夕暮れが似合うと誰もが言った。でも、違う。
 彼女に似合うのは、青。






14 芒、対峙する。








 きれいなひとだな、と改めて思った。淡いピンクから薄紫へのグラデーションに宝石のような飾りが盛られたネイルも、くるくると下の方で巻かれた茶色の髪を止める花の形のピンも、首もとを彩るスワロフスキーが埋め込まれた金細工のネックレスも。今日の服装にいちばん合うものを選んで、いちばん彼女をきれいに見せる。薄い色のグロスが陽に輝いて、アイラインに添えられたラメがきらめく。両耳から下がる星を連ねたイヤリングが儚げに揺れた。
 儚い、は母の代名詞だったな、と芒はふと思い出した。父の話を聞く限りかなり元気なぶっ飛んだ人、というイメージしか浮かばないのだが、どうやら、生前の母を知る人にとっては、それが共通の認識だったようである。
 それが、自分のなかですっきりこないのが、少し悲しい。
「……芒ちゃん、知っているひと?」
 佳織におそるおそる声をかけられ、芒はハッと我にかえった。あ、うん、と曖昧に頷く。どう言えばいいのだろう。父の会社のひと、というのが正しいだろうか。考えている間に谷口鶴花が親しげな笑みを浮かべ、ねえ芒ちゃん、と明るい声を出した。
「ちょっとお話できないかしら。私、ずっと貴女と会いたかったの」
 彼女は浮き足立っているようだった。否とは言わせぬ空気に微かに不快な気持ちがもたげたが、芒は大人しく了承した。心配そうな佳織にちょっと笑って、両手を拝む形に合わせる。
「ごめん。ジュースお願いしてもいい? さきに戻ってて」
「え、でも……大丈夫?」
「うん。ごめんね。――――じゃあ、谷口さん、行きましょうか」
 一瞬、声が震えた。
 でも、気付かれなかったと思う。少なくとも、鶴花には。
 彼女はすぐに「ええ、行きましょう!」と満足そうな笑顔になったから。



 遊園地は好きだ。随分前に、父に連れてきてもらったきりだったけれど、遊びに行くと聞けば、やっぱり嬉しい。ちらりと家計の心配が脳裏を過るが、せっかくの誘いに水を差すほど。ジェットコースターもメリーゴーランドもコーヒーカップも楽しい。身長制限のある絶叫マシンにひっかかると、早く背が伸びればいいのに、と悔しくなる。すれ違う誰もが楽しげで、ワゴンで食べ物やグッズを売る売り子の声に気分が弾む。路上で大げんかしているカップル、大泣きする迷子を慌てて迎えにくる母親、セーラー服やブレザーの集団。真っ黒な学ランを腰に巻いた男子学生。芒と同い年くらいの小学生たちが親を置いて芒たちの横を駆け抜けていく。
 鶴花はとりとめのない話を続けていたが、ホラーハウスの前を通り過ぎたとき、ふっと口をつぐんだ。なんだろう、と窺うと、微笑み返される。
 この微笑は、なんだろう。
「芒ちゃんは、遊園地は好き?」
「はい」
「そっか。じゃ、マーリンは?」
 彼女が指差したのは、鞄についているキーホルダーだった。この遊園地のテーマキャラクターの、ぬいぐるみマスコット。青いうさぎだ。冠をかぶっている。芒はこくりと頷いた。可愛い。
「うふふ、私もすっごく好きなの。この遊園地ね、私が丁度芒ちゃんぐらいの年の頃にできたのよ。クラスで話題になって、もう、連れてってー、ってしつこいくらい両親にせがんで」
 懐かしむような眼差しが建造物の遠く向こう、きっと幼い彼女が遊び回った過去を見る。それはとても平和で、今、芒たちの目の前に繰り広げられる光景のように平和で、美しく、傷一つない世界。
「父は忙しかったけれど、私の強情に結局折れてくれて、母は私と同じくらい楽しそうだった」
 想像する。仕方ないなあ、と苦笑する父親。子供の手を引く優しい母親。笑顔であれに乗りたいこれに乗りたいとねだる子供。想像するのは簡単だった。よく似た姿が、この遊園地のなかで見飽きるほど闊歩しているのだから。
「今は、行かないんですか?」
 鶴花はきょとんとしてから、そういえばないわね、と弾けるように笑った。
「今は、親とこういうとこにくることって、少ないわねえ。ときどき買いものとかには行くけど」
 そういうものなのか。
 てくてくと歩くうち、海の世界ゾーンに入った。ごつごつした人工の岩が、歓迎するように華やかな道を作っている。ここのゾーンは、子供向けの遊具が多いので、他のゾーンより家族連れが多い。クラゲのぬいぐるみを持った男の子が、おかあさーん、と大声を上げて、短い髪の女性のもとまで走っていく。
 それを見ていた鶴花が、くるっと振り返り、腰を屈めて芒に目線を合わせた。
「ねえ、芒ちゃん」
 優しくて、ふわっと甘くて、それから花の匂いのする声。おんなのひと、の匂い。
「お父さんは、すごく頑張っていらっしゃるよね。でも、それでもやっぱり、芒ちゃんの傍にいられる時間は、少ないでしょう」
「そんなこと、ないです」
「でもね、たとえばこうやって遊園地にきたり、ショッピングモールにお買い物に行ったり、授業参観にきてもらったり、簡単に気軽に頼むのは、芒ちゃん、あんまりないんでしょう?」
 優しい優しい声が、じわじわと絡みつく。それは、その通りだと、芒は思った。でも、それを嫌だと感じることは、そんなにない。鶴花はそうは思わないようだけれど。
 たぶん、優しいひとなのだ。だって彼女は、さっきからずっと、歩く速度を芒に合わせてくれている。
「お母さんがいればいい、と思ったことはない?」
 なおも優しい声は続ける。
(そんなこと)
 あるに決まっている。
 芒は、ずっと、思ってきた。
 母さんが、いればいいのに、って。
 そしたら――――

