13 芒、遊園地に行く。







 誰かを想うことが、これほどに難しいことだと。
 一体誰が笑わず聞いてくれることだろうか。



  *



 良い朝だった。
 少なくとも何らマイナス効果のある朝ではなかった。
 ちゅんちゅんちゅん、と今時珍しい鳥の鳴き声が窓の外から騒がしく飛んできて、挙句に目覚ましがけたたましい音を鳴らしたがそれも大したことではない。少なくともそれなりに良い天気で、雨も降らず洗濯物も無事、布団は温かいという三点において良い朝だった。だがしかし。
 あくまでそれは朝の話である。
 久しぶりの日曜日にほくほくしつつ、芒はのっそりと起き上がり、パジャマから着替えて居間に向かった。のだが。
「ああおはよう、芒ちゃん。久しぶり」
「――――え」
 耳慣れない声に、芒はばっちり眼を醒ました。……え。
「……益信おじさん?」
「うん、久しぶりだぁな。元気か?」
 顔色は良さそうだがなぁ、と益信が笑う。
 益、信、が。
 芒は硬直した。
「……な、何で」
 益信おじさんがいるんだ。こんな朝っぱらから。
 ごくごく当然の如くテーブルに座ってコーヒーを飲んでいる。ふわりと漂う香りが香ばしい。その対面ではここ最近珍しく続いている早起きの父がのほほんと手を振っていた。
「おはよう芒。良い朝だねぇ」
 その古典的挨拶に何か酷くもの申したい! でも思いつかない!
 軽くイラッとして、だが一応「おはよう」と返し、益信に近づく。そろそろと窺うと、彼はにっこりした。ほんの少し、構える。なんというか、何か含みがある顔に見える。昔からこの人はこういう、微妙に油断ならない人だった。と、芒の記憶にかろうじてそんな懸案事項が引っかかっている。
「芒、ごはんをよそうから、少し益信の相手をしてやんなさい」
「おいおい普通逆だろ。まったく人を寂しい子犬のように。失礼な」
「子犬って……可愛く良い過ぎ」
 冷たい目で言って良夜が立ち上がる。芒が何か言う間もなく彼は台所へ行ってしまった。仕方なく椅子に滑り込む。益信の方をそろそろと窺うと、彼は相変わらず読めないにっこり顔で芒を見ていた。凝視だった。……居心地悪い。
「え、と」
「おっきくなったなぁ、芒ちゃん」
「あ、う、はい」
「いい、いい。敬語なんて使うな、さぶいぼが立つ」
 うんざりと言い、大仰に手を振る。芒は苦笑いした。懐かしい。昔も、喋るのが下手な芒が気にすることのないように、大袈裟に振る舞って、うるさいと良夜に怒られるくらい朗らかに笑っていた。相変わらずだなぁ、とほっとしてしまう。
「うん。おじさん、何でこんな時間にいるの?」
「うん? それはまぁまた後のお楽しみな」
「……朝ご飯食べにきたの?」
「それもある」
 あいつの飯は美味いからな、とまんざら嘘でもなさそうに言う。箸箱から二組箸を取り出して、一組手渡してくる。……何でそんな自然なんだろう。
「でもまあ、今日は遊びの誘いにな」
「遊び?」
「そ。遊園地、行こうな」
 …………はい?
 ぼと、と受け取った箸が落ちた。
「みそ汁これくらいでいいか……――って、おまえ何勝手に出してんの」
「いいだろ別に。お、美味そう。うちのより主婦っぽいなおまえ」
「いやいいけど。加奈さんだって上手だろう」
「年季と気合いが違う」
 言い合い始めた二人をぼんやりと見ながら、芒はこっくりと首を傾けた。
 ………………つまり、どういうことだ。


  


 

