泣くのはやめて呪文を唱えて

 

 

 

  
 見れば見るほど美しい少女だった。

 

「え、と……レジーナ、様?」

 ラムズフィールド侯爵令嬢レジーナ・コープランド。金の巻き毛の麗しい、レイモンドの遠い親戚。褐色の瞳が燃えるように輝いている。月光の似合う人だ、とシャルロットは思った。けれどもすぐ異変に気付く。

(……? 様子が、おかしい、わ)

 シャルロットより高いヒールをものともせずに、レジーナは堂々と近づいてきた。白い庭石が鳴る。煉瓦の道を叩く靴が、散り積もった薔薇の花びらがぎゅっと踏みにじられた。無惨な染みを作って花びらは夜の汚れになる。

「あの、」

 話しかけかけた時、きっとレジーナが眦を吊り上げた。

「どうして、まだいらっしゃるの」

 え、とシャルロットは意味が分からず首を傾げた。まだ? それは、まだ、三ヶ月が過ぎていないからだが。まともに応えられずにいるとまた彼女は黙ってしまう。シャルロットは途方に暮れた。何故か彼女には嫌われているようだ。

(……エレン様も)

 どうして、レジーナはエレンを厭うのだろう。彼女はとても強く優しい少女なのに。——いいや、もしかしたらそんなことは関係ないのかもしれない。理由なく人を嫌うことが、決して珍しいこととは言えなかった。少なくともシャルロットには。

「どうして、あなたがレイモンド様の婚約者なの」

 シャルロットは目を見開いた。

 レジーナは親の仇を見るような目をしていた。こつり。距離が縮まる。暗くて、月光の下でしか判別のつかなかった少女の全身があらわになる。寒さにだろうか、影が射し、昏い眼差しはぞっとするほど美しい。華麗に盛られた髪から一筋、金の後れ毛がこぼれた。褐色の瞳にシャルロットが映る。異国の様相。フランボワーズ・アイ。ああ。

 簡単に、異国の人間だと、分かってしまう。二ヶ月も過ぎるのに。馴染むことすらこんなに難しい。

「わたくしの方がずっとあの方に相応しいのに」

 レジーナは血を吐くような声で言った。

 シャルロットはとても反論出来なかった。相応しい、と。何の躊躇いもなく言える彼女が、少しだけ羨ましかった。自分は言えない。すべては、殿下がお決めになることだわ、とそんな風に逃げてしまう。

「なのに、どうして、どうしてわたくしがあのような扱いを受けねばならないの?!」

 唐突にレジーナは激した。白い腕が伸びたかと思えば、何の前触れもなく髪を掴まれる。いた、と思わず零してしまったが、相手に気にするそぶりは欠片ほどもない。月の目よりもぎらぎらと輝く眼差しが、太陽にも似て燃え上がる。

 目裏に稲妻が走った。思考が爆ぜる。

「……わたしの部屋に、虫や、棘の薔薇を送ってくださったのは」

 あなたですか、と問う前に、彼女は婉然と嘲笑した。

「今更気付いたの? そうよ、ああ、でも、それだけじゃないでしょう?」

 シャルロットは口を噤んだ。そう、——本当は。ポーラと数人の侍女達、それから自分だけしか知らないこと。コンスタンティアにも言わなかった。

 嫌がらせ、というものが来たのは、虫が最初ではなかった。

 切り裂かれたコーラルフェリア風のドレス。全身が痺れる薬を盛られた焼き菓子をもらったこともある。レイモンドから言伝としてもらった手紙も届かなくて、庭先にぼんやりと立ち尽くしてしまったこともある。そのどれもが嫌がらせだと、はっきり認識することは出来なかったし、そんなに重要なことでもないと思っていたから、シャルロットは嘆くポーラに頼み込んだのだ。嫌がらせならなおさら、誰にも言わないで、と。もとより犯人も分からなかった。このようなさして害の多いとは思えぬ手段を取るのなら、おそらく要人の手によるものではないだろうと当たりをつけていたのもある。

「……どう、して」

「どうして? そんなことをお聞きになるの?! 本当に頭の弱い方!」

 忌々し気にレジーナは吐き捨てた。

「わたくしの方があの方をお幸せにして差し上げられる! あなたが、——あなたがコーラルフェリアの王女でさえなかったら! わたくしがあの方の妻になれたのに!」

「れ、レジーナ、様……痛い、です、わ」

「たかが隣国の、頭の足りない王女なんか、あの方に似合うものですか!」

「やめ、」

「おまえのような女が王女だなんて、コーラルフェリアもたかが知れる!」

 がん、と頭を殴られるような衝撃が脳髄に走った。視界が揺れる。かっと胸の奥が焼け付いた。神経という神経がひりつく。涙腺が刺激される。

「……てください」

「なん、」

「撤回してください」

 シャルロットは己の髪を掴むレジーナの手をきつく握りしめた。それでも手が震える。なんて非力だろう。けれども。

 けれども、これは、怒りだ。

「わたしを蔑むのは貴女の勝手です。実際わたしは馬鹿です。決して出来た王女とは言えません。ですが」

 唇を噛み締める。なんてこと。

「祖国を侮辱するのはご遠慮くださいませ」

 わたしのせいでコーラルフェリアが貶められる。わたしのせいでコーラルフェリアが侮られる。

 ————わたしのせいで。

「……意味が分かりませんわ。鄙を鄙と言って何がおかしいの」

「——撤回、してください」

 分かっている。彼女にとっては大した言葉ではないだろう。クラッグランドの総意だというわけでもない。けれど。

 ——だけど、わたしは、わたしだけはたとえどんな時でもコーラルフェリアを肯定しなくちゃいけないのだわ。

(だって、わたしは、コーラルフェリアの王女だから)

