わたしのつめたいすきなひと

 

 

 

  1:あなたの声はわたしをだめにする


 

 つないだてのひらがつめたい。

 いつも通りの帰り道は、そろそろ落ち葉も消えて、ただ寒さだけがうろうろとあたりを彷徨っている。侑芽はつないだ手のさき、自分の、おそらく恋人の顔を、ぼうっと見上げた。

 これも、いつも通り。

 端正な顔は侑芽を見ない。大抵、薄い笑みのような口許をして、前を向いている。伏せがちの睫毛。柔らかそうな髪。

「侑芽」

 ふいにそのひとが彼女を呼んだ。つめたい目が、侑芽を見る。どくん、と心臓が呻く。言おう、言おうと思っていた言葉が、喉の奥まで戻ってしまう。影がかかる。そのひとが近付いたのだ。侑芽の恋人。おそらくの。宗弥。慣れない下の名前。侑芽はまだ、彼のことを、老原と、名字で呼ぶ。名前で呼べない。呼んだら、決定的に、崩れてしまう気がして。

 鼻先が触れ合った。

 キス。

 つめたい、触れるだけの、くちづけ、だ。

 あわい、寒さに白くなる息が少しだけ熱を持って、くちびるをくすぐる。侑芽は瞬間的に閉じた瞼をそっと上げた。

 感情の読めない、宗弥の目が間近にある。

 わたしのことなんて、きっとこのひとはすきじゃない。

 だから、いつも、もうやめよう、そういう風に言い出そうとして、でもそのタイミングで、このひとは侑芽と呼ぶ。決して優しい声音ではない。いつも通り、つめたい声だ。なのに。

 なのに、その声は、侑芽を骨の髄まで駄目にするほど、侑芽の耳に甘く響く。

(……わたし、)

 つないだ手がつめたい。それが涙腺のゆるみを押しとどめる。

 ああ、わたし。

 どうしてこのひとがすきなのだろう。

 

 

 

  2:ばいばいまたねはいつもきみから


 

 

 帰り道は、いつも静かだ。宗弥はあまり喋らないし、侑芽はただぼうっと悩んでぼうっと彼を見上げるばかり。だからいつも、外の世界の音しかしない。

 角を曲がり、三叉路に出る。ここで、道は分かれる。

「……じゃあ、また、あした」

 このときばかりは侑芽が言う。いつも。それぐらいしか、喋れない。息が苦しくて、何も吐き出せない彼女の、唯一、口にできる言葉。宗弥は少し止まって、やっぱり感情の読めない、つめたい目で彼女を見て、何か口を開きかけて、やがて閉じる。それから侑芽と同じように、ああ、また明日、とひんやりした声で返してくる。侑芽はぎこちなく笑った。うん、と意味もなく頷く。

 そうして、振り返らず、家へ帰るのだ。

 

 

 

  3:へたくそな駆け引き


 

 

 ゆめ、と間違いなくあまい声が、彼女を呼ぶ。それは、決して、二人だけの時ではない。多いのは、教室。宗弥は、教室ではどうしてか、侑芽に優しいふりをする。

「落としたよ」

「あ……り、がと、う」

 未だにこの落差に慣れない。でも、つきあう前はこういう風だった気もする。今よりはもう少し他人行儀ではあったけれど、素直に、優しさを受け取れる程度には。

 宗弥の髪が侑芽の髪に混ざって、額がこすれる。ほんの一瞬。その一瞬に身構えた侑芽の頭を、宗弥はやさしく、とても丁寧な手つきで撫でた。

「侑芽、ぼうっとしてる」

「あ、ごめ」

「俺は、そういう侑芽も好きだけどね」

 心配するよ、と笑うこのひとは誰だろう。

 まるで、侑芽を好きみたいな、ことばと、かおと、ふるまい。

 まるで、彼氏、みたい。

(……彼氏、だけど)

 穏やかで、微かに甘さを感じる、綺麗な微笑。……ときどき、侑芽はその表情に、耐えられなくなる。

 宗弥。未だ慣れない下の名前。いつも、胸の裡だけでとどまってしまう。

 宗弥、ねぇ。

 どうしてわたしとつきあったの。

 

 

 

  4:あなたを遠ざける理由にはならなかった


 

 

