『おはよー、朝倉。いい爆睡っぷりだな?』

『……え?』

 

 

 

  *

 

 

 

 

 

 ぷしっ、と缶のプルタブを弾くように開け、熱いというよりぬくいコーヒーを胃に流し込む。まだ十月だっていうのに、もう息が白くなるほど寒い。ふさふさしたファーのついた、厚手のコートの襟を引き、じんわりと手に伝わる缶の熱で暖をとった。校舎の時計を仰ぎ見る。待ち合わせの時間には、まだ少しの余裕がある。だけど、早く行った方がいいかもしれない。あのひとは何だかんだで、いつも時間に遅れないよう、早めにくるから。それに、先に着いた自分を見つけて眼を丸くするあのひとを見たくもある。よしと心を決めたところで、「あれ?」と肩を叩かれた。瞬きをして、振り向く。……この、行き当たりばったりの適当な感じは。

「お、やっぱり佐川? なに、お前ひとりなの」

「成行。お前こそ塩野は……って、新谷も一緒か」

 珍しい組み合わせだ。ぶかぶかのマフラーをぶかぶかと巻いた新谷が、へらへら笑う成行の隣でこくりと頷く。挨拶らしい。相変わらずぼんやりとした両目は、寒さのせいか、余計に眠そうだった。終始ニヤニヤへらへらと油断ならない成行とセットだと、ものすごく浮いて見える。……シュール。

 表情を決めかねていると、ポケットに突っ込んだ手を引きずりだし、はあと息を吹きかけた成行が、何かに気付いたように眉を寄せた。

「あり? さっき俺、朝倉が帰るとこ見たぞ」

「え、マジ?」

「……」

 こくこくと念押しするように新谷が頷く。珍しく眼が真剣だ。俺も頷き返してから、ゴミ箱の空き缶入れに缶を投げ入れる。ごん、と鈍い音が内部から響いた。

「悪い、俺行くわ。じゃな」

「おーう。ちゃんと捕まえろよー」

「……」

 ニヤニヤ言う成行と、ぶんぶん子供のように手を振る新谷に背を向けて、俺は大股で走り出した。吐いた息が、白く尾を引く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 春眠暁を覚えず。

 どうもあのひとは、睡眠欲が食欲と比例するらしい、ということに、俺はわりと早いうちから気付いていた。よく居眠りをしていたし、ぼんやりと窓の外を眺めているかと思えば瞼が下がっていたりもした。名前に春が入ってるせいかね、とそれなりに失礼なことをこっそり思っていたことは、多分本人にはバレていない。

 長い付き合いになって、いつの頃からかハルちゃん、とからかうように呼んでいた。そんな風に気安くなるまで、実に大変な緊張の時期があったことも、きっとあのひとは知らない。ハルちゃんと呼ぶたびに、不満そうに拗ねたり怒ったりする顔が、こっちを向くのが嬉しかった。そういう、実に実に不純でくだらない理由で呼ばれていたことも。

 角を曲がり、白い看板に灰色のインクで『sommeil』と書かれた喫茶店に入る。ぶわっと暖房の熱気が冷えた身体を少しばかりあっためてくれた。あー、やっぱ現代人にはエアコンが必要だよな。

 するりと寄ってきた店員に待ち合わせの旨を伝えると、平手で奥の席を示される。窓際のカウンター席で組んだ両腕に頭を埋めた、慣れた姿を見つけた。知らず、頬が緩む。

 幾分ゆっくりと近付き、人が寄ってもぴくりともしないそのひとのつむじをとっくり眺める。ふと、大して減っていないホットコーヒーからは、もう湯気が出ていないことに気付いた。申し訳ない気持ちになる。どうやら選択授業が終わって直行したらしい。

 コートを脱いで椅子にかけ、春夜のやわらかい髪をそうっと梳いた。それでも起きない。

 ……はじめて、まともに春夜と話したときのことを思い出した。あれは中二の、春の終わり。俺はそれまで、このひとと普通に話したこともなかった。珍しく、俺も、たぶんこのひとも、早く起きた日のことだ。

「……ハル」

 起こしてしまうのが忍びない。だけども、呼びかけたくもある。春夜、と今度はきちんと名前で呼ぶ。そうするだけで、心臓が跳ねる。それでもやっぱり春夜は起きない。仕方なく、俺は手を伸ばした。細い肩をゆるく引く。耳元に唇を寄せて、もう一度。

「おはよ、春夜。こんなとこでも見事な爆睡っぷりだな」

「…………へ?」

 ————かすれた声と一緒に、春夜が起きた。唐突さに俺の方が面食らう。え。何でこれで起きんの。

 起きた春夜はぱちぱちと頻りに目をしばたたきながら、ぐりぐりとその目許をこすり、あれ、灯夜? なんだ、きてたの、とか何とかむにゃむにゃした声音で呟いた。いつもよりずっと幼い仕草になんとなく胸がざわつく。ああもう、このひとは。どうしてこう、ずるいんだ。さっきまで外の寒さにげんなりしていたっていうのに、今ではすっかり指の先まで火照っている。あの春の終わり、まだこのひとをよく知らなかった自分は、今とほとんど同じ仕草をした春夜に、どうしてほとんど動揺もしなかったのか。

(てか、そういうことまで、何で俺はいちいち覚えてんだよ)

 はじめてこのひとと必要以外の言葉を交わしたそのときの、ひとつひとつまで覚えている。ぽかん、とした顔で無防備に眼を覚ました過去の春夜。実は声をかけるのに、心臓が倍速になる程度には緊張していたとも知らず、春夜はぼやけた寝起き顔でぼやーっとこっちを見てから、一拍置いて真っ赤になっていた。

「……って、うわ。恥ずかしー、爆睡してた」

「うん、いい眠りっぷりでしたよー」

 数年経った今も同じような反応で春夜は真っ赤になっている。きっと数年後もそうなんだろう。寝起きについてだけは、絶対に俺の方が良いって確信が持てる有様だ。誤摩化すように、「何か食べる?」と聞いてくるそのひとに頷き返しつつ、俺はこっそりと思った。

 願わくば、その数年後も、この心臓が飛び出そうになる反応を見るのは俺だけでありますように。

 

 

 

 

 

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いつまでも傍で、君の目覚めを待っている。

 

 

ある冬入りの日、たぶん、出会いのようなもの。でした。
「きみとずっと。」より前くらいです〜。
ではでは、ありがとうございました!

 

 

 

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