遠い昔から、夢の中で

 

 

  

 

 レイモンドはとにかく、走りまくっていた。

 比喩ではない。そのままの意味である。

「あれ、殿下? さっきあちらにいらっしゃいませんでしたっけ」

「悪いアレックス! 急いでいるんだ!」

「え、ああ、それいつものことじゃ、」

「またな!」

 びゅん、と風の勢いで古馴染みの友人の横を駆け抜け、王の執務室にノックもせずに押し入る。衛兵達は慣れた様子で丁寧に扉を閉め直し、側近の一人が水差しを持ってきた。玉座と同じくらいきらきらしい椅子でふんぞり返る父に向かって怒鳴ろうと口を開く彼の前に、とりあえず落ち着いてください、とばかりにグラスが差し出される。仕方なく一気にそれを飲み干し、はーはー、とレイモンドは息を整えた。すう、と深く息を吸う。瞬時に部屋中の人間が耳に手を押し当てた。無論王もである。

「————陛下!」

 びりびりと響き渡る己向けの怒号に、現クラッグランド国王チャールズ・アリントンは迷惑そうに眉をしかめた。

「レイ、おまえ、煩いぞ」

「やかましい! あ、あ、あ、あんたこれは一体どういうことですか!」

 ばっと広げた羊皮紙にサラッと目を通した王は、サラッと目を逸らした。

「ああ、それか。眠たい時に適当に判を押したやつだから知らん」

「嘘おっしゃい! 単に面倒になったから後で私に任せようとしましたね!」

「なんだ、分かってるんじゃないか。ならさっさとやれ」

「阿呆か! 少しは仕事なさってください! 私はシャルロット姫の応対を……」

「気にするな、王妃がやってくれている。他にも異国の姫に興味津々な令嬢方がな」

 にやりとチャールズは人の悪い笑みを浮かべた。ひくっとレイモンドの額に青筋が浮かぶ。

「そういう問題じゃ、」

「姫もまったく気にしておられないご様子だぞ。フラレ王子は気にせず仕事をしろ。私の代わりに」

 ぐさ、と刺さった何かにレイモンドはつい口をつぐんでしまった。言い返せない。——いやいやいや! そんなことはない! おかしいだろう最後のは!

「…………だ、」

「だ?」

 にやにやと聞き返す王に、周囲の側近達は嫌そうな顔になった。そのうちの一人がふと顔を上げる。しかしレイモンドはそんなこと気にしなかった。ぶちっ、と血管が切れた。

「だいたい陛下が組んだ縁談でしょうが! なのに何で私はこんな時まであんたの尻拭いなんかしなきゃならんのです!」

「わー! 殿下、後ろ、後ろ!」

 しかしレイモンドの台詞に被せるように上がった声に、言われた通り後ろを振り向く。

 ぎょっとした。

 冷ややかな空気の漂う母の姿と、——少し困ったような表情の婚約者が立っていた。

「……しゃ、シャルロット様?」

 おそるおそる呼んでみる。心臓が悪い方に跳ねる彼の心を知ってか知らずか、彼女はふわりと穏やかに微笑んだ。いつも通りの、柔らかい笑みだった。が。

「レイ」

 ぞーっ、と肝が一気に冷える。いや凍る。

 美しい瞳をうっそりと細め、長い髪をさらりと払い退け、コンスタンティアは微笑んだ。

 ……シャルロットと違い、邪気しかこもっていない眼差しで。

「邪魔よ、ちょっとお下がり」

 レイモンドは言われた通りに執務室から飛び出した。

 

 

 

「あんれ、殿下? なんか今日十回くらい会ってませんか」

「……アレックス」

 自室で項垂れていたレイモンドは素っ頓狂な声につと眉をひそめた。……いつの間に入ってきたんだ。

 アレックス・ベックフォード。全体的に緩いこの少年とは幼い時分からの付き合いである。これでも正真正銘のバルフォニア男爵なのだから、世の中間違っている。厳格で有名なバークレイ公爵の四男がまさかこんなテレテレしているとは、知らぬ者が見れば仰天ものだろう。これと長く友人なのも不思議だが。

「そういやロイス外務官が探してましたよ」

「急ぎか?」

「や、いつでも良いっぽそうでしたけど」

 あっさり言って、アレックスが手許の羊皮紙を覗き込んでくる。

「ありゃ、ラムズフィールド領の農地併呑? そりゃちょっと酷いんじゃないですか。あそこ、ただでさえ差別の激しいコープランド公の直轄でしょう。税収もきちんとされているのか怪しいのに、そんなことしたら払えるもんも払えなくなる農民続出ですよ」

