優しい人だった。 たぶん、としか言えないけれど。それでも、たぶん、彼女は優しい人だった。 優しくて、父の話を聞く限り、少々変わった、――自分の、たったひとりの母だった。 * 「ん」 くい、と差し出した手を怪訝気に見つめられて、芒は「給食着、貸して」と面倒に告げた。すると大林絵里子はなかなか可愛らしい顔をおよそ平均的な小学生とは思えない凄まじい形相に早変りさせた。怖い。一瞬たじ、と引きかけた芒だったが、昨日の困り顔の真哉を思い出してぐっと踏みとどまる。 「今日は、あたしがやるから」 「何でよ」 いや何でって。 この時点でもう芒の心は折れかけていた。勘弁してくれ。面倒臭いなぁもう、とそうそうに弱音を吐いてやっぱいいです、と返したくなった。だけど芒は頑張った。そう、主婦は押して押して押しまくるのだ! 将来の為にもここは負けちゃいかん。 「さすがに二日も変わってもらうの、悪いし」 「あたし昨日はほとんど山根くんと話せなかったのよ」 「いや知らな……えーと、じゃあ当番、あんまり関係ないんじゃない? じゃ、もういいっしょ。ね、はい。給食着、貸して」 べんべんと上下に手を振る。そうしながら再確認する。――ああ、絵里子ちゃん、苦手。 「何よ、何であたしがあんたの言うこと聞いてあげなきゃなんないの!」 うわちょっと教室内で癇癪起こさないでください。 軽く遠い目になったところに、ガタンと大きな音を立てて絵里子が立ち上がる。ぼけっとしていると睨みつけられた。何か、多分九割の確実で罵詈雑言だろうものを吐き捨てようと彼女の口が開くきかけ、 「ズルは駄目だぞ、小木山」 からりとした声に遮られる。 瞬きをして声の主を見やれば、先日この絵里子少女の執心を退けたばかりの柴崎利一が首を伸ばしていた。 「柴崎。違うって、別にサボるつもりないよ」 「昨日サボったろ?」 「う、まぁ。だから、今日はやるよ」 ばつが悪くなって頭の後ろを掻く。さら、と長い、色素の薄い色の髪が揺れた。揺れて、頬にかかる。鬱陶しくて芒は無造作にそれを払いのけた。 と、ぽんと肩を叩かれる。 「芒ちゃん」 笑未だった。 ふわんと広がる笑みにこっちまで頬が緩む。綺麗な黒髪は、絵里子の栗色と黒の中間色のような髪とは正反対に艶やかだ。 「笑未、なに?」 なんとなく助けられた気分で、首を傾げる。また無駄に長い髪が揺れて、鬱陶しくなる。本当はざっくり切ってしまいたいのだが、良夜が長い方が良いとホクホク顔で言うから、仕方なく伸ばしたままでいた。 母はふわふわした髪を長く伸ばしていた人だった。芒と同じ、色素の薄い小麦色の髪を。 ……どうして同じようにふわふわした髪にならなかったのか。ふとそう思うたびに、何か悔しいようなやるせないような気持ちになる。 「今日、給食当番でしょ?」 「あ、うん。今その話してて……」 言いかけた時、あ、と絵里子と利一が同時に声を上げた。ちょっと高めの、素っ頓狂な声だ。え、と今度は芒が呟く。なんだなんだ。この二人が同時って、なんか気味悪いんだけど。 ――って、あ。 芒は漸く気付いた。 「やっぱり! あのね」 ぱっと笑未が嬉しそうに手を叩く。 「ほら、山根くんが待ってたから、連れてきたの」 にこやかな彼女の背後で、山根真哉が目を泳がせながら立っていた。 きゅ、と給食着の紐を背中で締める。顔を上げると真哉がじっとこちらを見ていた。う。気まずい。何やら待たせてしまったようだ。 「ご、ごめん」 「へ――何が?」 鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔しないで欲しい。どうやら思い違いをしたらしい、と芒はまた気まずくなった。 「なんでもない。えーと、まず、配膳台だよね」 「ああ。で、おばちゃんとこに、貰いにいく」 「ん。ラジャ」 こくんと頷いて、廊下の端から配膳台を引っ張り出す。二人で押して、がらがらと移動させる。 「……」 「……」 無言。 芒は冷や汗をかいた。 ……あれ? 山根くんって、こんなに喋んない人だったっけ。何で? 何でなにゆえ何故にこんな無言。気まずい気まずい気まずい。 「小木山」 うお。 「……うん?」 若干口をへの字にして芒はこっくりと首を傾けた。真哉はじっと芒を見ていた。というか観察していた。何故だ。そういえば彼とはあまり会話を交わしたことがなかった、気がする。相も変わらず人の良さそうな彼は、瞬きを数回して、 「……や、何でもない」 自分でも不思議そうに言った。 (……………はぁ?) 芒はぽかんとしてしまった。何じゃそりゃ。 なんて言葉を返せばいいのか分からなくて、うっかり足を止めて、それから彼女にしては珍しく、狼狽えた。 芒はあまり、人と関わるのが得意ではない。嫌な相手との会話をさらりと躱すのは大した労働ではないが、嫌ではない相手との会話は難しい。不快にしたい訳でも、話したくない訳でもない。だけどうまく言葉が見つからなくて、だから諦めてしまう。疲れて。芒が、確実に、何の気兼ねもなく長く傍にいられるのは父と笑未くらいのものかもしれなかった。 沈黙と芒は立ち止まってしまったことで、真哉も焦ったように足を止めた。 「あ、ごめん。なんか、その、あんまり喋んないから。えー、と」 配膳台から片手を離してまでの、フォローだ。 芒は要領を得ないその言い訳みたいなものに、再びぽかんとしてから、ふと落とすように笑った。真哉が詰まったように息を呑む。――芒は、人と関わるのが得意ではない。だけど関わりたくない訳でもない。どうすればと手ぐすねひいてぐるぐる芒が悩んでいる間に人の良さそうな目で手を伸ばしてくれた彼と、たぶん、芒は話をしたかった。へたくそなフォローが、胸に優しい。 「うん。そうだね」 今日の給食はなんだったっけ。 だから芒は笑いながら、そう聞いた。山根真哉は参ったような、少々情けない顔をした。 今日の夕飯は、父が喜ぶ話題が増えるだろう、と思った。 * プラスチックの爪は薔薇色のネイルが塗られ、その上に銀で花が小さく描かれている。艶やかな栗色の髪は下方でくるりと人工的に巻かれ、彼女の細い肩に影を落としていた。肩だけではない。真ん中よりやや左で分けられた前髪は品よく垂れて耳元に、長い睫毛は目尻に。しっとりと花の匂いのするような美しさだ。何より面白いのはそれでも嫌味なところがなく、同性達にもすこぶる評判が良いところだろうか。 (まぁ、随一の別嬪、って訳じゃあないしな) ぎっ、と回転椅子を軋ませながら多賀谷益信は社内の老若男女構わず撃ち落としている女性をぼんやりとそう評した。辛辣である。そんなことを友人の良夜に言えば、失礼なこと言うなよ、とやんわり呆れた風情で嗜められることだろう。だが恐らく、そう言う彼は益信に言われるまで彼女のことを欠片たりとも魅力的とは思っていないのだ。そっちの方が残酷だ、と益信は思わなくもない。 けれどまぁ、良夜にとって女性とはつまるところたった一人なのだと彼は知っているから、それを指摘しようとも思わない。学生時代から、年齢詐欺としか思えない腐れ縁の友人は、あの美しい人をただただ馬鹿みたいに思っているのだ。確かに彼女はぞっとするほど――いや、空気すら美しく変容するほど綺麗な女だったが、それほどまでに入れ込む気持ちはいまいち理解不能だ。が、しかし未だに妻一筋とからかわれる自分が言えた義理ではないのかもしれない。 (……いや、) 理解出来ない。それこそ嘘だ。本当は分かっている。彼女が死んだ時だとて、彼は友人の背中をひっぱたいていたのだ。――彼女を、知っていたのだ。 ぱさ、と手元の用済み書類をデスクに落とす。あとでシュレッダーにかけねば。 ……美しい人だった。息を呑むほどに。けれどあの友人にとってそれは後付けでしかないのだろう。中世の騎士かというぐらい、彼はあの人に恋いこがれていた。どこが、と問えば、必ずうざったいくらいの惚気を聞かされた。葬儀の後ですら、まくしたてるように、だ。だが、彼女が死んだあの日。あの時だけは、彼はひどく短く、静かに、――全てが、と答えたことを覚えている。 そんな馬鹿な男に、あの可憐な若い娘は性懲りもなくあてられてしまったらしい。見ていればほとんど会話もしなくても解ってしまうのに、当の良夜だけが気付いていないというのは、なんとも滑稽だ。今も完璧に整えた容姿を惜しげもなく晒して、じっと秋波を送っている――何やら小難しい顔でパソコンを睨む良夜に。 まったく、と益信はため息をついた。あいつが無駄に童顔で美形なのが、一番悪い、とつい思ってしまうのは、可もなく不可もない標準並み男のやっかみだろうか。まあどちらでもいい。 ともかく。 「……横田さーん、喫煙所作りません?」 「阿呆、俺に言うな。出来るならやっとるっっての」 無駄に厄介ごとだけは起こさないで欲しい。何より芒ちゃんが可哀想だ。益信は時たまお目にかかる友人の一人娘を思って、心底同情した。 |