2 チョコレートケーキを食べる。







「これ」
 芒はショウウィンドウの中の黒っぽい物体を指差した。
「チョコケーキ?」
 父の、ぽわわん、とした声に無言で頷く。芒はちらりと良夜を見上げた。父はやっぱりぽわわんと穏やかに微笑んでいた。微笑みながらうんうんと首を縦に振っている。
「……良い?」
「もちろん。すみません、このチョコケーキの、ワンホール下さい」
「かしこまりました。1798円になります」
 芒は店員の声にほっと息をついた。やっぱりここにして良かった。あまり大きな違いはないけれど、このケーキ屋さんがこの近辺では一番安いのだ。芒はそっとガラスケースの中を盗み見た。色とりどりの可愛らしい三角形や四角形やまん丸の小さなケーキが並んでいる。芒はいつも思う。ホールじゃなくてもいいのに。この小さな可愛らしいケーキで充分なのに。大体たったの二人でホールなんて贅沢過ぎるのだ。だけど芒はこの日ばかりは何も言わない。本当は申し訳なさでいっぱいだけど、決して何も言わないのだ。だってこれは父の優しさなのだ。精一杯の優しさなのだ。だから芒は何も言わない。父がホールケーキを買って、自分を喜ばせようとするから何も言わない。代わりに誕生日プレゼントはこのホールケーキが良いのだと芒はうそぶく。本当の本当はプレゼントもケーキもいらないのだけどそれを言うと父が落ち込むからそうやって誤魔化すことにしている。そうすれば、父は何があってもケーキだけは買おうとするので、プレゼント代が浮く。これが最大限の十月十日の節約法なのだ。
「芒、ほら」
 ケーキを買い終わった良夜がビニール袋を掲げる。芒は小さく笑った。
「ありがと父さん」
 良夜はちょっと困ったように、だけど嬉しそうに笑った。



   *




 なんだかんだと言いつつ、芒はケーキが嫌いではない。
「あ、美味しー」
 芒は一口ケーキを口に含んで、ぽつりと呟いた。
「なぁ。チョコレートがこってりだ」
 にこにこと良夜がケーキを頬張る。芒は秘かに父の胃におののいた。どんな胃だ。これで何切れ目だったろうか。顔に似合わずというかむしろ似合ってというか良夜は甘味好きである。チョコレートも大好きだ。女性のベツバラと同じく良夜の腹も甘いものは別腹なのだ。
 芒はかちゃりとフォークを置いた。もうお腹いっぱいだ。芒はだらしなく床に転がった。父が少し咎めるような目をしたが、芒はそろりと目をそらした。ので、彼は諦めたように視線をケーキに戻した。まだ食べるのか。芒はちょっと呆れた。ついでにちょっと気持ち悪くなった。いい加減に食べ過ぎである。
 芒は這いずって近くに放られていた、雑誌のようにぺらぺらした本を引っ張った。ぺらりと頁をめくる。中表紙には『よくわかる節約術』。ふんふんと鼻歌を歌いながらまた頁をめくる、と。
「……すすきぃ、今日ぐらいそんなのは……」
 ――ピルルルルルル、
 良夜の苦い顔がぴたりと固まった。芒はちょっぴり勝ち誇った顔をした。
「出ないの父さん?」
「……全く、…………はい、小木山です」
 ピッと通話ボタンを押し、良夜はケータイを耳に押し当てる。
 芒は興味が失せたとばかりに雑誌本に目を戻した。
「……はい、はい……は?いやちょっと待って下さい今日は……ちょ、前から今日だけはって……ちょっとあの、」
 焦ったような良夜の声。芒はその珍しい大声に一瞬びくりとし、ぽかんと面を上げた。何だ何だ。
「で、ですから……はぁ? 知りませんって……あ、ちょっと!?」
 芒は何となく電話越しからの状況が読み込めた。つまり、父に休日出勤要請がきた、ということだ。……確か今日は有給休暇だった筈だが。あーあ。
 芒はおもむろに体を起こした。
「父さん行ってきなよ」
「そーだよな今日は休み……ってはあ!? 」
 良夜が仰天する。ここでノリ突っ込みとは器用な。芒は適当に手をひらひらと振って続けた。
「父さんそんなでもエリートでしょ。ばんばん稼いできてよ」
「そんな!? 今日は母さんの命日でお前の誕生日だろう!?」
「もう墓参りしたしケーキ食べたし」
「いやそういう問題じゃ」
「いーから行ってきなってー。明日のご飯がかかってるんだけど」
「うッ――ぐぐぐ……」
 言葉に詰まったらしい良夜がつんのめる。芒はぼけっとそれを見る。助けようとはしないのが芒が芒たる所以である。
 がばっと良夜はコートを羽織った。会社に行くのにそれで良いんかい、と芒は思ったが敢えて口にしなかった。
「芒のばか――! 分かったよ行って来るよ――――っ!」
 ばたーん、と騒々しくドアを開けて良夜は飛び出していった。
「……あほか」
 芒は呆れて呟いた。



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