「――――了解」
 ピッ、と電源を切る。ヴァーライグが作った違法電波式通話機は今日も不調で、たかだか酸性雨くらいの影響によりひどい雑音ばかりを伝えてくる。意思伝達は一言程度しか送れない。溜息をついて端末を仕舞い込み、傘を回す。土砂降りの雨の中に飛沫が飛び散った。色のない水滴は僅かな安堵を誘う。これは赤くない。
 ライヒ二十七の月通り八番角裏。
 雨が酷い。打鍵の音のように激しく、青く濡れた石畳を虐げている。大雨が紗のように視界をぼやけさせる。肌を刺す冷気に熱を抱えた脳がしずかに冷やされていく。凍るように。考える思考すべてが凍結される。ただ命じられたことのみを遂行する。
 洪水のように溢れる水たまりを踏みしだき、路地の奥へ入る。進むごとに影が深くなり、茶黒く濡れた石壁に、しかしそれ以外の色を見つけて、彼は微かに眉をひそめた。雨にすすがれてなお残る赤だ。一日に溺れるほどの溜息が出ることから、いったいいつになれば解放されるのか。
「クリスティーネ」
 ゆっくりと、影が動いた。うごめく闇と似ている。無垢な輝きは色を失せ、もはやくすんで過去の影もない。水たまりを汚す色が彼女の金の髪と混ざって地を流れていく。
 傘もささずに濡れそぼったままの少女が無表情で立ち上がる。無慈悲な眼差しが彼女の足許に落ちる肉塊に注がれるが、相手はぴくりとも動かなかった。彼女が振り向く。水に流れていく血のように赤い唇が引き上がり、凄絶な笑みを浮かべた。
「エーミール」
 まるで恋人に対するような愛おしげな口ぶりで彼女が呼ばう。凍結した脳に隙間を縫って染み込むその声音はあまりに甘く、まぎれもない毒のようであった。彼が動かずにいると、冷えて青ざめた裸足を数歩動かして近付いてくる。
「エーミール、終わったよ」
 そうしてしあわせそうに言った。彼は右手の革手袋を取り、濡れ続ける彼女の頭に手を伸ばす。クリスティーネは目を瞑って、猫のように愛撫をねだった。乞われるままにぎこちなく小さな頭を撫でやる。吐き出す息は湿り、薄靄を生む。右手を彼女の首に滑らせ、彼はとけるほどの小さな声でつぶやいた。
「おつかれ、クリスティーネ。おやすみ、……ほんのしばらくの間だけれど」
 瞬間、クリスティーネの力が抜け、がくりと寄りかかられる。意識を失った彼女をそっと横たえ、革手袋を嵌め直す。それから被害者に視線を走らせ、今日もまた派手にやったことだ、と胸の中でのみぼやいた。事後処理をやる方の身にもなってほしいものだ。……いいや、弑す役の方がよほど精神を狂わせたのだろうが。
 エーミールは傘を回した。己の血でまみれた男に先を向ける。考える脳は冷えた。ただ、残っているのは言われたことを実行するだけの思考力のみ。
「――――埋葬だけは、綺麗にしてやる」
 降りしきる雨の中に、微かな爆発を起こす電流がほとばしった。



エーミール、終わったよ











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