頑張れたら世話ないんだけどなぁ。

 がっくりと肩を落として針に糸を通す。もう夏休みも残り少ない。うちの学校はイベントに対する熱が異常なほど高いから、夏休みほぼ返上覚悟なのも仕方ないけど、あとで秋休みが待っていると思えばまぁやる気も出るけど、疲れる。暑いし。

 蝉の鳴き声が、聞こえる。

 たった七日間の恋を探す、叫び。滑稽なまでの必死さ。

 だけ、ど。

(………………って何あたし蝉まで羨んでんのどんだけ末期なの阿呆かあああああっ!)

 ぐしゃぐしゃぐしゃーっ、と頭をかき混ぜる。は、恥ずかしい。自分の思考が情けなさ過ぎて恥ずかしい。

 突っ走ってみたい、と思う。逃げたくない、なんて強いことは思えない。だから、振り返らずに全力疾走して、倒れたい。玉砕したい。

 老成した、柔らかで、少し海に沈み込むような雰囲気。軽薄な笑顔。うすっぺらで、何も考えていないようなのに何を考えているのか分からない。裏腹に穏やかな声。悪戯を思いついた兄貴分みたいな。それでいて一歩引く、夕焼けみたいな物腰。

 ……本当は。

 佐川に『ハル』と呼ばれるのは嫌いじゃない。だけど、たった一度でいいから、春夜と呼ばれてみたかった。叶わないなら、朝倉のままでいて欲しかった。随分勝手な言い分だ。って、自分でも思う。でも、ハル、と呼ばれるたびに。

 堪らなくなる。

 泣きわめいてしまいそうで。

 やめて。

 呼ばないで。

 そんな風に呼ばないで。

 だって。

 その、声で。

 呼ばれたくなる。

 はるや、って。

 読んで欲しいと。

 思ってしまうから。

 ちりん、と硝子が擦れるような音がした。音源を探すと、一番端っこの窓辺に、淡い水色で花の絵が描かれた手焼きらしき風鈴が揺れていた。

 誰が持ってきたんだろう。

 ていうか、いつの間に。

 勝手に持ってきて勝手に飾ってしかし誰に言うでもない、というゴーイングマイウェイっぷりに、思い当たる人物が多過ぎてホシを特定できない。本当に誰だ。ちょっと吃驚したあたしは、ひっそりとその可愛らしい風鈴を睨んだ。

 銀の刺繍を終えて、玉結びした後に糸を切り、目前に広げてみる。……まぁ、遠目に見れば、大丈夫。舞台じゃ多分、そんなに変には見えない。と思う。

 切実に念を込めて、今度は袖の部分にカフスを別に作りおいていたカフスを合わせる。白地に金の太い糸がぐるりと一周している、派手派手しくも何故か上品に見える洋風仕様。

(ん、問題ない、かな。じゃあこれは後でミシンでくっつけて、次は……)

 畳んでカフスと一緒に机においた衣装をぽんぽんと優しく叩いて、メモを見ながら他の衣装を手に取る。結構いったとは思っていたけど、やっぱりまだまだで、あたしは小さくため息をついた。反省。

 さて、と。

 そろそろ買い出しが帰ってくる頃だろうか。

 教室のそこかしこでぐったり崩れてる級友達に苦笑して、ちゃっちい椅子の背もたれによっかかる。どうしてこう学校の椅子っていうのは座り心地が悪いのか。椅子の前足を浮かせてあたしはぐらぐら揺れながらうっすらと目を閉じた。そういえば、木戸くんと深緒の姿がさっきから見当たらない。買い出しじゃんけんに負けた訳じゃなかった気がするけど、まぁ色々あるんだろう。千乃は教卓に突っ伏してたし、佑香と礼奈は……負けたんだっけか。新谷が当たられてたなぁ。間中は佑香のこと無自覚におちょくってたし……間中って、じゃんけん絶対負けないんだよな。何でだ。くじでも何でも良いの引くし。ラスベガス行って一発当ててこいよ。いやまだ年齢的に無理か。童顔だし。あー、他には誰が行ったっけ。なんかもう暑くてくらくらする。頭痛い。そうだ、ポスターってどうなったんだろ。美術部の誰かに頼むとか言ってたけど、千乃,忘れてないかなぁ。それにしても蝉ほんっと煩い。がんがん響いてくる。帰りにアイス買ってこ。あーでも溶けるかなー。みんな早く帰ってこないかなぁ。そうだ佐川は————

「朝倉?」

 固まった。

 あたしは、なんてジャストタイミングな奴の声の、あまりの近さに固まった。ぐだぐだだった思考は止まり、かわりにだらだらと冷や汗が流れてくる。

 ゆっくり、目を開けた。

 真上に佐川。

 の、顔。

「——っ、なん」

「いやダレてるから。生きてる?」

「なんとか」

 心臓がバクバクいう。普通に驚いた。……それだけじゃあないけれども。

「……佐川」

「うん?」

「近い暑い暑苦しい」

「……男子が傷つく残念ワードをさらりと吐きおってからに」

 ひくりと口の端が引きつるのが見えた。するりと覆い被さるようだった影が引く。あたしも引き摺られるようにして、体勢を直した。きちんと椅子に座り、背を伸ばす。

 視線を向けると佐川は老獪に微笑んでいた。老獪。十代後半、青春真っ盛りのお年頃な男にまったくもって似つかわしくない表現だけど、佐川のそれは、まさにそういう表情だった。柔らかで、少々の含みをもって、飄々と。じんわり、沁みるように広がる眼差しに鼓動が煩くなる。遠くを見るような、深い慈愛とでも錯覚しそうになるその双眸が、あたしには酷く、心臓に悪かった。