 

 つきあって、と言ったのは、宗弥の方だった。

 侑芽はその時息ができなくて、茫然として、心臓が止まりそうになって、それから少し、泣きそうになった。

 断る理由なんてなかった。

 侑芽は、どうしてだろう、その時はもう、宗弥のことが好きだった。本当にどうしてか分からない。あんなに感情のない、ただつめたいだけの声で、そんな風に乞われただけで、倒れそうになるほど喜ぶなんて。本当に、どうかしている。

 でも、侑芽は、そのひとがすきだったのだ。その手を迷わずとってしまうくらい、きっと。

 

 

 ふたりきりになると、宗弥はすぐ、無口になる。柔らかな物腰は硬質に、面差しはつめたく、そして侑芽を見ない。枯れた紅葉の並木通りの下を歩きながら、侑芽はくちびるを噛み締めた。老原、と呼びかける。緩慢に瞬いて、彼は侑芽を見た。歩みが止まる。

「……ねぇ、もう、やめよう」

 なにを、と興味の薄い顔で問われて、喉が詰まった。それでも、つきあうの、と今日こそ彼女は言った。

 言った。

 宗弥はいつも以上の無表情だった。……侑芽が、そう感じるだけかも、しれなかったけれど。

「なんで」

 ひやりと耳を貫く声。宗弥のつめたい声。でも、侑芽は、教室でのうすっぺらな優しい声より、こっちの方がすきだった。より、彼自身だった、から。

(……『なんで』? そんなの、わたしが、聞きたい)

 なんで、つきあおうなんて、言ったの。

 宗弥、と彼女ははじめて、彼の下の名前を呼んだ。宗弥の目が愕然と見開かれた。

「わたしのこと、嫌いなの」

 嫌いなの、というこの質問は、これまで幾度か繰り返したものだった。いつもと違うのは、侑芽がもうすでに泣きそうになっていることだ。いつもはただ、ぼうっと、口にするだけだった質問。いつもただ、不思議な表情を返されるだけだったことば。

 宗弥は何も言わなかった。目を見開いたまま、侑芽を見ている。

 沈黙に耐え切れなくなって、彼女は視線を逸らした。いいよ、と、呟いて。

「好きじゃないのに、無理に、手をつないだり、一緒にいたり、しなくていいよ。……どうして、わたしにつきあおうなんて言ったのか、まだ分かんない、けど、」

「侑芽は」

 ふいに彼は侑芽のぎこちない言葉を遮った。つめたいだけではなくどこか厳しいものだった。だからびくりと肩を揺らしてしまう。心臓がぞっとした。

「侑芽は、俺を嫌いなの」

 え、と彼女は変な声を出してしまった。意味が、分からない。意表を突かれてまじまじと一応の恋人を見上げる。そのひとはまた、硬い表情で続ける。

「……つきあったの、後悔してる?」

 侑芽はやっぱり意味が分からなかった。どうしてそんなこと言うのだろう。聞いたのは、侑芽の方なのに。どうすればいいのか、どう答えればいいのかも分からなくて、侑芽はぼんやりとしてしまった。答えを探しているうちに、また宗弥が口を開く。

「……俺がつきあおうって言ったのは、侑芽を好きだからだけど」

 侑芽が俺とつきあったのは、断れなかったからなの、と。

 宗弥は侑芽の思いも寄らない言葉を口にした。血の気が引いた。そんな、ひどい誤解は、恐ろしいほど堪らなかった。反射的に叫ぶ。

「ちが、違うよ!」

「じゃあ、なんでつきあったの」

「なんで、……なんで、そういうこと、聞くの。わたしは、」

 ああ、でも、わたしも同じようなことを、宗弥に聞いた。だって、宗弥は、まるでわたしのことなんて好きじゃないみたいだったから。

 ひくりと喉が鳴って、情けない顔になる。力が入らない。

 でも、言わなきゃ。

「……わたしが、宗弥を好きだから。だから、断れなかった、だけ」

 宗弥はまた黙った。息が詰まるような。

「……侑芽が俺の名前呼ぶの、始めてだね」

「え、……あ、うん」

「俺は、侑芽が俺のことを、そういう風に好きなんじゃないって、思ってたけど。だから別れたいの?」

「え……?」

 殊更につめたい調子で彼は聞く。侑芽はびっくりした。

 ……え、え?

