8 芒、戦場前でかの人と会話する。







 スーパーは戦場だ。
 少なくとも、夕暮れ時、つまりは彼ら販売員達の行う戦争の火蓋を切って落とす合図、店が閉まる時間帯のセールの幕開けに、主婦及び主夫達は鬼の形相でお惣菜コーナーに走り卵のパックをつかみ取り肉魚を瞬時にして優劣を定めて取り争う。少なくとも、それが芒の知っているスーパーだ。都会では違うのかもしれないが、都心でも田舎でもない、ごくごく普通のこの街においては、それが最もメジャーなスーパーの有り様だったのだ。そういうわけで、
「む、牛乳……これ、大丈夫かな」
 くっきり眉を寄せて、芒は唸っていた。カゴの中にはこんもりと旬の野菜と果物が盛られている。二十パーセントオフのカレーのルーも。
 暫し、微妙に消費期限の近い牛乳を掴んで悩む。が、うっかり主婦達の波に呑まれてそのままレジまで流されてしまい、結局危なそうな牛乳を買うことになってしまった。
 ……まぁ、いいか。本当に切れている訳でもなし、切れていたからといって腹を下すほどの可愛げがある人間はうちにはいない。もう、母さんはいないんだから。
「――――こんにちは」
 芒は一瞬、それを言われたのが自分だとは思わなかった。けれど聞き覚えのあるその声が至近距離で響き、否応なしに足を止めてしまう。止めてしまってから、気付く。
「……谷口、さん」
 父の会社のひとだった。
 幾度か、顔を合わせたことがある。よく、休日に急に仕事が出来た時などに、安っぽい喫茶店で父と数人の社員達が、膝を突き合わせて話し合っているのを、はたで聞いていることがあるが、そういう時、彼女は決まって父の隣に座っていた。
 芒はぼけらっと谷口鶴花という女性を眺めやった。
 それからちらりと周囲を見回す。今さっき、芒が出て来たところは庶民の味方なちょっとボロさが目立つスーパー。通りはかしましく、汚れが眼につく。……路上に煙草なんて捨てんなよな。
 いやそうでなく。
 今度は眉をひそめて鶴花を見る。
 ……なんてスーパー及び下町の似合わない人なんだ。
 如何にも高級そうなスーツに身を包んだ彼女が、喧しいスーパーがバックにしているとギャグにしか見えない。彼女に似合うのは、百歩譲ってせいぜい駅デパくらいのものだ。でなければ超高級高層マンションとか。
 そんなことをつらつらと考えていると、鶴花はふわりと“オトナのミリョク”を発揮しまくりなまさに淑やかな花の如き笑みを浮かべた。……何故か寒気がした。ああ本当に、失礼かもしれないがこの人は商店街とか似合わない。
「嬉しい、覚えていてくれたのね」
 ――何故妙に馴れ馴れしいのでしょうかパードゥン?
 鼻にかかったような甘い声に、瞬時にそう思ってしまったことを責めないで欲しい。顔が引きつらなかっただけマシだと思う。ちなみに芒はパドゥンの意味を分かっていない。近所に住む少年が使っていた言葉を真似しただけだ。
「……はあ、まあ。えーと、何か?」
 しまった、うっかり適当な口調になってしまった。まず、と思いつつもポーカーフェイスは崩さない。幸い鶴花は全く気にしない態で小首を傾げる。
「さっき、あなたのお父さんが早めに仕事を終られたの。だから早く帰ってあげて? きっと待ってらっしゃるわ」
「ああ、そう、なんですか。それはどうも」
 教えてくださってありがとうございます、と曖昧に口を動かす。がさりとスーパーの袋が音を立てた。中の林檎が擦り合う。
 でもね、と鶴花が頬を染める。少女のように、可愛らしく、けれど大人らしい甘さと上品さを見せて。
「本当は芒ちゃんと、お話をしてみたかったから、貴女を見つけてつい声をかけてしまったのよ。ふふ、恥ずかしい」
 手の平を口元に当ててくすくすと笑う様は、なるほど周囲の人の眼をよく惹き付ける、見事な可憐さだ。それこそお見事、と呟きたくなるような綺麗な会話の流れだった。芒は満面で笑う。
「本当ですか? へへ、照れますね。でも、嬉しいです」
 手首に袋の持ち手を通し、人差し指で頬を軽く掻いて子供らしく、はにかんでみせる。鶴花は両目をとても満足気に色付かせた。勝った、と笑顔の裏で芒は思った。その顔のまま輪kれを告げ、芒は彼女に背を向けて、言われたように家路へ急いだ。



 









 丁度着替え終えたらしい父にカレーのルーを見せ、喜ぶその顔を四秒ほどじぃっと見つめてから、芒はばふっと長椅子に倒れ込んだ。もう何年も前から居座っているそれは、大分傷んでいてほつれが目立つが座り心地はとても良い。買い出し手伝えなくてごめんな、と心底申し訳なさそうに言ってくる父を適当にいなして、芒はぼんやりと頭の中をこねくり回した。
 

 ――――“貴女を見つけてつい声をかけてしまったのよ”? 


 何を言っているんだあの人は。
 あんなお洒落に命かけているような人が、あんな小汚い通りにいるものか。
 しかも、紛れて窒息しそうな芒が、スーパーから出てくる前から見つけられる訳がない。
(小学生だから、分かんないとでも思ってんのかなぁ)
 そうだとしたら随分と舐めた思考だ。それともおかしなことではないという自信がるのか。ならばそれこそ愚かだ。
 ふ、と微笑う。突っ伏しながら。そして直ぐさまどうでもよさそうな無表情にすげ替える。
(まぁ、あたしが気にすることじゃないけど)
 別に父に恨みがあるとかそういうものではなかろうて。
 ただあまり、歓迎したくない感情に由来しているのであろうが。
 ため息をつきたくなってから、昼に困った顔でこちらを見上げていた少年の双眸が眼裏に蘇った。
 高飛車で、我が儘で、面倒臭い少女が、快活で少々大人びた柴崎から鞍替えした相手。どうにも人の良さそうな、少年。
 ……眼差しが、柔らかかった。
 怒って、というより困っていたであろう彼の表情は、それでも怖くはなかった。梯子の天辺で危なげに座って本と開いていた自分を心配するような。そういう類いの色を込めて、彼は芒を見上げてきた。
(……山根くん、か)
 給食当番はあと二日。
 せめて、その間だけはきちんと向かって彼を困らせないようにしよう。どうやら絵里子は、アタックの仕方を間違えて怖がらせてしまっていたようだったから。






   *



『秋穂さん』
 
 彼女を呼ぶ、自分の声がする。柔らかに、彼女は微笑む。たおやかに、穏やかに。儚気に。今にも溶け消えてしまいそうな、危うさで。

 そうして優しく、彼女が僕を呼ぶ。

 消して消えることはないだろう。終生、墓下に入ってまで、なおあの愛しい声を夢に見る。透き通るような、愛してやまないあの声を。


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