彼女の最低な夫

 

 

 

 


 

 

 侑芽の見つめるさきで、宗谷がいっとうやさしく美夜を抱き上げた。

 ましろくすべらかな頬におのれのそれを寄せ、いつもは感情の薄い双眸を、まるで愛おしくてたまらないと言わんばかりに蕩かしている。ゆっくりと、ひどく慎重に、彼は美夜を抱きしめた。落とさないよう、けれど締め付けすないよう。びっくりするほど愛情深い手つき。

 侑芽はその様子を見ると、とても幸福な気分になるけれど、少し、納得がいかない。そんなにやさしくできるくせに、どうして侑芽に対してはああなのだろう。そういう不満と、彼がなかなか美夜を放さないから、彼が居る限り、自分の腕にはなかなか美夜が回ってこない、という不満。いつも、独り占め。

 わたしの、子供でもあるのに。

 普通、と彼女は思う。普通、世の中の夫というものは、どうにも親としての意識が上がらず、子供が小さい頃であればあるほど、関心を遠くするものだ、と聞いていたのに、どうなっているのだ。何しろ父親が宗弥だ、正直、もっとひどいだろうな、とこれっぽっちも期待していなかった。予想外だ。

(いいことなんだとは、思うけど)

 思うけど、納得がいかない。覚悟を決めていた自分としては、かなり。長年のことだけれど、宗弥の考えることは、やっぱり、よく分からない。ていうか、宗弥って、よく分からない。

 ベンチでひとり腰掛け、遊具で楽しげに遊ぶふたりを眺めながら、侑芽はむっつりと顔をしかめた。と、ブランコから美夜を下ろした宗弥が、こちらに向かってくる。侑芽を見る目は相変わらず、温度がない。

「どうしたの」

 声もつめたい。

「まま、どうしたのー?」

 美夜は優しい。

 侑芽は手を伸ばした。渡せ、と眼で抗議する。宗弥は数秒の沈黙の後、美夜を脇から抱えあげ、侑芽の膝に乗せた、とき。腰を曲げ、侑芽に顔を寄せてきた。え、と驚いたその目尻に、つめたい感触がよぎる。ゆっくりと瞬いて彼を見上げると、美夜、ちゃんと抱いて、と怒られた。慌ててぎゅうと抱き寄せる。と、今度はくちびるに同じものが触れた。

「……っん、」

 なに。

 硬直している間に、くちづけは深くなる。吸いつくように角度を変え、舌を絡めとられ、息ひとつすら塞がれる。まるで当然のように自然にもほどがある流れだった。いったいこのひとは、いつの間に、こんなにキスが上手くなったのだろう。拒む力が抜け、なんだかなあ、と思いながら、そっと目を閉じる。すると一度くちびるは一ミリ程度ばかり離れ、ふっと熱い吐息を吐きかけて、また侑芽のそれを塞ぐ。彼女を覆うように宗弥の両手がベンチの背もたれを掴む。額がこすれ合い、前髪が混ざった。

 そうしてようやく長いくちづけが終わる。ゆっくりと舐めるようにして離れていった温度を微かに淋しく感じつつ、は、と安堵の息をつく。宗弥、とよわい声で夫を呼ばう。

「なんで、宗弥って、美夜にはふつうに、やさしいの」

 言外に、わたしにももう少し容赦してもいいと思う、とささやかな願いを込めて言ったけれど、意味が分からないという顔をされただけだった。

「美夜は、俺の子供だし」

「……わたしの子供でもあるんだけど」

 知ってるけど、とさらりと流された。ひんやりした宗弥の手が、やさしい眼差しを伴って、やさしい手つきで美夜の頭をかき撫ぜたあと、侑芽の髪を無造作に撫でた。格差がある。

「俺は、昔もだけど、今だってずっと、侑芽を泣かしたいと思ってるけど」

「……え」

 それは、まあ、なんとなく、分かって、いる、けど。くちに出されたのは久しぶりだったので、なにげなく衝撃だった。宗弥のつめたい眼差しが、侑芽の瞳をはっきりと射る。くやしい。くやしいことに、侑芽の、すきな、宗弥の眼差し。いつかと全く同じ——というより、艶を増した危うい熱がこもった、その。

 ……ひどいことだ。その眼に、侑芽は何度でも恋に落ちる。違う。突き落とされる。

 すき。このひとが、すき。ひどい。だいきらい。宗弥の望み通りに泣きたくなるくらい、胸がしびれて、息がくるしい。くちからあふれでそうなほど、すき、で、いっぱいになる。

「……さいてい」

 あんまりにも腹が立ったものだから、キッと睨むようにしてそう言えば、彼はさらに瞳の熱をひどくして、ゆっくりとくちびるの端を引き上げた。何か、つぶやく。でも、なんて言ったのかは分からなかった。