 それは。

「それは、老原の方じゃ、ないの?」

「は? 俺は別に別れようなんて言ってない」

「そ、じゃ……なく、て。だって、老原、教室じゃ変、だし、ふたりきりだと、……わたしのこと、見ない、し。わ、わたしの、こと、嫌い、みたいだし」

 言い募れば言い募るほど、宗弥の顔が苦々しく歪んでいく。怖い。侑芽はざあっと青ざめた。じり、と後ずさる。が、腕を掴まれた。

「悪かった」

 ぴた、と侑芽は止まった。硬直した。

 宗弥が謝った。……何でかは、よく分からないけど。

「俺は、侑芽が、好きだよ」

 噛んで、含めるような、口調。

「……だから、ふたりきりだと、上手く喋れないんだ」

「……え……」

「教室だったら、人がいるから、冷静になる。それで、なるべく優しくしようと、してるだけ」

「…………」

「嫌いなんかじゃない」

「う……」

 ほたり。

 何かが、頬をつたって、枯葉に混じってこぼれおちた。それが何なのかようやく分かって侑芽は慌てて目許を拭った。その、手を。

 もう一方の宗弥の手に掴まれる。え、と瞳を揺らすと、とてもなめらかに、涙を拭いたゆびさきを唇に含まれた。ぴりりと電流のようなものがゆびの芯からはしり抜ける。背筋が粟立った。まるで食べ物みたいに扱われて、皮を吸われる。か、と頬に朱がのぼった。

「……ほんとうは」

 ためいきのように宗弥が呟いた。近いままのゆびさきに息がかかる。

「本当は、もっとつめたくしたい。侑芽が傷つくのは、俺のせいだけがいい」

「え、」

「反対にどろどろに甘やかしてやりたくなる。俺がいないと駄目になるくらい」

 息ができない。

 まるでひとりごとのようなその言葉が、あまりに鮮烈だったので。

 宗弥のつめたい目が侑芽を見る。どうしてだろう。どうして、今まで、自分はただ痛むだけでいられたのだろう。不穏なほどの熱を持ったその眼差しに、どうして平気でいられたのだろう。

 目眩がする。

「……宗弥、わたしのこと、嫌いなの」

「ああ、好きだよ」

 いつもと同じで、けれど確実に違う問いに、彼はいつもとまったく違う答えを返した。ほたり、とふたたび、涙がこぼれる。構わず、侑芽は一歩、彼女の恋人に近付いた。

「だったら、何しても、いいよ」

 秘めやかに、睦言のように、言った。ぎこちない手つきで抱きしめられる。宗弥のくちびるが頬に触れ、涙を食べた。

 嘘吐きだね、と彼は、とても珍しく、微笑った。

 

 

  5:黙ってしあわせにしなさい!


 

 

 宗弥はときどき、教室でもつめたい。

  ふたりきりの時は、もっとだ。けれどもふと箍が外れたように、危うい目で侑芽を見る。それからゆっくりわらって、キスをする。嫌いなの、と侑芽は聞く。ああ、好きだよ、と宗弥は答える。手首を、首筋を、頬を、目尻を、くちびるを。すくうように食べていきながら。

 ときどき、宗弥のつめたさに我慢ならなくなると、侑芽はこらえずに泣くことにしている。それから、宗弥を睨んで、きらい、と叩きつける。そうすると、それまで彼女の泣き顔にぼうっと魅入っていた彼は、瞬時に表情を消して、おどろくほどあっさりごめんと言う。それから侑芽を抱き寄せる。腕を突っ張って抱擁を拒否しても、彼は嗜虐的に笑って、文句を言いかける侑芽のくちをなめらかに塞ぐ。それが実のところ彼が焦っている証しなのだと、最近ようやく分かってきた。

「侑芽、嫌いなの」

「きらい。でも、すき」

 怒った侑芽を宥めたあとに、彼はよくそうやって彼女の真似をする。そういう時の返答も、決まっている。すき、とふかく、自分のものとも思えないようなあまい声でそう、負け犬みたいに落とせば、彼女のつめたい恋人は、普段が嘘のように、蕩けるような顔で微笑うのだった。

 

  

 

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