10 芒、硬直する。







「おはよう、母さん」
 芒は未だ眠気覚めやらぬ眼で、遺影を見つめて、手を合わせた。かちゃかちゃとキッチンの方から聞こえてくる音で、父がもう起きていることが分かる。そろそろ行くべきか、と思いつつ、なんとなく離れ難くて、じっと座り込んでしまう。
 ……あのね、母さん。
 あのね、笑未の他にも、優しい友達が、出来たよ。

 だから、安心して、父さんを見ていて。



  *



 朝からオムライス。
「父さん、あのさー」
「うん?」
「……や、何でもない。オムライス、美味しい」
 まく、とスプーンですくいとって、芒はほかほか半熟卵のオムライスを口に運んだ。まくまくと食べ続ける。うん、美味しい。父の料理が、なんだかんで芒は好きだ。ひとの手の味がする。ここに父はいるのだと、なんとはなしに安堵する。
「ありがとう、たんと食べてな」
 にこにこと嬉し気な父のご機嫌は昨日からだ。理由は多分、芒が久しぶりに学校での話をしたからかもしれない。自発的に、というのがポイントだろう。それも、親友以外のことで。
 給食当番、今日までだなぁ、と彼女はぼんやり思った。ほんの少し、残念だった。一回分絵里子に変わってもらってしまったので、いつか返上しなくちゃいけない。
(そういえば……あのひと、まだ父さんにご執心なのかな)
 綺麗な、下町が著しく似合わない女性を思い出す。くるんと下方で巻かれた人工的な髪型に、きらきらした爪。光を反射する小粒のイヤリングが上品だった。
 甘い眼差しが、なんとなく居心地悪かったのを覚えている。
「……ご馳走さま、行ってきます」
「あ、待った待った、父さんも行くよ。そうだ芒、そろそろ授業参観の時期じゃないか?」
「……」
 構わず家を出ようとしていた足がぴたりと止まる。……嫌なところを。にこにこと首を傾げる父に向かって、芒は憮然と、
「まだだよ」
 呟いた。







  *
 





 風が気持ちいい。
 ことん、と机に突っ伏して、ぼんやりと窓の外を見る。芒の席は運のいいことに窓際の一番後ろだった。ふと差し込む木漏れ日と葉の匂いが心地いい。
「すーすーきー、ちゃん!」
 どん、と背中にきた衝撃にぎょっと目を見開く。ぬわわわわ。
「え、笑未……っ」
 背中から首に抱きついたまま、笑未はぐぅっと仰け反った。自然、芒も首を引っ張られる。ぐ、ぐるしい。
「くるしい、えみ、くるしい」
「わ、っとと、ごめんごめん。ね、今日こそごはん一緒に食べようね」
「あ、うん。でもあたし、今日まで給食当番だよ?」
「うん、知ってるー」
 ふふふー、と機嫌良さそうな笑未を見上げると、彼女は喜色満面の笑顔だった。……なんだか今日は朝からみんな、機嫌が良いなぁ。それは嬉しいことなのだが、機嫌が良過ぎて対応に困る。そういうところが、人付き合い下手な芒だった。
「えみぃ、なんか良いことあったの?」
「うん? 特にはないよぅ。あ、そうだ芒ちゃん、来週の火曜日って、授業参観だよね」
 ぎくり。
 ふわふわと楽し気な友人と対照的に、芒は一気にトーンダウンした。授業参観。昨日担任が渡してきたお知らせの手紙は、未だランドセルの中にある。
 そう、お知らせはあった。いついつ、というのもあった。
 だけど、芒は久しぶりに、父に嘘をついた。
 ……別に、深い意味なんて、ないけど。でも、こういうのは、ちょっと気まずい。
 ――言い出し難い。
 むぅと眉間に皺を寄せる。と、その眉間に人差し指が激突する。笑未の指だ。だんだん級友達が登校してきて、教室の中が賑わってくる。かしましい声にちょっと目をやれば、本田譲と柴崎利一が、クラスの比較的可愛い部類に入る女の子と一緒に入ってくるところだった。芒はちょっと食傷気味になった。まったく、あんなののどこがいいのか。ていうか可愛い子ばっかだし。まぁ本田も柴崎も顔だけは良いもんな。そんな身も蓋もないことを考えていたら、再び額をどつかれた。やはり人差し指で。……こんな細い指のどこにそんな力が。
「芒ちゃん、ちゃんと見せた?」
「……何を?」
 芒はそらっとぼけてみた。
 笑未はむっと目尻を吊り上げた。腰に手を当てて、ずいと顔を寄せてくる。
「とぼけない! もー、じゃあやっぱり見せてないんだ? またギリギリに出すのー?」
 ……バレバレだった。
 ばつが悪くなって明後日の方を向く。が、平手で向き直された。いつも思うが笑未はわりと雑破で乱暴だ。可憐な見た目に微妙にミスマッチな。
「……そんなに、大事なことじゃ、ないし」
「そりゃ芒ちゃんにとってはそうだろうけど……お父さん、またしょんぼりするんじゃない?」
 ……娘の友達にまでそんなオトナと思われてる父は如何なものか。
 なんとなく情けなくなって、芒ははふりとため息を吐いた。まったく仕様がない父だ。朝っぱらから嘘をついた娘も娘だが。自分でそんなことを思いつつ、お返しとばかりに白い額を弾く。今日も今日とてパイナップルヘアの笑未は、額がまっさらで弾きやすい。
「父さんにはきっちり仕事して貰わなきゃいけなんだし、授業参観なんて、本当行ける時で良いんだよ。私達、まだ三年生だし、機会なんてたくさんある」
「そう、かなぁ? まあ芒ちゃんが言う気ないなら、もう言わないけど」
 そういう彼女は授業参観があるたび、なんやかやと言ってきているのだがそれはノーカウントらしい。苦笑して、ありがと、と呟く。
「おはよ」
 眠そうな声にきょとんと振り向くと、真哉がかふ、と欠伸をしているところだった。朝は弱いのだろうか。そう笑いそうになってから、そういえば今日は、朝の弱い父が早く起きていたな、と思い出す。珍しいことがあるものだ。ほんとに。
「おはよう」
「おはよう、山根くん」
 芒が言うと、追いかけるように笑未も挨拶する。ふあ、と欠伸を噛み殺したまま、一時停止した真哉は、一拍の後、かぁっと赤くなった。
「あ、ご、ごめん。おはよ」
「それ、もう言ったよ」
「あー……えぇ、と」
 かりかりと頬を掻く仕草に、芒は何故だかほっとした。……本田達も、これくらい人が好く……は、無理か。
「あ、真哉、はよーっす」
「おはよう、おまえ朝弱いんだっけね」
「……ユズ、トシ。おはよ」
 なんとなく呆れたような眼差しで真哉はひらりと片手を上げた。やんわり女子から逃れた二人が、何故か近寄ってくる。げ。この二人って、山根くんと仲良いんだっけか? 意外な。
「あ、おはよう小木山さん、木村さん」
 人を食ったようなきらきらしい顔で譲が微笑む。なんともついでみたいな挨拶だ。ははぁん、と心中斜に構えて、芒は一応、おはよと返した。笑未はほんの少し眉をひそめて、直ぐに柔らかく微笑みながらおはよう本田くんと告げる。……怖い。
「はよー。小木山、今日はサボんなよ」
 にやにや笑いつつの利一の言にいささかむっとする。失敬な。それじゃあ二日連続サボったみたいじゃないか。何のことを指しているのかは昨日の今日で分かっているので、確認はせずに言い返す。
「昨日だってちゃんとやったよ」
「んー。小木山さあ、でも明日までだぜ、当番」
「え?」
 明日?
 思わず無防備な顔になった芒と同じ用に、真哉も鳩が豆鉄砲喰らったみたいな表情になっていた。うーん、似合うなぁ。多分、そう思ったのは、芒だけじゃない。なんせ笑未はぷくくと口許を押さえ、譲は微かに俯いている。あれ、絶対笑ってるな。
「なんで?」
「何でっておまえ、大林に変わってもらっただろ」
「あ、それは、うん?」
「おまえらの次って、俺と大林なんだよな」
「え」
 えええ。
 うっかり、芒は思いっきり嫌な顔をしてしまった。よりにもよって真哉の後にこいつとは。やきがまわったもんだ、と半分意味も分かっていない言い回しを胸中で使ってみる。利一はニヤリと一層笑みを深めた。うわ、すごい嫌な笑顔。
「よろしくなー」
「……ほどほどに」
「柴崎くんあんまり芒ちゃんに近寄んないでくれる? その笑顔移るから」
「役得だろ?」
「泣くわ」
 ふんっと鼻を鳴らして、また芒の首を引っ張る笑未の言葉も、利一の言葉も、何でどっちも微妙過ぎると気付いてくれないのか。かっくりと肩を落として視線を逸らすと、やっぱり食えない譲の笑顔にぶつかり、芒は無理矢理苦笑気味の真哉の方へ目を向けた。
 ああ。