 ああ、もう。

 心臓が、くるしい。

「……ぱぱあ、ままいじめちゃ、だめよ」

「愛してるって、パパなりに伝えただけだよ」

 あっさりそんなことを言って彼は愛娘に愛おしげな笑みを見せる。もう、と侑芽はさらに眉を寄せた。

 

 

 そういうこと、本人に言ってよ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼の愚かしき妻

 

 

 

 


 

 

 

 美しい夜。

 宗弥の恋人の腹から生まれた彼の子は、つけた名の通り、つややかな黒髪と吸い込まれそうな両目を有している。ちいさな手を伸ばして抱きついてくる子供の高い体温が愛おしく、傍にいられる日は、妻が不満げになることを知っていながら美夜を独占する。ものほしげに子供を見つめる妻の、どこか困った顔を見るのも、楽しみのひとつだ。

 ただ、どうも自分は抑制がきかない、と彼は少しばかり反省していたりする。長く一緒にいるが、ずっと透き通るように感情を読ませない侑芽の瞳を見つけると、どうしても、泣かせたくなるのだ。もっと、はっきりとこちらを見ればいい。睨めばいい。うつくしい涙が玉となってあふれる様が見たくてたまらない。だけど彼女が意図のないところで本当に泣くと、彼女以外のすべてのものに憤りを覚えるのも事実だった。彼女は幸せでなくてはならない、と思う。すさまじい矛盾だ。

 侑芽は、宗弥が美夜を可愛がるの不思議なようだった。不思議がる侑芽の方が不思議だ。美夜は生まれた瞬間から特別だった。それに美夜はちいさな侑芽みたいで、そう思うとさらに顔が崩れそうになる。宗弥は侑芽が美夜を慈しむ姿が好きだった。愛おしいものがふたり、一方は未だ彼の胸を焦がすただひとりの、一方はおだやかな幸せの源の。侑芽のやわらかな眼差しが、美夜に注がれるのを見るのも好きだった。昔は彼女の感情を伴う視線がほかの誰かに向けられるなど、冗談ではなかったというのに、自分も変わったものだ、と思う。ただ、やはり、美夜以外となると、若干不愉快になるが。

 不意打ちを狙ってくちづけると、彼の愛しい妻は硬直したあと、ゆっくりと目を閉じた。長い睫毛がふわりと下がるさまに目眩がする。めちゃくちゃに泣かせたくて、この世で誰よりも幸せにしたくなる。宗弥の手で。

 名残惜しく思いながらくちびるを離すと、彼女はかねてからの疑問を口にした。こちらもかねてから言わなければと思っていたことを告げる。

「……さいてい」

 ああ。

 その、顔。

 きつく、はっきりと、真っすぐに宗弥を、宗弥だけを睨むその眼差し。その変わらぬ苛烈さに死にそうになる。すきだ。愛おしくて、心臓がふるえあがって、そのまま止まりそうになる。すきで、すきで、たまらない。この女が欲しい。学生の頃からずっと彼は考えている。どうすればこの女を自分だけのものにできるのか。結婚してすら、分からない。いつまでたっても、侑芽は宗弥にもったいない。

(ばかだな、侑芽)

 俺の、いちばん、すきなひと。

 彼女は見る目だけがない。宗弥を睨む眼差しは、それでも彼を好きだと言う。彼女はたった一度のチャンスをふいにして、宗弥の彼女のまま、宗弥の妻となった。宗弥は一生彼女を逃してやる気はない。泣き顔も、宗弥の心臓を止める笑顔も、彼のものなのだ。

 ……ああ、それに、しても。

 頬が熱くなるのを自覚する。侑芽の睨み顔に、自然と頬が緩んでしまう。ああ、

(かわいい)

 うっかりその言葉が口の端からあふれでた。ああもうどうしようもない。かわいい。かわいい、かわいい、かわいい。侑芽は、なんだってこんなに、可愛いんだろう。

「ぱぱあ、ままいじめちゃ、だめよ」

 美夜もまた可愛らしく言った。その言い草のいとけなさに、高鳴った心臓が少し収まる。まったく、美夜は大した子だ。父をきちんと落ち着けてくれる。

「愛してるって、パパなりに伝えているだけだよ」

 娘にはさらりと言えるのにと少し思いつつ、怒れる美夜を安心させる。もし、侑芽に嫌がられたら、宗弥は生きていけない。だから彼はなかなか、というより、切羽詰まったときばかりしか、彼女に愛していると言えないのだ。

 

 

  

 

 

   本編 / 番外1 / 番外2


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