佐川が居たのは休憩室だった。

 と言ってもただの空き教室だけど。今はみんな巡り回っているらしく、人っ子ひとりいない。佐川、以外。

「……あれ、ハルちゃん?」

「……ハルちゃん、って、言うな」

 げほごほと息を整える。思っていたより佐川の足は早かった。……見失うかと思った。ああ、足の遅い自分が恨めしい。

「大丈夫か……?」

「憐れみの目で見ない!」

「いやあんまりきつそうだからな。朝倉体力ないなぁ」

 失敬な。

 こほん、と咳払いする。ついでにぱたぱたとスカートの襞を直した。

「で、どうしたん? 俺になんか用なんだろ」

「あ、うん。まあ」

 何とも曖昧な口調になってしまった。でもこうさらっと聞かれると言い出し難い。えぇと、と歯切れ悪く口を動かす。と、かたんと教室の引き戸が開いた。反射的にそちらを向く。佐川も同じ用にして顔を上げた。

「あ! いたいた、佐川。あのね、もうちょっとで本番だから集合は——……って、あれ春夜。ごめん邪魔した?」

 ばたばたと慌ただしげに入ってきたのは深緒だった。あたしの方を見て、しまった、みたいな表情になる。あたしはぶんぶんと首を振った。

「全然。だいじょぶ」

「そう?」

「んでどうした早田。集合?」

「あ、そうそう集合時間、佐川聞かずに出てったでしょ」

 だから探してたんだよ、と言う深緒に佐川はさすがに申し訳なさそうになって、ごめんごめんと頭を下げた。軽いなぁ。あたしと同じように感じたらしい深緒も半眼になったけど、まぁいいよ、と片手を振って時間を告げる。はたで聞いていたあたしはちょっと目を瞠った。結構、近い。もうすぐだ。

(しまったなぁ。やっぱ後にすれば良かった、かな)

「——分かった。悪いな」

「いいよ、じゃあね」

「早田、」

 笑ってさっさと出て行こうとする深緒を、何かに気付いたように佐川が呼びかけた。首を傾げる深緒に、ゆるりと微笑う。微笑ましい、とでも言うような。やっぱり爺臭い笑顔。孫を見守るみたいな顔だ。

 あたしは一瞬、息が出来なかった。

「がんばれ」

 深緒の目が大きく見開かれる。何か言い返そうとその唇が動いて、結局閉じる。うん、と吐息のような声。

「うん、佐川も」

 言って、今度こそ深緒は出ていった。じゃあね! ともう一度大きく手を振る。あたしの方にも振ってきたので、振り替えす。

 ちょっとしてから佐川を見上げると、その表情がふわりと苦笑に移り変わるのが分かった。早田もなぁ、と困ったような呟きが漏れる。

「……佐川」

「お、うん?」

「眠り姫は誰が良かった?」

 零れ落ちるままに問いかける。は、と佐川は口を半開いた。なんじゃそりゃ、とでも言いたげだ。まぁそりゃそうだ。でも止まらない。

「深緒で、嬉しかった?」

「いやいや何の話。役のこと?」

「そ、うかも」

「かもってなんだ」

「——誰の王子が良かったか、って話」

 ぎょっと佐川が目を剥く。しん、と沈黙が降りた。暫くしてから、言い難そうに言ってくる。

「……すんげこっ恥ずかしい台詞だぞ?」

「うんあたしも思った。じゃ、なくて」

「そういう意味、ってことだろ」

 さらりと見透かされて。

 あたしが泣きたくなったことなんて、きっと分かってない。

 佐川。

 佐川の好きな人は誰。

「急にどうしたよ、そんなこと。なんか暗いし」

「……、う」

 次の言葉が見つからない。だって、これは、あたしのエゴだ。

 ——深緒じゃなければ良いと思った。

 だって聞いてしまった。深緒が誰を好きなのか。だって知ってる。木戸くんが誰を見ているのか。

 だって、これじゃあ苦しいんだ。

「佐川の好きな人が佐川のことを想ってくれないと、あたしがもやもやする」

「………………へ」

 佐川がぽかんとする。あたしは一拍おいてから、自分の発言を反芻する。そんなにヘンなことを言っただろうか。

(……………言った)