 人格って、大切だ。









 



 とん、と靴を引っ掛けるように履いて、校門を出る。何故か知らないが下校を笑未だけでなく真哉達三人とも共にすることになってしまった。そりゃあ真哉だけだったら別に良い。未だに流暢とは言えないがのんびり会話しながら心穏やかに帰れただろう。が、しかし。譲に利一である。何でこの二人。芒はげんなりした。
「芒ちゃん、今日って、買い物してくの?」
「ううん、明日にする」
 今日は早く帰ってコロッケを作ろう。確か油新しいのを買ったんだった。
「何々、買いもん? 行こうぜ行こうぜ」
「何を買うの?」
 ……人の話を聞いてない。
「買わないって。今日は帰る」
「……ごめん、小木山」
 額を覆って言う真哉が何だかものすごく苦労性に見えた。この二人の友人ならそれも分かるなぁ、と哀愁の背中を叩きたくなる。
「ん、違う違う。最初から、明日いくつもりだったから。えー、と、気にしないで」
 ぎこちなく言って芒はへらりと笑った。
 学校の柵を沿って歩き、十字路の信号を真っすぐ渡る。てくてく数十歩も歩けば歩道橋が見えてきた。その階段を騒がしく上り、僅かに近くなった空を見上げる。星は見えない。未だ昼間の空は、青白く細い三日月がひとつ、ひっそりと在るだけだ。
 つと目を細めて、けれどすぐ、芒は目を伏せた。明るい青空から視線を逸らし、言い合う利一と笑未に苦笑を向ける。
「小木山さん、そんな後ろに居ないでもっと前にいったら?」
「最後尾の方が落ち着くん――――」
 言いかけて、芒はひゅっと息を呑んだ。微かに。きっと、誰にも気付かれないくらい、小さく。
 本当は美中年の見掛けは美青年が歩道橋の下を歩いていた。隣にいるのは灰色のスーツをお洒落に着こなした茶髪の女性。その後ろを、よく見覚えのある中年の男が即かず離れずの距離で歩んでいる。
「……小木山?」
 ふっと芒は呼び声に顔を向けた。真哉だった。口を開きかけて、きゅ、と閉じる。噛み締める。そうして僅かに笑んだ。
「何でもない」
 お決まりな台詞だな、と言いながら思った。



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