濃緑のドレスに着替えたシャルロットを待っていたのは、今にも舌を噛み切りそうな様のエレン・ブラックストン嬢だった。
ぬかづいて蒼白な顔で謝罪を繰り返す彼女に若干引いたシャルロットだったが、慌てて跪き、顔を上げさせる。
「大丈夫、大丈夫ですから! もうご気分はよろしいのですね? それなら何も問題ありません」
「本当に、本当に申し訳ございません! 御身のご衣装を、わ、わたくし、」
「だ、大丈夫ですから。落ち着いてください」
気持ちは分からないでもないが、そこまですることだろうか。もしかして自分は対応を間違えてしまったのだろうか、というか彼女にお咎めがくだったらどうしよう、とそのようなことに思いを飛ばしていたところ、かたりと扉が開いた。
「エレン、それぐらいにしなよ。シャルロット様がお困りでいらっしゃる」
レイモンドとよく似た、けれど少し幼い声にシャルロットはほっと表情を緩めた。アスター様、と呼ばわると、彼はにっこり微笑んだ。十五のシャルロットより一つばかり年上の彼は、やっぱり少し、彼女の婚約者に似ていた。ただアスターの方が柔らかい髪の毛に癖があって、少年らしさが滲んでいる。
「エレン、君ね、気持ちは分かるけど、シャルロット様は本当に気にされていらっしゃらないのだから、良い加減顔を上げなさい。失礼だよ」
「あ、アスター様、そんな」
さらっときついことを言うアスターに軽く面食らいつつ、取りなすような眼差しを送るが、どこ吹く風。サラッと黙殺される。だがエレンの方は彼の言葉で漸く顔を上げた。美しい顔に涙の跡がくっきりと残り、目許はうさぎのように赤くなっている。痛々しい。折角の美人なのに。
「アスター様、どうして……」
「アメリアに聞いたんだよ。君がシャルロット様にご迷惑をおかけしているって」
「迷惑だなんてそんな!」
「もちろんアメリアはそんなこと言ってませんよ。僕がそう解釈しただけです」
諌めるシャルロットに見当違いな答えを返してアスターはエレンの前に膝をついた。シャルロットはぎょっとした。もっとエレンが恐慌状態になってしまうかと思ったが、彼女は茫然とするだけだった。
アスターは彼女に合わせるようにことんと首を傾げる。
「君、何でそんなことになったの」
「あ……そ、の」
「ちゃんと言いなよ」
(アスター様——————!)
内心悲鳴を上げたのはシャルロットだけではないだろう。ポーラ達も冷や汗を掻いている。いつまた泣き出してしまうかとやきもきするが、予想に反してエレンはきゅっと唇を噛み締めるだけに終った。焦れたようにアスターが彼女の名を呼ぶ。
その様子にふと、この二人は知り合いなのだろうかとシャルロットは思った。
「エレン!」
「何でも——何でもないのです。ただ、少し気分が悪くなっただけで」
「嘘でしょ、それ。君、分かりやすいんだよ。言えば僕がとっちめてやるから」
「だから嫌なんです!」
猛然とエレンが怒鳴った。この少女にこんな声が出せたのかとシャルロットはちょっと仰天した。
アスターはむすっと顔をしかめた。浅いため息をつく。
「君は、」
「……はい」
「君は、無駄に、人が善くて、小心者だ」
「……後半に対しては、謹んで肯定致します」
ふん、と不満そうにするアスターと頑として口を割ろうとしないエレンを交互に見て、
「……とりあえず、お茶に致しませんか」
シャルロットはティーセットを抱えたままおろおろしている侍女の方を示した。
「エレン様はアスター様と既知の間柄でいらっしゃるのですね」
何か話題を、と小さな一室で紅茶を含みながら、シャルロットはとりあえず口火を切った。
はい、と戸惑い気味にエレンが頷く。アスターは用事があるとかで去って行ってしまった。忙しいところを無理に来たらしい。なんとなくそれは、彼の心の柔いところに巣食う甘いものではないのだろうかと、シャルロットはぼんやり思ったが野暮なので言わなかった。
