資料の山を持って戻ってきたアレックスが、何だか釈然としない顔で「オルポート卿に気をつけた方が良いかもしれませんよ」と呟いたのを聞き、レイモンドは危うく椅子から転げ落ちるところだった。
「……は? 前に問題ないとか言ってなかったっけ? だいたい、お前がシャルロット様に失礼だとか何とか言ってたんだろ」
「そうなんですけどねぇ……シャルロット様はぽわわんですし、オルポート卿は怪しいしで、なぁんか不安なんですよね」
「……今そういう集中途切れるようなこと言うなよ。ますます胃が痛くなる」
はー、と額を覆いつつため息を吐いて羽根ペンを走らせる。朱をつけて印を押し、彼はギッと椅子を鳴らした。ほんの数刻前に戻った監察官からの報告書を穴が空くほど読み通しては何事か書き付け、その紙の山を屑籠の中に棄てる。
「それ、片付きそうですか?」
珍しく眼鏡なんぞを取り出してアレックスが妙に苦黒い色の紅茶を差し出した。いつの間に淹れたのだろうか。おかしい。再三お前は茶を淹れるなと言って、この部屋の茶器の類は彼の目の届かぬところに隠しておいた筈なのに。まさかわざわざ他の部屋から持ってきたのではあるまいな。
「ああ、早めに何とかしたいよ」
笑顔で飲めと強要してくる友人にげんなりしながら、レイモンドはしぶしぶカップに口をつけた。……やっぱり苦い。何故これをそんなに満足げに飲めるんだ。アレックスの味覚は絶対にどこかぶっ壊れている。
暫くああだこうだと言い合ったり無言で書類を捌いたりしていると、ノックの音とともに悄然とした弟が入ってきた。
「アスター? 速かったな」
「あ、すみません。まだなんですけど、ちょっとお願いが」
なんだ、と先を促せばアスターは据わった目の端を赤くして、
「今夜の夜会、僕も出席します」
珍しいことを宣言した。
アスターは夜会やお茶会、舞踏会などの類にそれほど熱心ではなかった。嫌いなわけではないらしいが、かと言って興味も薄いらしい。ことに王妃主催の夜会は母と気の合う知り合いが多いので出席するにも三回に一回程度だったのだが、まさか自分から行くと言う日がくるとは。
レイモンドは弟をとっくり見つめ、やがてゆっくりと微笑んだ。
「ああいいよ、もちろんだ。エレン嬢の役に立ってきなさい」
そんな兄の言葉を聞いた瞬間アスターはさっと頬を紅潮させ、どもりながらも律儀に礼を言うと、まろぶように部屋から逃げ出した。レイモンドは微笑ましいような生暖かいようないや生温い気持ちになった。そうか、あのアスターも、それくらいの甲斐性は……——
「殿下もシャルロット様に逃げられないようもうちょっとビシッとしてくださいビシッと」
「……お前にだけは言われたくない」
しかし前面的に否定出来ないのが恐ろしいところだった。情けないことである。
コンスタンティア王妃はかつてなく苛々——もとい、はらはらしていた。
「……妻よ」
ぶちぶちと刺して貫くように刺繍に励みつつ、不甲斐ない二人の息子と隣国の姫のことを考える。ああ、アスター。あの子も大概だけれど、レイのすれ違いっぷりと言ったら! まったく、一日くらい仕事を放り出してシャルロット様のお側についてやれば良いのに、何をやっているのかしらあの馬鹿息子。頓珍漢の朴念仁! 一体誰に似たのか——いえ、考えるまでもないわね。
「妻よ、コンスタン、」
「それもこれもあれも全部あなたのせいじゃありませんか!」
ばんっ、とおよそ布が立てるとは思えぬ破砕音でコンスタンティアは王の机を叩き付けた。ずる、と夫は椅子から微妙に肩と背中を滑らせる。豪奢絢爛な冠がよれて見えた。ちっ、と舌打ちしたいのをこらえ、だいたいあなたはですねぇ、と先の尖った針をつきつける。
「やめ、おい、コンスタンティア! 危ないだろうが!」
「やめません! 今日こそ、今日こそ言わせていただきますけどね、」
「だからその物騒な代物を降ろせ! ——おい、お前達も止めたらどうだ!」
部屋の壁脇にもの言わぬ花の如き様相で佇む頑健屈強な近衛達と側近にそれぞれ非難の視線を送る王だったが、彼らは綺麗にそれを無視した。どころか冷めた眼差しで適当に首を振る。胸ぐら掴まんばかりの勢いのコンスタンティアの後ろにそれを見たチャールズはひくりと頬を引きつらせた。うらぎりもの、と唇が動く。
