ばさばさばさ、と書類の束が滑り落ちた。
「……なん、だって?」
「いや、だからですね。あんまし放っておくと、姫に愛想つかされますよ、って話です」
けろっと酷いことを言って、アレックスはしゃがみ込んだ。こんななりをして妙なところでまめまめしい彼は、今もまめまめしく紙を拾って揃えてレイモンドに渡してくれた。が、しかし。
「そっちじゃない! それは、恐ろしいことに、俺も分かってる!」
「……言った俺が言うのも何ですけど、すんげぇ虚しいですね、それ」
「いいから、その前! シャルロット様が、何だって?」
胃が痛くなってきた。
頼むから冗談だと言ってくれ、という懇願を込めて友人を見るが、彼はああと頷いて、またもさらりと繰り返す。
「なんか、シャルロット姫、オルポート卿に手の甲を許してましたよ。……ってやつですか?」
レイモンドはふらりとよろめいた。
何故、よりにもよって、オルポート卿。
「一応、聞くけど。それ、ジュリアン・オルポートのことだよな?」
「今王宮にいるのはあの人くらいでしょ」
何を当然なことを、とでも言いたげにアレックスは肯定する。
「……なんか問題でも?」
「問題だよ! 何であの人なんだ!」
「……別に特別悪い人じゃないでしょう。まあ、ちょっとばかし女ったらしですけど」
「それが問題なんだろ!」
頭を掻きむしりたくなるが、寸前で堪える。せめて彼女がいる間は、わりあい完璧な王子でいなければならない。……見た目だけでも。
「孕ませたなんて話は聞きませんよ。清く正しく遊ばれているようですから」
「下世話なこと言うなよ! こ、こ、こ、今度こそシャルロット様が毒牙にかかって、は、はら、」
「……下世話なのはあんたの方でしょうが。失礼じゃないですか、姫に。そんな方に見えますか」
見える訳がない。のほほんと、まさに平和そのものに微笑んでいる彼女はそんな薄汚れたことなど考えもしないだろう。会うたび、にこにこと微笑んで、柔らかなものをくれる。それはとても脆くて儚くて、だからこそ、愛おしい何かだ。この縁談が確定するまで、自覚してはいけないもの。
そう、無邪気でいられた、昔とは、違う。鮮やかなラズベリーの瞳を何の疑いもなく脳裏に灼きつけていた、あの頃とは。
「……もし、もしオルポート卿が愛に目覚めてとち狂ったら」
「……間違いなく彼の首はおじゃんですね。お可哀想なことです」
「何でそうなるんだ!」
「殿下の妄想、面倒臭いんですよ。絶対ありえませんって」
「何で言い切れるんだよ」
「どんなにぐらっときてもあの邪気のなさに無体を働けるのはよっぽどの悪党か変態だけです。オルポート卿は色惚けの気がなくもないですが悪党でも変態でもないので問題ないです。はい終わり。それより仕事、ちゃっちゃと片付けてくださいよ。で、姫の機嫌でも何でも取ってきなさい」
どさ、とさらに増えた資料と書類にレイモンドはひくりと頬を引きつらせた。しかしアレックスはさらに別室から分厚い本の山を持ってくる。
「これ、紳士録と契約書の粗捜し攻略本。終ったらそっちのラムズフィールドのやつ、調べますよ」
「…………」
酷い友人である。
コンスタンティアの手配した庭先のティーテーブルには、白いレースの敷布の上にこんがりと色づいた焼き菓子の類と滑らかな陶器のポッド達、それから見事な意匠のティーカップが綺麗に並んでいた。
「あら、いらっしゃい、シャルロッ……」
少々誇らしげに、かつ優雅に振り向いたコンスタンティアは何故かぴしりと固まった。しかしシャルロットは目を輝かせて駆け出した。ポーラが慌ててついてくる。
「素敵です、王妃様! なんて綺麗! 先程お会いした方々のドレスよりも綺麗ですわ!」
「……あ、ありがとうございます。ところで、後ろの方は……」
どこか血の気の引いた王妃の様子を不思議に思いながら、シャルロットはにっこりと微笑んだ。
「ジュリアン・オルポート様ですわ。ここまでご一緒してくださいましたの」
「そう、ですか。お礼申し上げますわ、オルポート卿。姫がお世話になりました」
さりげなく母のようなことをうっかり漏らしているコンスタンティアである。
さくさくと草を踏みながらジュリアンも向かってくる。ひっそりと控えている侍女達がほんのり色めき立つのが、さすがのシャルロットにも分かった。
(ジュリアン様、お美しい方だものね。でもレイモンド様の方が美少女になれるわ)
シャルロットは本人が聞けば泣きそうなことを思った。
花籠をコンスタンティアに差し出し、テーブルを飾る。あっという間に華やかになったので、彼女はほっとした。王妃もちょっと嬉しそうに目許を和ませている。……まさに子供の成長を喜ぶ母親の表情であったが、それには気付かない。シャルロットはますますにこにこした。
「御機嫌麗しゅう、王妃様。前触れもなくお目汚し致しますご無礼、どうぞお許しください」
衣服に草がつくのも構わず膝をつくジュリアンに、コンスタンティアは冷たく美しい王妃の顔ですっと手の甲を差し出す。ジュリアンは迷いなく口づけ、しかし予想以上に早く離した。あら、と思うシャルロットに対して、王妃は艶やかに笑った。
「よく心得ている様子。よろしい。同席を許可しましょう」
「勿体なき幸福。寛大なご慈悲に感謝致します」
負けず劣らず世の女性達を撃ち落とす微笑を浮かべるジュリアンをサラッと流して、コンスタンティアはちょいちょいとシャルロットに手招きした。ぱたぱたと近寄ると、腰を降ろすよう言われる。
「さあ、楽しいお茶にしましょうか」
王妃手ずから注がれた紅茶は、蕩けるようなミルクと混ざってシャルロットの髪の色のように一変した。
悔しい、とレジーナはハンカチを噛み締めた。
悔しい。あんな、あんな田舎臭い小娘に馬鹿にされるなんて。何が王女よ。ただの馬鹿女じゃない。コーラルフェリアは確かに素敵なものの多い国と聞くけれど、王女があれじゃたかが知れているわ。あんな娘よりわたくしの方がずっと殿下に相応しいのに。
泣きながらそんなことを訴える。すると、そうよそうよとみんなが頷く。ナタリアが筆頭に、どうしてあんな子が王女なのかしら、どうせコーラルフェリアとは仲が良いままなのだから、殿下の花嫁はレジーナ様でもいいわよね、と力説する。そうよそうよその通りよ。周りがそれに追従した。レジーナはそうよね、と涙を吹いた。そう、そうよ、その通り。どうしてわたくしじゃなかったの。殿下もお可哀想だわ。さめざめとそう嘆けば、再び同意の声が上がる。レジーナは酷く気を良くして、あんな子いなくなってしまえばいいのに、と呟いた。本当に、さっさと帰ればいいのよ。誰かが悪意を込めて呟く。レジーナはハンカチの下で、唇を三日月に歪めた。
みんな、みんなわたくしを持ち上げてくれる。だってわたくしは、誇り高く美しいラムズフィールド公爵令嬢なのだもの。
密やかに有頂天になるレジーナは、隅で青ざめる小柄な少女のことなど気にも留めていなかった。
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