 何か。

 何か喋らなくちゃ。

 息が出来ない。

 暑さにやられた魚みたい、に。

「……練習、お疲れ」

「朝倉こそ、衣装縫い大変だな。どれもこれもゴテゴテ」

「眠り姫ってそんなにキャスト居ないと思ってたんだけどねぇ」

「役人そのAとかBが多いんだなぁ」

「眠るのにねぇ」

 しみじみとぶつくさ言ってると、目つきの悪くなった千乃がのそのそと近づいてくる。いつの間に起きたんだろう。

「なによぅ。数人でこちゃこちゃせこせこ劇するより、ばばーんと大人数でやった方がかっちょいいじゃない」

「別に悪いなんて言ってないってばー」

「そーそー、妖精が全員男なんてミラクルな事態にならなかっただけ良いもんな」

 笑みを含んだ無駄に明るい声に振り返る。にぃっ、と天真爛漫に笑った間中が、ビニール袋を持ってやってきた。——どうでもいいことだけど、間中の天真爛漫さは字面通りじゃなく、単にそう見えるだけって話でつまり内心実は一番面倒そうな奴だったりする。うちのクラスはどうしてこう厄介で何考えてんのかさっぱりな奴が多いのか。表情はフレンドリーなだけにやり難いったらありゃしない。……まぁ、多分。少なくともみんな、クラスの中では半分くらい心を開いてくれているんだろう。怒声とか怒声とか怒声とかよく響いてるけど、地に流れる和やかさは嘘じゃない。と思う。何故なら意外とみんな嫌いな相手には容赦なく内情を知ってる人間が見れば寒気を覚えるような良い笑顔をするからだ。本当怖い。何でこう微妙に間違った類友クラスになったんだろう。

 半年弱も一緒にいれば、——それも文化祭準備なんて協力せざるを得ない行事があれば、少々程度、級友達を分からずにはいられない。特にエスカレーター制のこの学校、高二にもなるとほぼ知り合いばかりなので。しかもその高二時のクラスがそのまま高三のクラスに引継がれたりする。激しい抗争なんぞが起きるとめちゃくちゃ厄介なことになる。

「成行、それ何」

 胡乱な口調で佐川が言った。成行、とは間中のことだ。なんてそのまんまな名前なんだと彼を知る誰しもが一度は思ったことだろう。お気楽極楽、成行き任せのラッキー男。快活に裏がなく見える(、、、)彼にぴったり過ぎて、親御さん実はミライ見えてましたかとお聴きしたくなる。

「ふっふっふ。聞いて驚け跪け」

「いや最後のおかしいでしょ」

「跪けとか言って許されんのは絶世の美女か美少女か女王だけだよ」

「だから佐川は思考変態」

 怒濤の如きツッコミもものともせず、にやりと間中は顎に銃の形を模した指先を当てる。さむい。

「ばあちゃん直伝、芋羊羹。冷やしといたのが良い感じに解凍されましたので、お望みならご賞味あれ」

 きらん、という効果音がつきそうだ。あとあと思い返せば大して面白いことでもなかった筈なのに、あたし達は意味もなく爆笑した。

「ぶっは偉そうな売り子!」

「んではいっただっきまっす!」

「はいハルちゃん取ったー」

「ってちょおおおっと何で敢えてあたしが狙ってたの取る?!」

「一番大きかったから!」

「がっつくなよ佐川ー」

「とかいう千乃こそ食べ過ぎ!」

「おまえらさー、ちょっとは遠慮しようぜ?」

「出した本人が何言ってんの。てかおまえ何その袋」

「あ、まさかそれ!」

「ギクリ!」

「自分で言うな!」

「とーった!」

「ぬおああっ?! 三輪島いつの間に!」

「ナイス千乃!」

「でかした! 出せ出せ」

「あー! 俺のマイスウィートハニー!」

「芋羊羹がスウィートハニーとかおまえどんだけ痛いんだよ」

「間中ぁ、ちゃんと女の子にも目ぇ向けな? ね?」

「ちょ、三輪島おま、それすんげ傷つくんですけど!」

「ばっか間中にうっかりほだされちゃった女の子が可哀想だよ」

「朝倉それどういう意味?!」

「っはははは確かに! ってかハルちゃんハムスターみたいになってんだけど?!」

「ちょっと春夜抜け駆け禁止ー」

「うはーやばい間中これめっちゃうまいよ。才能あるある」

「あ、マジ? 嬉しいわー……最後のあるあるが胡散臭過ぎて余計だけどな」

「爽やか笑顔で言うなよ」

「おばあちゃん紹介してよ。宗治に伝授させるから」

「自分じゃ作んねーのかよ!」

「そいや井場と千乃って幼馴染みだっけ。大変だねー」

「本当本当。宗治ってば無駄にむさ苦しいかんね」

「いや井場が」

 ぎゃいぎゃい小さな声で、他の屍達を起こさないように突っつき合いながら、美味しい羊羹を頬張る。ひんやりとした食感と甘さが効いて暑さに参っていた脳内へ良い感じに糖分が行き渡っていく。……たぶん。

 気付けば愉快に憎まれ口を叩きながら、佐川とはそれなりに距離を保てていて。

 未だ弱虫弱腰のあたしのしみったれた意気地なしここに極まれりな悩みは、すっかりなりを潜めてしまった。

 決して消えた訳ではなかったけれど。


  

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