「うわ」
「あー」
 嫌そうに顔をしかめた少女の姿に、真哉は思いっきり腰を引かせた。がさ、と買い物袋が揺れる。
「……山根くんだー」
「き、木村……買い物?」
「そりゃそうでしょー。山根くんは、あとの二人、いないわけ?」
 警戒するように辺りを見回す笑未のカンは当たっている。冷や汗を掻く彼の後ろから、わらわらと友人達が出没した。出没。まさにそんな感じ。……あからさまな舌打ちが聞こえた。こ、こわ。
「あんれ、木村ー? 小木山は?」
「生憎一人です。芒ちゃん、日曜は大抵のんびりしてるし。邪魔したくないもん」
「へー、小木山ってそんなじいちゃんみたいな奴だっけ」
「失礼なこと言わないでよ。芒ちゃんはくーるびゅーてぃーなの」
「……木村さん、それ意味分かって言ってる?」
「さあ」
 おお、ユズがちょっと負けてる。木村、恐るべし。真哉は密かに彼女を尊敬した。ユズって、見た目も頭も良いから、サクッと女の子たらすんだよな。
 利一はふーんと呟きながら、くるくると鞄を回した。危ない。平手で止めてやると、ちょっと目を眇めて肩にかけ直す。……譲も利一も大分性格が違うというか対極にあるような人間なのに、昔から何でか一緒にいる。永遠の謎の一つだ。うん。
 日曜のデパートはわりと混んでいる。
 がやがやと騒がしく人々が行き交う中で何故自分達は眼鏡ショップの前でこんな問答を繰り広げているのか。良い加減迷惑だよなぁ、と真哉は利一の襟を後ろから引っ張った。
「うお、なんだなんだ」
「ちょっとどくぞ。邪魔だし」
「あ、そうだね」
「何で俺だけ迷惑みたいなことになってんの?」
「一番危ないじゃない。鞄とか回しちゃって」
 冷ややかな木村から利一はさっと目を逸らした。さもありなん。
 文具店の方へ移動し、隣接するたいやき屋でそれぞれ好きなものを買う。真哉はカスタードにした。譲は苺大福たいやきを選んでいた。……それは美味しいのか。
「ん、半分いる?」
「どんな味?」
「……半端に煮詰めた苺?」
「…………いい」
 なんか微妙。
「本田って結構チャレンジャーね」
「ユズは敢えてああいうの選ぶんだよなー。あんこで良いじゃん、普通に」
「折角お金払うんなら変わったものが良いんだよ」
「分かんないわー」
 むぐ、と尻尾を飲み込み、紙を畳む。指についた食べカスをぺろりと舐めとった。うん、なかなか美味しい。
「そういえば木村、今日一人?」
「うん。ちょっと必要なものをね。麻子ちゃんとかも誘ったんだけど、発表会らしくて」
「へー。……木村って、一人で出掛けたりするんだな」
「柴崎、それどういう意味?」
「いやーはっはっは」
 何だかんだで仲の良い二人だ。
 小木山もいれば良かったのになぁ、とゴミ箱に紙を捨てる。譲も続いて投げ入れた。そうしながら、ああ、と何か企んだ顔になる。真哉はちょっとげんなりした。こういう時のユズは、トシよりたち悪いんだよなぁ。
「そうだ、今度小木山さんも誘って、どっか遊びに行こうよ」
 …………木村、頼むからそんなに嫌そうな顔しないでくれ。





 佳織です、と芒より一つ年上の少女が手を差し出した。
 益信の娘だという彼女は、ちょっと癖っ毛の、にこにこした可愛い人だった。
 そういえば益信おじさんの娘さんって、会ったことなかったなぁと新鮮な気分になりながら芒も名乗る。それにしても。
 ――それにしても、何でいきなり遊園地。
 意気揚々たる佳織に手を引かれながら、かぼちゃの馬車に乗る。メリーゴーラウンドだ。ごうん、と鈍い音を立てて回り出す。うろこ雲みたいに景色が流れていく。ぐわん、ぐわん、と緩やかに。益信とその妻の加奈が、良夜を囲んで話しているのが遠目に見えた。
(……本当に仲良いんだなぁ)
「あー、お父さん達、見えるね!」
「うん……なんか話してる」
「ねぇ、なんだろね。わざわざ私まで引っ張り出したんだもん、なんか面倒なことなんでしょ」
「え」
 さらりと言われた言葉にぎょっと振り返る。佳織はにこにこしたまま、でもちょっとだけ困ったように渦巻く柱を掴んだ。肩までの髪がふわっと宙に浮く。多分、芒も同じようになっているのだろうけれど。
「私ねぇ、ずっと芒ちゃんに会ってみたかったのよ。でもなかなか会えなかったし、お父さんも、また今度なーって言ってばっかだった。お父さんって、ちょっと含みある人だから、お母さんといっつも言ってるのよ。困ったものねぇ、って。でも今日に限って、芒ちゃんから芒ちゃんのお父さんを離して、私の相手させて、ぐだぐだ話し込んでる。なんかあるに決まってるわよね」
 私達、そんなにおばかじゃないわよねぇ、と。
 しょうがなさそうに彼女は笑う。芒は吃驚して、微かに目を瞠り、同じ様に笑った。ピ――――、と高い音が鳴り、メリーゴーラウンドが停止する。ごと、と大きく揺れる機体に掴まり、完全に止まってから下りる。佳織は子供みたいにまた破顔してぱっと手を差し出した。芒が手を伸ばすと、届く前に躊躇いなく握られる。びくっとする芒なんてお構いなしだ。転ぶ心配など露ほどもしない走り方で益信達の方へ駆けていく。
「お、とう、さん!」
「うお、佳織。おまえ、なんか阿呆なこと言ってないだろな」
「何言ってるの、私がお父さんの娘って考えれば、ちゃーんと分かるでしょ?」
 益信はがっくり肩を落として妻を見る。加奈はさらっと黙殺して腕組みしながら何事か良夜に話しかけていた。
 芒は双方を交互に見やり、ちょっと黙り込む。それから何だかばからしくなって、
「父さん、あたし、なんか飲み物買って来るよ」
 だから好きなだけ話してて、と呟き、無理矢理財布をもぎ取ってから、佳織を連れて自動販売機の方にのたのた歩き出した。