 肝が冷えた。

 う。

 うわ。

 何言ってんのあたし。

「————っ、何でもない!」

「は?! ——っておい!」

 うわもう何それ馬鹿じゃないの恥ずかしい! かああっ、と頬が熱くなる。あたしは衝動的に休憩室になっているこの教室から脱走した。

 がつん、と思いっきり肘をドアにぶつける。引き戸になっているからガタガタと揺れた。でも構わず廊下を突っ走る。——何故か同じ様に走る足音が聞こえた。うわすごい嫌な予感。あたしはもっと足を速めた。驚いたような声がそこかしこで上がったけど生憎耳に入らない。

 だけど、

「わ、朝倉さん?!」

 階段に向かう曲がり角で、誰かにぶつかってしまった。すみません、と口走って顔を上げる——と。

「木戸くん!」

「え、どうし……」

「ごめん!」

「え?!」

 驚く木戸くんを置いて転げ落ちる勢いで階段を下る。今の時間は大体の人がエレベーターを使用するからやっぱり人は少ない。踊り場に出てかくりと膝を落とす。佐川を追った時以上に息が上がっていた。く、苦しい。

「————ハールーちゃーん」

 げ。

 普段より数段低い声に背筋が粟立つ。慌てて起き上がりまた逃げようと、して。

「はいストップ!」

「うっ」

 両脇を阻まれた。佐川の腕で。どん、と耳の横から壁についた手に冷やっとする。ひー。

「……俺ももうトシだからね。疲れた……」

「いや追わなきゃ良かったんじゃ」

「——あの出方で追わないとか鬼畜でしょう。まったくそんなこと言うのはどの口かね」

「あだだだだ!」

 ぐいーっ、と頬を引っ張られる。すぐにぱっと放されたけど、痛い。でもまぁ自業自得だ。堪忍して、とん、と背中を壁につける。どうでもいいけど今の体勢、ものすごく情けない。捕まったうさぎみたいだ。食用の。

「で、朝倉は何が言いたかったの」

「……なかったことに」

「いや無理だろ」

 ざっぱり切られた。

 気まずくて、視線を泳がせる。……額が触れ合うくらいに近い。これも気まずい。ああ。

 やっぱり、あたしは狡い。

 佐川の想いが報われないとこんなにもやもやするのに、佐川が誰かと両思いでも、あたしは佐川を好きでいたいなんて思う。

 ずっと。

 ずっと、このひとを。

 あたしが黙っていると、ふと佐川が口を開いた。

「……一応言っとくと、俺は別にそういう意味で早田を好きなんじゃないよ」

 なんか気になってるみたいだし、とぼそぼそ困ったみたいに言う。

「てか、早田は木戸が好きだろ」

 ……あ?

 目が点になる。え、あれ?

「し、ってる、の?」

「え、うん。相談聞いてたしな。木戸とは古馴染みだし」

「え、あ、ええ? じゃあ」

「あー、木戸も早田が好きだよな」

 まったく困った奴らだよなー、と日和ったように続ける。あたしはというと、思考が止まっていた。徐々に動き出した頭で考える。

 …………え、じゃあ、ここ数日のあたし、かなり阿呆じゃない?

 ていうか。

 さっきの発言、かなり、かなり恥ずかしくない?

「うわ————っ!」

「おわっ、なんだよ」

「恥ずかしい! すっごい恥ずかしい!」

「いやさっきから充分恥ずかしいだろ」

「うーるーさい! だって、あー、もう!」

 ぐわしゃっと頭をかき混ぜる。そのまま耳を塞いでしまいたい。だけど目の前のひとの腕に遮られる。手首を、掴まれる。

 軽薄に佐川が笑った。

「何で、そういうことになってたわけ?」

「分かんない、し。今聞くな」

「じゃあ、何でそんな、もやもやする、ってことになってんだよ」

 困ったような、可笑しそうな声だ。なんだかそれが非常に癇に障って、あたしはヤケになった。

「だって、それなら心残りないじゃん!」

「……はあ?」

「むかつくぐらいに幸せオーラ出してて欲しかったの!」

「いやだから何でだよ」

「だって!!」

 ああ、もどかしい。上手く言葉にならない。なんて言えば伝わるだろう。こんなエゴ。

「佐川が幸せなら、あたしも好きなだけ好きでいても良い気がするじゃん!」

 吐き捨てるみたいにあたしは言った。

「…………え、は? ちょっと待て。そらどういう、」

 好きでいるって決めた。だけど佐川が幸せであって欲しかった。だって、あんな、遠い目をするひとが、誰にも恋をしてないわけがない。それならもう一片の救いもなくあって欲しかった。そうしたら。

