11 芒、乞い願う。







 死の間際ですら、彼女は美しく微笑っていたのだ。
 不敵に、彼とその子を愛して。






   *







 あのひとは本当に、女性のエスコートというものを知らないんだなぁ、と芒は辛辣に父を評した。

 新品の油のボトルを開けて、フライパンにかけると、じゅわ、と音を立てて弾けた。それからパサパサした白っぽい生のままのコロッケを菜箸でひょいと入れる。また灼けるような音がした。背が足りないので足台を使っている為、台所はいまいち身動きが取り辛い。じゅっ、じゅっ、と生コロッケがコロッケになっていくのを見つつ、野菜は何があったかな、などと考える。キャベツがあると良いのだが。
 こんがり色づいたコロッケ達を大皿に移し、コンロの火を止める。よっこらせ、と足台から下り、芒は冷蔵庫の、野菜室の取っ手を引いた。ごろごろと重い音を立てて開いたそこにある野菜は人参、キュウリ、もやし、かぼちゃ。…あれ、キャベツ、買ってなかったっけ。がーん、と少々肩を落として彼女は人参とキュウリの袋を取り出した。ドレッシングはあった筈だから、まぁこれを添え物にしてしまえばいいか、と戸棚から包丁を引き抜く。まな板を綺麗にして両方の野菜をさらさらと洗う。それからざくざくと人参を切った。続いてキュウリ。
(……谷口さん、と、益信おじさん、かなぁ)
 益信は小さい頃から何くれとなく良くしてくれた、父の友人だ。……何故あんなに微妙な距離で二人と歩いていたのだろう。相変わらずよく分からない。
 冷蔵庫から牛乳とドレッシングを探し出してテーブルに持っていく。小皿と料理も持っていく。ふう、と一息ついて、椅子を引く。多分、もうそろそろ父も帰ってくる筈だ。芒は大抵、夕飯は一人で食べる。だが週に三度くらいは良夜が早めに帰ってくる日があるので、そういう時はじっと椅子に座って待っている。今日がそれだ。
 テーブルに並ぶ料理にはラップが掛かっていない。良夜が嫌がるからだ。相手をどれだけ待たせたか、忘れないようにしたいらしい。親馬鹿というより、多分、間に合わないことを恐れているからだ。それは芒も同じなのだろう。あとで死ぬ程後悔することが怖い。“間に合わなくなる”引き金を引いてしまうのが怖い。トラウマなんて上品なものではなく、ただ、経験による慣れとでも簡潔に名付けた方がずっと正確だ。刃物に触れば扱いに気をつける。それと同じに。
 ガチャ、と金属らしき音が鳴った。玄関だ。良夜が帰ってきたのだ。滑るように椅子から降りて、ダイニングのドアから顔を覗かせる。思った通り、父が騒々しく帰ってきたところだった。