「!」

 ぱんっ、と乾いた音が耳元近くで響いた。頬を張られたのだ、気付いたのは痛覚が機能してからだった。ひりひりする。

「なんなの、——なんなの、おまえ!」

「……っぅ」

 女性の平手というのは案外痛いものだわ、とシャルロットは一瞬気が遠のきかけた。先程とは違う意味でぐらりと頭が傾いだ。

 とん、と。

 背中を支えられたのはその時だった。

 ふわりと淡い花の匂いがした。大きな手が気遣うように頬を滑る。もう片方の腕でレジーナから抱え上げるように引き離された。

 薔薇の匂いも恥じらう月光の透ける白金の髪。抜けるように美しい水の碧。傾国の美姫もかくやという真白の肌で彩られた美貌。

「あ……っ」

 口許を押さえ、レジーナは後ずさった。シャルロットはぽかんとそのひとを見上げる。

「……レイモンド様…………どうして、ここに」

 思わず呟くと、彼はいつも通り、にこりと微笑んだ。ぽんぽん、と頭を撫でられる。……頑張ったね、と、慰められた気がした。ほっとしてしまう自分が、少し情けなかった。

「あなたは、何をしていらっしゃるのか」

 けれども水面に波紋が滑るような静かな声に、はっとする。レイモンドの視線はしかし、レジーナ一点のみに向けられていた。レジーナはびくりと肩を竦めてから、おそるおそる彼を窺う。

「何が、ですの?」

 ぎこちなく、彼女は微笑む。あくまで美しく。

 レイモンドも微笑んだ。見る者全てを撃ち落とすような柔らかさで。

「私の婚約者の頬を張ったこと、どう言い逃れされるおつもりですか?」

「まあ、殿下!」

 レジーナはすぐさま悲愴な顔になった。駆け寄り、レイモンドの腕を掴む。哀れっぽく眦から零れた涙を拭った。

「違いますわ、あの、女が! シャルロット様が、いきなり攻撃していらしたのです……! 殿下、このような乱暴な娘は、殿下に相応しくありませんわ。わたくしも言い添え致します。婚約など撤回致しましょう」

 シャルロットはざっと血の気が引くのが分かった。肝が冷える。駄目、これでは、コーラルフェリアの顔に泥を塗ることになってしまう。こんな理由で、それも偽りで、国に迷惑をかけてしまうなんて。どくどくと心臓が騒ぎ始める。けれども。

「……お言葉にお気をつけください、ラムズフィールド侯爵令嬢」

 冷ややかにレイモンドは言った。

 彼女の言葉など欠片も信じていない風だった。一瞬、呼吸が止まる。どうして、とシャルロットは呆然とした。どうして、わたしを、信じてくださるのですか。何の確証も、ないのに。

 レジーナも同様だったのか、かっと頬に血を上らせて叫んだ。

「どうしてそのように王女を庇われるのです?! そんな方より、」

 真紅の唇が醜悪に歪んだ。割れるように。

「そんな方より、わたくしの方がずっと相応しゅうございましょう?!」

 シャルロットはぱっと目を伏せた。この期に及んで、反応が怖い。数拍の沈黙の後、さやかな笑い声が上がった。レイモンドだ。くすくすと、軽やかに彼は笑う。

「相応しい、ですか。あなたはまず、そこから潰して差し上げないと納得なさらないご様子」

「殿下……?」

 ふいにシャルロットは違和感を覚えた。庭先とは言え、第一王子がこのように一人で解放され、それもこのように騒いでいれば誰か警護の者が一人くらい現れるものだ。第一王子、即ち世継ぎの王子なのだから。そう思った時、密やかな足音が聞こえた。

 レイモンドは笑い続ける。

 ひとしきり、気の済むまで笑い終わった後、彼は友人の名をさらりと呼ばわった。——アレックス、と。

「はいはい、ここに」

 直ぐ側で届いたアレックスの声にぎょっとする。いつの間にやってきたのか、彼は文箱を抱えて隣に立っていた。レイモンドが差し出した手に当然のように紙を渡す。微かに顎を引き、第一王子ははらりと羊皮紙を広げた。レジーナは訳が分からない、といった様子でその紙を見る。

「夜目では分からないかもしれませんね。——ラムズフィールド侯爵デクスター・コープランド。領民がまともに払えぬ法外な納税を強いた上、その税を私財に流用し、悪用した咎で彼は降格処分となります。さらにはラムズフィールド領の起訴により、領地を剥奪し、以後アリンガム侯爵の領地とします」

「…………な、」

 うそ、とレジーナは呟いた。おそらく、レイモンドの言葉の半分も理解していないのだろう。けれども己が受け入れ難い事実だということだけは分かったらしい。日頃、常に自分を持ち上げてくれていた身分が露と消えることも。

「あなたを同罪に括るつもりはありませんが……余罪として、謹慎処分になるでしょう。後ほど陛下よりお達しがある筈です。心して待つように」

「よ、ざい」

「私怨も含まれていますが」

 ふ、とレイモンドの微笑みが冷たくなる。静かにほとばしるような怒気が、冷気となって醸し出される。

「シャルロット様の頬を張るとは。コーラルフェリアでなくて良かったですね。不敬罪にしても、こちらではまだ甘い」

 目を見開く娘の腕をアレックスがひょいと持ち上げた。はい立って立って、と軽い調子で促す。

 引っ立てられていく彼女が救いを求めるようにレイモンドの名を呼んだ。けれども彼はもう笑わなかった。

「お引き取り願いましょう。彼女は私の婚約者です」

 絶対的な拒絶だった。

 

 

 

 

  

 

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