 そうしたら、好きって言っても、そのまま好きなだけ好きでいさせてくれますか。

「……佐川?」

 仄かに温くなって、何故か柔らかく頭を撫でてくるそのひとを見上げる。だけど表情が見えない。あたしの頭の上に顎をやってるからだ。

「なに、つまり俺、ハルちゃんが好きなだけ俺を好きな為に、誰かと幸せであって欲しかったわけ」

「……そう言ってる」

「ていうか、さあ」

 ごん、と頭突かれた。いっ、たい。何する、と睨むと佐川は満面、破顔した。むかつくことに、こんな時でもあたしはどきりとしてしまう。

「朝倉は、俺が好きなの」

 あたしは眉間に皺を寄せて口を噤み、しばらく違う言葉を探してから、結局見つからなくて仕方なく頷く。うん。思いのほか、ぶっきらぼうになった。

「——うん。好きだよ」

 諦めたように、言い直す。ほう、とじいちゃんみたいに相槌を打つと、佐川は不意に腕を伸ばした。瞬いた次の瞬間、何故かあたしは佐川に抱き寄せられていた。——うん?

(え、何、これ……あやされてんの?)

 情けないにも程がある。

「ちょ、っと。やめ、」

「なんていうか、朝倉は本当にナナメに突っ走ってるよなぁ」

「はあ?」

「なのに、ものすごく遠回りでこう、ズガンとやってくれるよなぁ」

「何それ」

「うん」

 じわりと広がるような、笑みを含んだ声だった。思わず、何か言う気が失せる。力がすこんと抜けてしまった。だけど続きを促して欲しそうな気配がしたから、なに、と面倒臭く聞いてみる。

「すごいこと言ってくれたとこ悪いんだけどさ。俺は、朝倉が好きなんだよね」

 

 

 

 は、と固まったあたしは別に変じゃなかった筈だ。

「うおい、大丈夫か」

「いやいやいや。あのさ、何でそういうことになる?」

「何が?」

「佐川、が。あたしを、」

「好きって話?」

 さらっと言うな!

「本当だぞ」

「ええー……」

 信じられないんだけど。思いっきり不審な目で見てやると、佐川は心外そうに肩を竦めた。

「そんなに嫌そうな顔すんなよー。それにしても、朝倉が挙動不審だったのは分かってたけど、なぁ」

 え。

「折角仕掛けたつもりだったってのに、そっちは気付いてないし」

「ええ?」

「多分な、」

 にっ、と佐川は笑う。犬にするみたいに頭を撫でてくる。そのせいで髪の毛がぐしゃぐしゃになる。だけどあたしはいつもみたいに気にしなかった。

「多分な、俺の方が早く、好きだったと思うよ」

 ゆっくりと温もりが離れる。

 ふわりと。

 額に柔らかいものが触れた。

「…………………………え」

「さて、俺そろそろ行かんと。早田に怒れちゃうよ。ハルちゃんも行くぞ」

「え、あ、うん——うん?」

 呆然としたあたしは、気付けば佐川に手を引かれて歩き出していた。

 

 

 

 

『眠り姫』は恙無く上演され、何故か妙に機嫌の良い深緒が普段より三割増しの眠り姫を演じていた。

 未だにぼけっとしているあたしの背中を礼奈と千乃がぶっ叩き、木戸くんがにこにこと笑う。……いや、それはいつも通りか。

 そうして気付けば文化祭一日目は終わり、何故かあたしは佐川と一緒に帰っていた。あれ?

「ああそうだ」

 ぐるぐると考え込むあたしに向かって、何かを思いついたらしい佐川が話しかけてくる。

「明日は一緒に回ろうな、春夜」

 思考が未だ混然としてるあたしが、何も考えずに頷いてしまったのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 それから漸く正気に戻ったあたしが声なき声で叫んだのは夜の十二時のことだった。

 

 そうして夏の名残りの夜は明ける。

 

 

 

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