領主様の気紛れ


 

 

 

 「あんた馬鹿ですかあああああ!」

 

 勢いのまま振り抜いた拳は見事ローランドの額にめり込んだ。

 

 

 

  *

 

 

 

 

 

 レティーシャの職分は史書を紐解くことである。

 隣国クラッグランド発祥のベアフィールズ公用語はもとより、古ロンドヴァークス語、ジェアスタ語、サルストュルス象形文字、レニア語、古バリクス語、東洋の未だその文化も杳と知れぬ冠瑛語、そしてここランディフェル固有の訛りを含んだディオ・ロンドヴァークス語、その他諸々の言語を彼女はある程度頭に入れている。少なくともこの大陸の言葉で通じぬものはないし、所々の訛りも諒解しているので、誰がどの国のどの地方から来たのか、というのもなんとなく分かる。

 近年大陸中が幾分落ち着いている為か、最近は史学の研究が盛んになっていて、よくよく史書が編纂されるようになった。出回る書物にはそれぞれで多少に違いはあれど、だいたい似たような感じだ。つまるところ王室や領地やらに残っている書物の内容が一貫している、もしくは大して見つかっていないということだろう。

 無論ランディフェル領主館にもぼろぼろの史書が残っている。蔵書室の鍵はレティーシャの管轄なので、ローランドが大人しくしている間、彼女は大抵そこに籠っていた。

 数百年前まで女性が斯様な仕事に関わることは良しとされていなかったと聞く。天文や幾何を嗜むだけでも眉をひそめられたらしい。ぞっとしない話である。それがどうして今では多少緩和したのかと言えば、ひとりの女傑が王都の名物でもある王立聖ブリジット学術院に殴り込んで一騒動を起こし、それが救国に繋がったことで、女性の知性的価値を認められたとか何とか。それ以前はかの学院は王立ザカリア学術院といったから、その学院の名まで変える大偉業——というより大事件だったのだろう。殴り込みって……やることが派手過ぎる。父が楽し気にかつのほほんとそのことを語ってくれた時には爆笑した。

 彼女の恩恵あって自分は今このように文字を貪ることが出来る。レティーシャは文字が好きだ。言語が好きだ。文章が、本が好きだ。だから書記官のような補佐のような役割の他にも、通訳紛いの仕事も受け持って、ローランドの側にある。あと給料の為に。……最近では側付き兼お目付役のようにもなっている気がするのが、なんとも遺憾甚だしい。

 ぱらぱらと積んだ書物をめくりつつ、さらさらと訳して書き写していく。昔の人間の綴りは今とは少し違って、しかも個人が記しているものだから普通に間違えているところもある。内容も個人的だったり公的で短過ぎたりと多種多様だ。レティーシャは計八冊の資料を並べ、次々と安紙にペンを走らせては投げ捨てた。没頭していると時々時間の感覚が分からなくなってくる。だから今が昼間だということも忘れて蔵書室の床に踞り、丁度紙が切れたところではたと顔を上げ、

「レティーシャ様、いらっしゃいますか?! 大変です、ローランド様が誘拐されました!」

 そんなまた頭の痛くなるような報告を受けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

  ばさばさばさ、と手にした紙やらペンやらが急落下した。

「……………………は、い?」

 なんですと?

 蒼白な顔で息を切らしながら叫んだメアリが、レティーシャの呆然たる呟きに「ですから、」と繰り返すように口を開く。レティーシャはそれを手で押し止め、ぐりぐりと眉間の皺を揉み解した。

「……えぇと、またあの馬鹿領主が何か阿呆なことをやらかしたんですね?」

「いえ、ですから、誘拐されたのです!」

「……どこで?」

「ベロー山脈の麓の町です。ルヴェアス領とのぎりぎり堺の町ですね。丁度本日はその町に視察に行かれていたようでして……」

「視察って、またぞろ放蕩にふけってただけでは」

「いえ、今回はベンとダグディラン様もお連れになっていたようなのです」

 今回は、というところがさすがランディフェル領主館の人間である。

「……ベンはともかく、ダグディランさんがいらしたのに……? おかしいですね」

 ダグディラン・モーリスはランディフェル領では珍しい正規の騎士だ。とは言っても王都に闊歩する格調高い貴族の血を引くようないわゆる上流階級の血筋ではなく、ただの領地従軍騎士だが。女性を籠絡する詩を好む質ではなく、至極生真面目な、ローランドに振り回される一人である。

 それでも、いやだからこそ彼は充分役に立つ筈だ。まさかうっかり主を攫われるような真似は————

(……ローランドがぶらぶらしてたら全然あり得るわ)

 あんのクソ馬鹿領主。

 内心凄絶に舌打ちしたレティーシャの耳に、コンコン、と軽いノックの音が届いた。どうぞ、と声を上げれば泣きそうな顔の少年と思案顔のセバスチャンが入ってくる。レティーシャはちょっと表情を緩めた。下衣に包まれた両膝をぎゅっと握りしめる少年の前に跪く。

「ベン、ことは今朝起こったばかりだというのに、よくこんなに早く知らせに戻ってきてくれたね。……ありがとう」

 ぽん、と小さな黄色い頭を撫でた。ベンはぐしゃりと顔を崩したかと思うと、大きな眼にじわりと涙を滲ませた。セバスチャンが困ったような顔になる。不憫に思っているのだろう。レティーシャも似たような顔で彼を見上げた。うっすらと微笑んで、目配せする。彼はひとつ頷き、ベンの肩を優しく叩いてからそっと部屋を抜け出した。

 おろおろしていたメアリもベンの様子に落ち着きを取り戻したようだった。彼女も安心させるように少年に微笑み、部屋を出る。暫くして二人と、執事のラングレイが暖めたミルクを持って戻ってきた。そこにきて漸く落ち着いたらしいベンが、必死に目許を拭いながら口火を切った。この幼い少年が、供という使命を一生懸命全うしただろうことが分からぬ者はランディフェル領主館にはいない。だがそれでも彼自身は己を責めているのだろう、事情を喋る彼の様子はひどく痛々しかった。

 ——ベンまで泣かせて、あのひとは何やってんの。

「……そう、じゃあ、鉱山の入り口でその言伝をもらったの」

 ベンが言うところ、ローランドが消えたのは町についてまもなくのことだったという。誘拐もあるだろうがローランド本人が町を見物したくて二人をまいたのだろう。はた迷惑なことである。

「その、言伝を持ってきた男はダグディランさんも敵わないほどだったの?」

「い、いいえ、山の方から、多分クロスボウで矢文を……」

「……山から? 随分性能が良いね。——分かった。お疲れ様、ベン。あとは私に任せて休んでなさい」

「でも!」

「ベン、私もそう思いますよ。どうしても気になるならラングレイと話しておいで」

 家令の言葉で、ベンはさすがに押し黙った。悄然と肩を落とす。メアリがそんな彼にミルクを勧めてから、ふと不安気にレティーシャを見つめた。

「本当に行かれるのですか、レティーシャ様」

「行きます」

 即答する。

 けれども彼女と対象的に、セバスチャン達の空気が一様に重くなる。

「大丈夫ですよ、ちゃんとあの馬鹿領主を捕まえて、帰ってきますから」

「……くれぐれも、お気をつけください」

「あちらにはダグディラン殿もいらっしゃるから、必ず彼と連絡を取ってくださいね」

 はい、とレティーシャはこそばゆい気分で笑った。まったく、みんな心配性なのだ。

 

 言伝にはひどく簡潔にこうあった。

 曰く、領主を無事返して欲しくば、領主の傍らにあるという女を連れてこい、と。

 

 

 
 

 

 


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