 芒は何故かいつもの三倍は疲れたていの父を、しゃがみ込みながら眺めた。
「……すすき、」
「ん」
「ただいま」
「おかえり。……やっかいごと?」
「うん、ちょっとね。ところで今日の夕飯は?」
 苦笑しつつ立ち上がった彼は、とても綺麗に流して訊いてくる。だから芒はうん、と一つ頷いて、コロッケ、と端的に答えた。ほうほうと嬉し気な良夜の様子にほっとして、芒はこっそり胸を撫で下ろした。
 スーツから普段着に着替えた父と一緒に手を合わせる。いただきます、と静かなダイニングに高低の差が在りすぎる声が重なった。
「テレビつけていいよ」
「んー……、何がいい?」
「何でも」
 何でもって言われても。
 むぅ、と困った芒だったが、暫くしてからそういえば今日は金田一耕助の何かがやっていたような気がする、と思い出して緩慢にリモコンを操った。軽快な音楽と共に液晶画面の向こうで綺麗な女性が「ご利用は計画的に!」とハートマークのつきそうな口調で宣伝をしている。計画的になるのはご利用したあとだよなぁ、と益体もないことを考えた。うんうん、美味しくできたねぇ、などという蕩けそうな声音に呆れて、だけどほんの少し嬉しくなりながら、でもサラダ作れなかった、と不満気に返す。ああ買い足さないとねぇ、と一旦食べる手が止まったので、じゃあ明日買って来る、と芒はコロッケの欠片を一口に頬張った。ちょっぴりぱさついた油っぽさが少ないコロッケは、父が言うほど美味しい感じはしなかった。まぁ、いいか。でも。
 母さんなら、美味しく作るコツを知っているんだろうか、なんてふと思った。
 あんまり記憶がないから、もしかしたら母はとても料理が下手だったかもしれないけれど、もしかしたら上手かったかもしれない。ならば母の作り方を、ほんの、ほんの少しだけ、教えて欲しかった。他ならぬ母から。
 芒は人参にフォークを突き刺して、ゆっくり瞬いた。
「……父さん」
 呼びかける。
 父は、横溝正史の恐ろしさにおののきつつ、威厳も何もない顔で、うん? と聞き返してきた。より正確に言えば、うううう、うんっ? だったが。怖がり過ぎである。
「……あのさー」
「なんだ娘よ。ところでチャンネル変えないかっ?」
「……」
 仕方ないな。
 多少眉間に皺を寄せて、しぶしぶリモコンを渡す。引きつった笑顔で良夜は旅番組に変えた。……何故旅番組。しかもイタリア食道楽の旅。いやまぁいいけど。
 ずず、と芒はコップの水を湯のみの茶みたいにすすった。
「父さん、好きな人、いるの?」
 良夜はぴたりと手を止めた。
 数秒、己の娘を見る。凝視する。芒はぼんやりと答えを待った。
 良夜は笑った。
「……ああ、いるよ」
 芒はもう一度瞬いた。
 ひどく、優しい笑みだった。透き通るように。淀みなく。
 だから芒は俯き、沈黙し、ぬるい水を飲み干してから、そっか、と呟いた。
 良夜は芒を自分の子供として頭を撫でるけれど、“年下の人間”として扱うことはない。だから芒が危なげに夕飯を作っても、嗜めはしても取り上げない。けれどこうして「美味しいよ」と軽やかに褒めてくれる。とても不器用な育て方だ。と、娘でも思う。それでも彼は、芒が一人で生きられるようにしたいのだろう。どんなに親馬鹿をしても、だが。
 だからこういう時も、良夜は柔らかな誤摩化しは言わない。だから。
 だから芒は、父がとても、好きなのだ。
「そういえば、芒はー、そのぅ、好きな子とか、出来た?」
「嫌そうに訊かれても」
「いるのッ?!」
「……いないよ。友達は出来たけど」
 ふと過った顔を思って、そう付け加える。良夜は思い当たったように、というかあからさまにほっとした様子で何度も頷いた。
「ああ、山根くんだったっけ? 良かったなぁ。今度笑未ちゃんと遊びに来てもらったらどうだ」
「やだよ、散らかってるし」
「……芒は日に日に母さんに似てくるなぁ……」
 がっくり肩を落とす父を横目でちらりと一瞥して、芒はぱんと両手を合わせた。ごちそうさま、と呟いて皿を集める。
「ああいいよ、今日は父さんがやるから」
「え、……うん」
 ありがとう、と戸惑い気味に言うと、良夜はゆっくりと微笑んだ。
 何かを、思い出しているような、表情だった。









   *







 彼女は浮き足立っていた。

 丹念に手入れした爪から、慎重に付け爪を剥ぐ。きらびやかに、それこそ仕事をするのと同じくらい真剣に飾り付けた、今迄で一番の出来のそれを、ピルケースに放り込む。
 ああ、なんて幸せ。
 うっとりと頬を挟んでベッドに転がる。年齢を裏切る容姿に優しい声。職場ではよくよく人気のある人だけれど、それも当然だ。と、彼女は思う。入社した当時から密かに憧れを抱いていたが、どうやらこの想いはいつの間にかもっと深いものに昇華していたらしい。愛妻家で親馬鹿とはこの前初めて知ってショックを受けたものの、今はそれも気にならない。
 娘さんだというあの可愛らしいお嬢さん。
 にっこり微笑んだ顔は天使のようだった。大丈夫、と彼女はわけもなく確信する。大丈夫、きっとあの子とも、仲良くなれる。本当のお母さんみたいに。
 ふふ、と頬を染めてうさぎのぬいぐるみを抱きしめる。先日見つけたばかりのお洒落なピンクのうさぎだ。この歳でもぬいぐるみが好きなんて、嫌われるだろうか。でも、あの子は親近感を持ってくれるかもしれない。そう考えれば何もかもが薔薇色に染まってくる。
 彼女は浮き足立っていた。
 今にも空を飛んでいってしまいそうなくらいに。


 
 

 ――――ああ、早く明日になりますように。



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