「小さい頃から仲良くしていただいております。……その、叱られてばかりなのですけど」
しゅんと肩を落とす様まで可愛らしい。
「でも、とても気にかけておいでのようでしたわ」
「……わたくし、いつもご迷惑をおかけしてばかりで。恐らくそのせいだと思います」
それでも、彼女は言わなかったのだ。あんなところで踞っていた理由も、何もかも。
(恰好良いわ)
シャルロットは破顔した。
「エレン様。もっとお力をお抜きくださいませ。わたし、エレン様、とっても好みですの」
「…………は?」
ぶふ、とポーラが吹き出す。な、な、何仰っているんです! と後ろから口差しされたがさらりと無視する。
「アスター様が無理でも、わたしにならどうですか?」
え、とエレンは眸を揺らした。冬の夜空のような濃紺。
「わたし、こう見えて聞き上手なんです」
いつも話が通じてないと脱力されていることは秘密だけど。
*
レイモンドはむっつりと回廊を横断するアスターを見てちょっと変な顔をした。
「アスター? 何してるんだ」
「え、——ああ兄上。また押し付けられたんですか……?」
「可哀想な目をするな。おまえこそ何でそんなに苛々してるんだ。道行く人々をおろおろさせて」
「……すみません。ちょっと、その」
気まずそうに顔を背ける弟の表情にレイモンドはぴんときた。
「ああ、エレン嬢がどうかしたのか」
「何で分かるんです?!」
「……分からないと思うおまえが分からないよ……」
よいせ、と書類の角を整え、懐に印を押し込む。もう少しすればアレックスがまた仕事を持ってやってくるだろう。その間くらいこの弟に付き合っても問題ない筈だ。家族の中で一番器用で不器用なのが彼なのだ。
「ちょっと聞いてください!」
「ああはいはい。そのつもりだからそう勢い込まない」
そして彼は必ず自分に愚痴ってくるのだ。
滔々と奮然と語ってくるのを聞きながら、あの子の前でもこれくらい素直にすればいいのに、と遠い目で思う。いつもはだいたい穏やかで人付き合いの良いアスターは、何故か昔からエレンの前では妙につっけんどんな態度になっては落ち込ませて、それに自分で落ち込んでいた。馬鹿だ。
「そうか、シャルロット様がお相手くださってるんだな」
「はい。シャルロット様は全然お気になさっていらっしゃらないようでした」
「まあ、シャルロット様だし……そういうことより、エレン嬢を気に入っているんじゃないかな。ああ、じゃあ大丈夫だよ。彼女が何とかしてくれる」
「で、ですが、もし何かあったら」
うーん、アスターは素直になれないくせに過保護なんだよなぁ。
緩い足音が近づいてくるのに内心げんなりしつつ、ぽんぽんと弟の頭を撫でる。
「ちょ、兄上。僕もうそんな歳じゃ、」
「その言葉が青臭いよ。シャルロット様はあんなだけど、何だかんだで外さない方だから、本当にまずくなったらきっと仰ってくださるよ」
「でも、間に合わなかったら!」
「そういう時は、俺の出番だね」
にこりと微笑んでやるとアスターはちょっと落ち着いたらしく、すすっと仰け反った。心無しか顔色が悪い。
「……兄上?」
「間に合わない場合は、つまり、シャルロット様も巻き込まれるってことだから」
そうなったら俺の出番だ、とにこにこ笑う。安心させるつもりで言ったのだが、あんまり効果はなかったらしい。アスターがごくりと唾を呑む。
「……道徳心は、忘れないでください」
「……どういう意味?」
「はい与太話はそこまでー。レイ殿下はこれね。ちゃっちゃかいきますよー、ちゃっちゃか」
ぱん、と乾いた音を立てて本をはたき、アレックスがにゅっと顔を出した。ぎょっとするアスターと肩を落とすレイモンドである。
「これ、ライラック卿の要請ね。ハイランディアの農民の血判付き書き留めも手に入れましたから」
すごいでしょー、とすこぶる軽いアレックスに、レイモンドははいはいすごいすごいと適当に頷いた。