーティスに赤い花の魔法使い、BURUKKEなどが……」
通りを歩くだけでコレだ。衣装を抱えて走りながら、あたしは愛想笑いでその間をすり抜けていく。まったく、まだ始まったばかりだっていうのに。お客さんにぶつからないように気をつけて階段を一段飛ばして駆け下りる。そういうあたしも随分文化祭の熱に当てられているらしく、何だかふわふわした気分で、高揚したっきり下がらない。夏は終ったのにちょっと息苦しいくらいに暑い。うん、正直に言おう。超楽しい。やっぱり行事は良いよねぇ。
「よ、と……っと、おわっ!」
なんて調子に乗っていたらお約束に足を滑らせた。ずべ、と。内心ぎゃーっと叫びながら手を伸ばす。何故か人が居ない階でそんなことになったのはまぁ不幸中の幸いというヤツか。とかいう馬鹿なことを一秒の間に超高速で考える。
「————っ、」
どん、と何かにぶつかったのはその時だった。人の温度と布の感触。あたしは衝撃が抜け切らず、呆然と動けずにいた。こ、怖い。階段から落ちるって、すごい怖い!
「…………あ、ぶな……」
ぎょっとする。ため息のようなたいそう安堵を含んだ声はものすごく聞き覚えがあった。気付いた瞬間心臓が止まりそうになって、直ぐに激しく高鳴り始めた。どくどくどくどく、という音が耳に直接響いてくるみたいだ。
「さ、佐川?!」
「おま、もっと気をつけろ……。すんげ吃驚した」
「ご、ごごごごめん! ありがとう!」
慌てて頭を下げて飛び退く。それから荷物を放り出してしまっていたことに気付いて青ざめた。しまった!
「衣装っ——」
「はこっち。ちゃんと捕まえましたよ」
ほら、といささか疲れた笑顔で見せられる。あたしは眼を剥いて、またも大きく頭を下げた。どうやらあたしを助けてくれた時に一緒に受け止めてくれたらしい。なんて器用な。
「ほんっっとうごめん!」
「いや良いけどね。ほれ」
しっかりお持ち、と渡された衣装を言われた通りしっかり抱きしめる。はぁあ、と安堵の息が漏れた。良かったー。
ありがとねぇ、とふやけた笑顔で言うと、佐川は眩しそうに眼を細めて、いやいやと首を振った。その眼にからかうような色が浮かぶ。
「初日の朝っぱらから、役得です」
「……佐川って、ほんと残念だよねぇ」
「しっつれーな。ハルちゃん俺が居なかったら文化祭中ずぅっと保健室よ?」
「うっ、そんなことないって! きっと奇跡おきてたから!」
「有り難みない奇跡だな」
ぶちぶち言いつつ、あたしが進み始めると、何故か佐川もついてくる。……あれ?
「佐川、あたしクラス行くんだけど」
「俺もだけど?」
だから向かってるんだろ、と怪訝そうな顔をされる。いや、そうだけど。でも。
「……佐川、反対側から来たんじゃないの?」
より正確には下の階から、だけど。
「朝倉探しに来たんだよ。なかなか帰ってこないって駆り出された」
「え……うわ、ごめん」
「いいって。どうせ波に呑まれてたんだろ。毎年そうだもんな」
「う、うん」
ぽん、と軽く頭を叩かれる。あたしはちょっと首をすくめた。そうして、そういえば、と佐川の横顔を見ながら思い出す。
そういえば、毎年、あたしはよく佐川と文化祭を歩いていた。って言っても別にずっと一緒にってことじゃなくて、暇だったら何時から何時まで、って感じだったけど。それぞれ友達と回ったり、今みたいにクラスの演し物の準備をしたり。……あたしも佐川も帰宅部だったからなぁ。暇な時間が結構多い。今年もだけど。
「……あとちょっとか」
「劇?」
「ん? んん、それも」
それも?
じゃあ何だ、と首を傾げると、佐川は曖昧に笑って誤摩化した。そうそう劇な、なんて嘯いている。……くそぅ。
「秋田や光司が緊張しまくっててなー」
「ああ王妃と王様? 一番手だもんねぇ」
「まぁなー。しっかし、んなこと言ったら俺ほとんど出っ放しだよ」
「緊張?」
「すごくね」
——微笑う横顔に、抑えていた動悸が暴れ出した。
佐川は、こういうひとだ。
こんなに軽薄極まりないのに、簡単に甘いことを言って、さらりと弱音を口にする。そういう。そういうこのひとは、いつも、どこかひどく、老いて見える。年の功、って言う言葉が、一段飛ばしで似合うひと。実年齢以上の穏やかな空気。そっと、零すような声の囁き。
もうあの日から随分経つのに、あたしの佐川に対する挙動不審ぶりは止まらない。千乃には呆れられるし、礼奈には生温い眼で見られるし、何より自分で不審だしで、せめて文化祭では何も考えないようにしようと思っていたのに。
(……いや、いや、いや。待てあたし。大丈夫。まだ戻れる。初心を忘れず初志貫徹!)
左手を佐川に見えないよう後ろ手で握りしめる。うん、そうだ、あたしやれば出来る子! たぶん!
「……何してんの?」
「え、あ、いや何でも!」
おっとバレた。
ぎゅうと衣装に顎をうずめる。赤くなった頬に気付かなければ良い。ちらりと横目で佐川の顔色を窺い見る。
——あ。
いつもより薄い笑み。いつもより饒舌さの足りない口調。喧噪とざわめきと怒鳴り声に紛れる、いつもよりゆっくりな足音。
気付けばぐっと佐川のシャツを引っ張っていた。
「佐川、」
「……うん?」
ちょっと吃驚したように、佐川は眼を丸くした。不意を打たれたみたいな、無防備な表情。いつもの老成さもあしらいもない、年相応の顔だ。
「ずっこけても大丈夫。台詞がちょっと違ってても大丈夫。終りよければ全てよし、だよ」
佐川はぼんやりと瞬いた。それからゆるゆると微笑む。どき、と、した。周囲の音が掻き消える。射抜かれるみたい、に。ああ。
(あたし、)
「……失敗すること前提かー」
「え! いや、そうじゃないけど!」
ふっと眼を細くしての言葉を慌てて否定する。ぶんぶんと頭を振るあたしが可笑しかったのか、佐川は大笑いして、いつの間にか辿り着いていたクラスのドアを引く。昔、って言っても数年前だけど、佐川といるとあんまり人の波に押されることがない。背の高さの問題かもしれないけれど。ああでもそんなことはともかく。
「あ、おかえりー」
「遅かったねぇ。大丈夫?」
佐川は役者陣の方に向かい、あたしは千乃達の方へ行く。かけられる言葉にごめんごめんと返しながら、あたしは俯いて口許を覆った。
ああ。
なんてことだ。
さっき、あまりにも自然に零しそうになった。
(あたし、佐川に、)
佐川に、好きだって。