 その通りだ。ああ嘆かわしい。本気で嫌な顔をするアレックスに、レイモンドはげんなりと頷いた。

「分かっている。つまり、俺にどうにかしろってことだろ」

「ああー、なるほど。全部丸ごとってことですか。陛下も嫌な性格してますねぇ」

「おまえ、その何でもかんでもさらっと言うくせやめろよ……こっちがひやひやする」

 首でもかっとられたらどうするんだ、とぼやくレイモンドを無視して、それよりもシャルロット姫はどうしたんです? などと訊いてくる。

「……訊くな」

「え、ふられたんですか? 天下のレイモンド王子が?」

 本気で驚いている風情が腹立たしい。

「違う。……ちょっと、鉢合わせた」

「はあ?」

 眉を跳ね上げる友人に、レイモンドは美貌を歪めて愚痴るようにぽつぽつと語り出した。聞き終えたアレックスが、遠慮容赦なく爆笑するのも知らずに。

 

 

 

     *

 

 

 

 王の執務室というものはどこも似たようなもののようだった。

 青ざめた顔で王妃の言葉のままに出ていった王子の方をちらりと窺い見る。……早くも姿が消えている。

(殿下は素早いのだわ)

 妙な感心をしているシャルロットをおいて、コンスタンティアは奮然と夫の机をひっぱたいた。

「どうしたコンスタンティア。そんな苛々して。何かおかしなことでもあったか?」

「今目の前で示し合わせたかのような茶番を繰り広げてくださった身で何をおっしゃいますか腹立たしい」

「乗るあれが悪いだろう」

「否定はしませんが、姫のお心もお考えくださいませ。——それより」

 たん、とまた、コンスタンティアは机を叩いた。どっさりと乗っかっている料紙や決済待ちの書類の山がふわっと揺れる。何故かおお、というどよめきが起こった。

「本日、シャルロット姫のお部屋に虫の山が放り込まれました」

「……虫?」

 怪訝そうな眼差しがシャルロットに向かう。彼女は慌てて姿勢を正し、勢い良く頷いた。それを見た王が、妻に視線を戻す。

「具体的に?」

「後で報告が行くとは思いますが。ムカデや蜘蛛、トカゲなどだそうです」

「君は見ていないのか」

 何の気なく言っただろう王の台詞にぴくりと王妃の眉が寄る。は、と冷えた笑みが零れ落ちた。

「わたくしに、見てこいと?」

「そ、そんなことは言っておらんだろう」

 シャルロットは他人事ながら冷や冷やしてしまった。さすがの王も世の夫達と同じく妻の苛立ちには弱い質らしい。

「幾ら何でも悪質です。警備の強化を」

「ふむ……、姫」

 再び水を向けられ、シャルロットはぱちくりと瞬いた。はい、と応じる。はい、何でございしょう、陛下。噛まずにそう答えると、チャールズ王は目許の皺を柔らかく緩めた。

「管理不足で申し訳ないことをした。どうか許して欲しい」

「え、いえ……はい」

 何だかよく分からないがとりあえず頷いておく。

「ところで、貴女はこのことについて、嘆いていらっしゃるか」

「陛下!」

 シャルロットが戸惑っている間に方々から非難の声が上がる。これが王子だったら黙殺されていたとは、シャルロットは知らない。

「えぇと、少々驚きましたけれど、それほどではございませんでした、陛下」

「それは、少し、困った、という程度でしょうか」

「そう、ですね。はい、そうです、陛下」

 せめて何か機嫌を損ねたり、酷い間違えをしないよう、カクカクしい口調を心がけて彼女は答える。

「それは良かった」

 にっこりとチャールズは微笑んだ。

「陛下、お待ちください。まさか本当に放って、」

「警備は強化するさ、もちろんな。だが必要以上に踏み込まれるはお嫌だろう」

「そうは仰っても、」

「姫、あと二ヶ月ほどの間、滞在なさっていただけますか?」

 反駁するコンスタンティアを無視してチャールズはシャルロットに訊いてきた。何故そんなことは聞くのだろうと首を傾げる。

 シャルロットの答えは決まっていた。

「はい、もちろんです、陛下」

 その為に彼女は来たのだから。

 

 

 

 

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