「ねえ、私が芒ちゃんのママになるって、どうかな」

 とても嬉しそうに、とっておきの秘密を明かすみたいに、どこかはにかむように、それはとても完璧な表情で、彼女は言った。
 ああ、やっぱり、とその申し出はすとんとお腹の底まで落ちてきた。彼女はそれを言うために、芒を連れ出したのだ。谷口さんは、優しいひと。それから、父さんのことが好きなひと。父さんと一緒になりたいひと。
 芒はぼうっと鶴花を見上げた。期待に満ちた眼差しに、一瞬意識が昏くなった。けれども反面、しんしんと胸の奥が冷えていく。
 どうして、あたしに聞くんだろう。
 芒にはよく分からない。分かるけど、分かりたくない。だって、聞かれたって仕方がないのに。視界は一瞬でモノクロに変化して、何もかもが味気なくて、うんと遠くに感じた。
 鶴花は芒の返事を待っている。だから、何か言わなければいけない。少し考えて、でもすぐにどうでもよくなって、ぽつんと放るように告げる。
「それは、あたしの意見なんて、あんまり関係ないんじゃないですか」
 淡々とした声が出た。驚いたように鶴花が瞠目する。
「だってそれって父さんと結婚するってことでしょう。養子、とか、そういうのじゃ、ないし。どうって言われても、そんなの、父さんと鶴花さんがどうなるかが問題で、あたしがどうして欲しいって言ったって仕方ない、です。谷口さんが父さんに好きになってもらわなければ、意味、ないですよ」
 肯定以外の言葉を貰うなんて思いもしなかったらしい鶴花が、茫然と芒を見つめている。その視線がいたたまれなくて、それから煩わしくもあって、芒は微かに眉根を寄せた。
「……あたしに好かれても、仕方ないでしょう。聞くなら、父さんにです」
 沈黙に首を絞められるようだ。
 重たくて、息苦しい。何か間違えてしまったような気がした。だけど他に良い言い方は思いつかなかった。
「お話それだけなら、あたし、そろそろ戻ります。佳織ちゃん、待ってるから」
 失礼します、と職員室から出るときみたいに小さな声で言って、芒は逃げるように走り出した。





「何で本田くんたちと遊びに行かなきゃいけないの」
 不機嫌ダダ洩れの顔で言われ、真哉は胃がキリキリする思いだった。なぜ俺に聞く。譲に視線を向ける。が、相変わらずの紳士みたいなきらきらしい微笑みで黙殺された。さらに胃痛が酷くなった。
 そしてこういうとき、利一は必ず譲に同調するのだ。
「えー、いいじゃん。そういや小木山と遊んだことねえなあ」
 予想通り、利一はニヤニヤ楽しげに口許を緩ませながら追従し始めた。その顔がふっと真哉に向いた。
「なあ、真哉」
 だからなぜ俺に振る。
 べつにどっちでもいいよ、と言いかけた彼の言を遮り、譲がうんうんと勝手に頷いた。木村、どうして俺を睨むんだ。俺はまだ頷いてない。
「……あたしに聞かないで、芒ちゃんに聞けば」
「だって、木村さんも行くだろ」
「それは…………すごい嫌だけど」
「何でそう嫌がんだよ」
 利一が心底不思議そうに尋ねると、笑未はちょっとばつの悪そうに買い物袋をがさがさ言わせた。
「なんか、関わると面倒そうだし。巻き込まれるの、やだ」
「ひでえ!」
 真哉は笑未の気持ちがとてもよく分かった。
「芒ちゃんはあんまり気にしないと思うけど、気にしないから、もっと泥沼になりそうで、それを思うとさらに近寄ってほしくない」
「木村さっきから何で俺の方ばっか見て言うの?」
「柴崎くんがいちばん鬱陶しいから」
 ばっさりである。
 なんだかんだで丸め込まれている笑未から目を逸らすと、譲がにやっと邪悪に笑った。さらに目を逸らす。それからふと思った。
(そういえば、小木山は今日、どうしてんのかな)
 どうせまた、明日会えると分かっているけれど。




 間違えた、と気付いたのは、大分走って息切れし始めた頃のことだった。立ち止まって荒くなった息をただす。
「反対方向だ、これ……」
 建物の影でがっくりとしゃがみ込み、あちゃあ、と額を覆ってから、長い長い息を吐いた。先程鶴花に言えなかった言葉が、ゆっくりと胸を突いて溢れてくる。
(あたしは、淋しくない)
 もし無意識に淋しいと思っているのだとしたら、それは『母さん』がいないことで、母親がいないことではない。『母さん』がいてほしいと芒は何度も思うけれど、母親がいてくれたらいいと残念がっているわけじゃない。
(だって、母さんがいたら――――)
 
 父さんは、もっと幸せなのだ。

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