 ガコン、と缶ジュースが落ちてくる。
 ごろごろと転がして吐き出し口から取り出し、佳織に手渡す。そうしてからもう一度、小銭を入れて、ブラックコーヒーのボタンを押す。ちょっと振り返っても、良夜達の顔は見えない。大分離れたようだ。観覧車の列にぶつからないようにしながら、開いているベンチに移動する。缶を数えているとひとつ、真上から缶を取り上げられた。
「えらいねぇ、本当に買ってあげるなんて」
「益信おじさんと父さんのお金だし」
「うちのお父さんに全部おごらせても良いんだよ?」
「それはまた今度」
 そりゃあいい、と佳織はニヤニヤした。こきつかってやってね、なんて続ける。芒は呆れて彼女を見上げ、だけどふっと口許を緩める。と、何故か眼をまん丸くされた。ちょっと面食らう。うん?
「……え、なに?」
「芒ちゃん、もしかして緊張してた?」
「え、」
「ごめんね、私、気遣い下手なんだよねぇ。見透かしてやり込めるのは得意なんだけど」
 それはどうだろう。
 えーと、と反応に困った芒だが、とりあえず首を振っておいた。これは、緊張が溶けたとか、そういうのとは違う。ちょっとだけ、どうでもよくなったのだ。きっと、芒が考えても悩んでも慮っても仕方ないことを、大人達は話している。きっと、何か言っては駄目なんだろう。どうして益信が自分をここに連れてきたのか、そんなことは分からないけれど、終ってみれば大したことではないのかもしれない。だから芒が頭を使うのは、多分、いらない世話なのだ。
 そのようなことを、なんともなしに口にする。佳織は何かを言おうとして失敗したみたいな顔になった。目を伏せて、開く。
「どうして大人と分けてしまうの」
 考えながら、口にするような話し方だった。
「ねぇ芒ちゃん。そんな風に、そういう言葉を使うのは、あんまり健全じゃないよ。それは、もっと、下らない言い訳とか、感情が入らない場所で使う言葉だ。それでないならもっと温かく使わなきゃ。そんな風に、こらえる為に使っちゃ、芒ちゃんが可哀想だよ。だって、」
 だって?
 ひんやりした缶の冷たさが指に痛い。紅葉の色がちらついた。芒はぼんやりと佳織を見る。額を寄せて、眉まで寄せる佳織の顔を。
 じんと頭の芯に沁みるみたいに行き渡る言葉の意味が、分からなかった。分かりそうで、だけど分からない。温かく使うには、どうすれば良いのだろう。だって、そんな風に、思ってしまったのだ。――だって。
 だって、あたしは、あたしの手は、何も返すことが出来ないのに。
「だって、きっと、芒ちゃんのことでしょう」
 だけど、なのに、佳織はそんなことを言う。
「……あたし?」
「そうだよ。よく知らないけど、だって、わざわざ機嫌取るみたいに、こんなとこ連れてきて。良いんだよ文句言ったって。何がしたいのバカじゃないの意味わかんないんだけど、って聞いてやって良いんだよ。そんな風に溜め込まなくたって、壊れたりしない」
 まるで、壊れてしまうと思ったことがあるみたいな、言い方。
 だけどそうだろうか。本当に? けれども人は、たまにとんでもなく脆くて、自分も知らずにいた怪我を突かれるみたいに、崩れる。一度痛いと思ったら、気付かなかった時には戻れない。それは。
 それは、とても、かなしい。
(あたしは、そこまでして、そうなってほしいものなんて、ないから)
 ひとつ、とても我が侭な願いがあるけれど、それはどうやっても叶わないことだ。だから、もし父が望む何かで、自分に不具合のようなものがあるなら、それは芒がちょっと我慢すれば良いだけのことのように思う。きっと、今佳織が思うより、芒が考えるより、簡単で、やっぱり大したことじゃない筈なのだ。
 あれ、とふと芒は瞬きした。
 佳織は、もしかしたら良夜達の相談事を分かって分かっているのだろうか。分かってしまったから、こういうことを言ってくれるのだろうか。
「……佳織ちゃん」
 呟くように名前を呼ぶ。ジェットコースターから甲高い悲鳴が聞こえた。どこか楽しげな、遊園地らしい悲鳴。ごうっと風を切る音も。それから水飛沫。
 それに混じって、かつんとヒールの鳴る音がした。
 こんな遊園地で、そんなものは別に珍しいものじゃないし、響くようなものでもない。だけど芒に耳には一番大きく聞こえて、空気に押されるようにして横を向いてしまう。綺麗な茶色い髪のひとと、目が合った。くるんと上品に巻いた髪。鮮やかなネイル。
「あら、芒ちゃん?」
 白いボレロの形のハーフコートがお洒落なひとだった。佳織が不思議そうに彼女を見上げる。
 芒は特に表情を変えずに、谷口さん、と呟いた。
 こぼす吐息のような声で。


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