銀世界に永遠を望む

 

 

  

 
  

 自室に戻り、湯浴みを終えたシャルロットは、寝間着に着替えて寝る準備をしていたところに届いた控えめなノックの音で飛び上がった。

 こんな時間に、この叩き方。この一ヶ月ほどですっかり覚えてしまった、気遣うようなノック。

「レイモンド殿下でいらっしゃいますか?」

 侍女が口を開く前にシャルロットはそう問いかけていた。ポーラがあらと口許を覆う。扉の外から肯定の声がして、シャルロットはぱっと表情を輝かせた。急く気持ちのまま寝台から抜け出し、まろぶように扉へ向かう。くすくすと楽しげに侍女達が笑っていることにも気付かなかった。

「いらっしゃいませ、殿下。お疲れでしょう、ご無理なさらないでください。わたしのことはお気になさらずに」

「そんなことはありません。むしろ、いつも、なかなかお会い出来なくてすみません」

 本当に申し訳なさそうにされて、シャルロットは戸惑ってしまった。どうしよう。そんなことはないのに。だって、顔を見れただけで、——いいえ、あなたの、顔を。思い出すだけで、幸せなのです。

 そう思うのに、けれども言葉にはならない。どうしてか、そのような言葉は胸の奥に沈殿して、表に出ることがない。ここにきてから、ずっと。

 ——言ってはいけないもののような、気がして。

「あ、あの、あの、殿下」

「……はい」

 ふわ、と、絡まった糸がほどけるみたいに、レイモンドは微笑んだ。どきりと心臓が高鳴る。どき、どき、と呼吸がままならなくなってくる。もうすっかり湯上がりの火照りは冷めている筈なのに、どんどん身体が熱くなってきた。

「あ、あの。どうぞ、中へ。お風邪を召されてしまわれますわ」

 動悸と火照りを誤摩化すように促す。と、するすると侍女達が扉から抜け出していく。最初は驚いたものだが、これもこの一ヶ月と少しで大分馴染んできた。レイモンドが訪れると侍女達は良い笑顔で退室していくのだ。それを困ったような、ちょっと恥ずかしそうな顔で、レイモンドが見送る。その彼を、シャルロットがぼんやり見上げる。その繰り返し。

「……今日は、」

 ふいに、長椅子に腰かけたレイモンドが呟いた。ぱっと気を引き締める。どんな言葉も聞き逃さないように。

「今日は、何かありましたか」

 優しい問いかけだった。どもりながら頷く。会話が終ったら嫌だと子供みたいに思って、逸る心を落ち着けることも出来ずに続ける。

「あの、今日は、お天気がとても良くて。王妃様とお庭でお茶会をしたのです」

「ああ、母上はあれでとてもお茶を淹れるのがお好きですから。……お口にあいましたか?」

「はい! すごく、すごく美味しゅうございました。ミルクも絶妙で、なんだか、蕩けるみたいで」

「それは良かった。母上も喜んでいらっしゃるでしょう」

 レイモンドこそ嬉しそうだ。シャルロットはそれが堪らなくて、ぎゅっと手を握りしめた。もっと、もっと喜んでいただけるかしら。どうすれば、この方は喜んでくださるのかしら。

「あの、それで。その前に綺麗な方々にお会いして」

「綺麗な方?」

「はい、えぇと……確か、一人はレジーナ様と呼ばれていらっしゃいましたわ」

 レイモンドは何か考えるように顎に手を当てた。レジーナ、レジーナ、と繰り返す。聞いたことがあるような、と。シャルロットは瞬いた。

「お知り合いですか?」

「いえ、どこかで聞いた気がしたのですが。思い出せなくて。それで、その方がどうなさったんですか?」

「あ、その……どうやら、怒らせてしまって」

 恥ずかしくなって縮こまる。何故自分は懺悔のようなことをしているのか。

 レイモンドは意外そうに目を丸くした。

「貴女に人を怒らせることなんて出来たんですね……あ、すみません。それで、大丈夫でしたか?」

 心配そうに言われて、はいと勢い良く答えた。レイモンドは本当に良い人だ。怒らせてしまったのはシャルロットなのに。

「たまたま通りかかったジュリアン・オルポート様が仲裁なさってくださったんです。どうやら誤解されてしまったのですけれど」

「ぶっ」

 何故かレイモンドが盛大に咳き込んだ。ぎょっとして背中をさする。

「ど、どうなさいました?! 何か、おかしなことを申し上げたでしょうか」

「い、いえ、お気になさらず……、何でもないんです。……そうか、それが、その時の……」

 後半は小さ過ぎて聞こえなかった。あの、もう一度、と願うと彼はこほんと咳払いした。

「……姫、もしかして、手の甲をお許しになられましたか」

「え? あ、はい。……いけませんでしたか?」

「いえ、そんなことはありませんよ。人づてに聞いていたもので確認したかっただけです」

 何故か早口だった。

 しかしシャルロットは特に気にせず、そうですか、と胸を撫で下ろした。けれどもすぐ思い直す。けれど。けれど、彼や祖国の顔に泥を塗るような粗相をしないよう、彼女はもっと気をつけなければいけないのだ。

「それから、お庭まで送ってくださって」

「……そ、そうですか」

「それでお茶もご一緒してしまったのですが……これも、駄目でしたか?」

 眉を寄せ、おそるおそる彼を見上げる。レイモンドはうっと仰け反った。仄かに頬が赤い。やはり怒っているのだろうか。

「それは、母上がお許しになったということでしょう? なら何も問題ありませんよ」

「本当ですか! 良かった」

 心底安堵して、ふにゃりと笑み崩れると、レイモンドは目を泳がせた。何だろうと首を傾けると、砂糖に触るようなぎこちない手つきで頬と顎の線をなぞられる。ぴくりと睫毛が震えた。心臓が壊れそうだ。

「レイモンド、様……?」

「それでも、オルポート卿がして、私がしないのは、釈然としません」

「……? ああ、それでしたら、今度王妃様にお頼みしてみま、」

「そちらではありませんよ」

 幼子をなだめるように、彼は小さく苦笑した。くいっと引き寄せられる。無意識に唇が彼の名を紡いだ。けれども声にはならなかった。

 ふわりと温かいものが額に触れる。

 瞬く。

 ぼっ、とシャルロットは赤くなった。

(え、——ええ? あ、え、今、な……何かが、)

 混乱するシャルロットの髪の毛をまるで愛おしむみたいに撫でて、レイモンドは少し楽しげに微笑う。だから彼女はそれだけで何だかどうでも良くなってしまった。同じように微笑む。

 束の間。そう、束の間で良いのだ。

 愛おしむみたいだなんて、きっと錯覚に違いないのだから。

 

 

 

  

 

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