が、もちろんコンスタンティアにとってそんなことはどうでも良い。
「わたくしがなるべく姫に害のないよう安全で、穏やかな気性の娘達ばかりを集めたお茶会を開いたり、それほど大規模ではない夜会に出席させたり、それはもう手を回しているというのにどうしてあなたはそうあの子と姫の邪魔をなさるんです!」
そう、コンスタンティアは女である。加えて王妃という地位に不本意ながらも——ではなく恐れ多くもついてしまった身の上だ。女が自分より高位の女にどのような感情を抱くのか、少なくともシャルロット以上には分かっている。だから念には念をいれてきた。少しでもシャルロットが嫌な思いをしないよう。少しでも彼女がこの国を厭うことのないよう。
少しでも不器用な息子と上手くいってくれるよう。
……だと、いうのに。この男ときたら普段よりさらに多くの仕事をその息子に押し付けては一人ゆうゆうと自室でくつろいでいるのだ。ああ腹立たしい。
「シャルロット様がボケボケ……ごほん、おっとりなさっていらっしゃるから良いものの、もしこんな国に居たくないなどと言われたらどうするのです! 嘆かわしい。わたくしはマリアーヌ様に顔向け出来ませんよ!」
マリアーヌというのはシャルロットの母、つまりコーラルフェリアの王妃である。こちらも娘ほどではないがおっとりとした女性で、コンスタンティアの愚痴も根気強く聞いてくれる希有な人だ。
チャールズは煩そうに耳を塞いでいたが、不意に嫌な笑みを浮かべた。にやり、と何か企んでいるかのような胡散臭く陰気くさい顔だった。
「ならば違う娘を貰えばよかろう」
コンスタンティアは眉を跳ね上げた。銀に鈍く輝く刺繍用の針を机にガッと刺す。頂上のあたりが折れた。
「本気で仰っていらっしゃる?」
絶対零度の眼差しで王を見据え、彼女は豊かな髪をはらりと背へ払った。近衛達が身を強ばらせ、だらだらと冷や汗を流し始める。王は暫く黙ったまま妻の視線を受け止めていたが、やがて椅子に張られた天鵞絨の布に身体を深くうずめた。瞬きひとつしないコンスタンティアにやんわりと微笑む。
「冗談だ」
コンスタンティアは今度こそ舌打ちした。
「趣味が悪過ぎます」
「君があまりにあれらのことばかり気にするからだ」
「くだらないことを仰りますね」
「くだらないか?」
「ええ。わたくしは変わらずあなたを愛しておりますから」
チャールズは僅かに瞠目した。圧迫されるように息を止めているのが、長年側にいたコンスタンティアには分かった。それはおそらく長年彼女と同様王の気紛れに付き合わされてきた側近達も同じだろう。
チャールズは珍しく疲れたような表情で机に肘をつき、微かなため息を吐いた。
「……君は相変わらず怖いな」
「そんなことはどうでも良いのです。それより、」
「分かっている。そういきり立つな」
ひらりと手で制されてコンスタンティアは仕方なく黙った。腰に拳を当て、何です、と促す。
「……あれの妻になるなら、堪えてもらわねばならんだろう。忙殺される夫を待つことにも、宮廷の悪戯にも。いずれこの城で暮らすのだ。この国で。この頂点で。——君のように」
……クラッグランド王妃コンスタンティアはとても不愉快だった。
だが、彼の言っている意味は分かる。分かってしまう。だから眦を険しくするに留めた。そもそも彼女をこの王宮に引き込んだのは誰だというのだ、という文句も言わないでおく。なけなしの情だ。
「……それに」
「?」
チャールズが額に組んだ両手をつけて視線を逸らした。コンスタンティアは何だはっきり言え、と目で訴える。
「今ならまだ、逃げることも出来よう」
コンスタンティアは一瞬反応に困った。
……何をいかつい顔で可愛らしい発想しているのだ。阿呆か。
「……あなたらしくないご慈悲に驚愕ですが、たとえレイの妻とならずとも、他にも面倒な嫁ぎ先が用意されるだけでしょう」
「……分かっている」
「それと、あなたの言い分は充分理解致しましたが、やはりやり過ぎではありませんか?」
少しは語気を弱めて進言すると、王はいつも通りの妙に人を苛立たせる朗らかな笑顔を咲かせた。
「普通にさせたら詰まらんじゃないか」
次の瞬間王の額に羽扇の角が激突した。