世界はうつくしいもので満ちているのだとあのひとは言った。 だから、お別れもうつくしいものがいいのだ、と。 シャールカは手紙をもらった日から、この日をずっと心待ちにしていた。だから朝起きて鳥の鳴き声に今日の訪れを知った瞬間、家を飛び出していた。 町の間を隼のように走り抜け、駅に向かう。汽笛の音が聞こえ、黒い箱形の列車が煙を吹きながらやってくるのを、彼女は見た。どきん、と心臓が高鳴った。どき、どき、どき、と鳴り続ける。それからぎゅうっとせつなさが胸を苦しめた。それは、喜びだけではなくて、いくらかの恐怖も伴って。 (ううん、今度こそ) そう、今度こそ、止められるはず。シャールカは暗い考えを振り払い、駅の出入り口をじっと睨んだ。たくさんの人間が吐き出され、ぞろぞろと通りを過ぎていく。荷物を運ぶ音、再会を喜ぶ声、あくびをしながら宿を探す人々。ああ、春がきたのだ。シャールカは思った。 そして、ふいに紅茶色の両目をこぼれおちそうなほど見開いた。ゆっくりとその瞳は潤んで、ふちに水たまりを作り、ほろ、と一粒堪えきれずに頬を伝った。その涙が、流れる。 「ヴィート!」 シャールカは恋い焦がれた待人の姿を見つけて、まろぶように駆け出した。呼び声に振り返った黒い影が、飛びついた彼女を抱きとめる。ふう、と安堵の息を吐いて、彼はふわりと破顔した。 「やあ、シャールカ。危ないじゃないか、まったく、気をつけなさい」 「ヴィート、ヴィート、おかえりなさい!」 「うん、ただいま僕の愛しいきみ。さあ、久しぶりに顔を見せておくれ、僕が幸せな春を迎えられるように」 言われてシャールカは泣き顔を上向けた。ヴィートが蕩けるように相好を崩す。彼よりも随分と小さな少女のまぶたにくちびるを寄せ、そうしてしおからい涙を舐めとった。 「ヴィート、お土産話を聞かせてちょうだい」 「もちろんだとも。今回は東のトルイエに行って、コアンにまわり、ロクシスまで見てきたよ。ロクシスは相変わらず、陽気な人間ばかりだった」 ヴィートの荷物を一抱え奪い取り、シャールカは隣をのんびりと歩く。こどもの頬のような、優しい色味の花をつらねた木々が、二人を歓迎するようにそよいでいる。はらはらとこぼれおちる花弁がシャールカの銀の髪にかかる。ヴィートがそれを丁寧に取り払っては、ぽんぽんと彼女の頭を撫でた。 シャールカは、ヴィートのこの大きな手がとても好きだった。はじめて会った瞬間、何か甘く痺れるものが胸を焦がして、ああ、このひとがそうなのだとしたら、それ以上の絶望はない、と彼女は思った。けれど、彼は、それ、だった。 そっと見上げると、優しい眼差しとかち合う。頬を染めて、シャールカは俯いた。ああ、そう、これが、幸せ。シャールカが待ち望み、そしてそのまま停滞し続けたく願うもの。 花の舞い散る並木通りを、二人は殊更ゆっくりと抜けていった。他愛のない話をして、手を繋ぎ、視線を交わし、やっと辿り着いたシャールカの家は町の外れ、小さな小川のほとりにあり、ヴラジェナという、淡く色づく白い花を目眩がするほど開かせる老木がある。春に咲く花。シャールカがヴィートと出会ったのも――会わされたのも、春。この花の下だった。ヴィートは迷わずその場所に進んでいき、仕立ての良いズボンが汚れるのも気にせず座り込んだ。シャールカが続こうとすると、レースの四方形の布を広げられ、そこに座るよう促された。少し気が引けたが、ヴィートがにこにこと待っていたので、素直に腰を下ろした。小さなシャールカは、ヴィートの肩ほどもない。座っても、距離はあまり変わらない。 「一年前も、僕はこうしていたかな」 「うん。ヴィートはずっと、旅をするのが好きだったの」 「きみをおいてでも?」 悪戯っぽく彼が首を傾げるので、ふんとそっぽを向く。 「そうよ。いっつも、わたしをおいていくの。……わたしのために」 小さな囁きも、ヴィートは聞き逃してくれなかった。そうかな、どうかな、と軽やかに笑う。ヴィートは、ずるい。 「一族の方々に、変わりはないかな」 「元気よ。これっぽっちも弱っていないんだから、食欲旺盛なことだわ」 「そんな風に言ってはいけないよ。きみはそうやって気に病むけれど、僕らはね、主人を生かせることに誇りを持っているんだから」 やさしい手がシャールカのまぶたを覆う。じわり、熱が、疼いた。 「僕だけが、きみを生かせる」 甘い声。蜂蜜みたいにとろけて、シャールカを侵していく。影が濃くなった。てのひらが外される。眩しさに目を細めるシャールカのくちびるにやわらかなものが触れた。押し当てられた感触にうっとりとして、胸がきゅんと痛む。くるしい。くるしい、くるしい、くるしい。 あなたが慕わしくて。 「それに、いちばん大事な記憶は、ずっと残っている」 それはなに、と問うシャールカは、しかし答えを知っている。 「きみとはじめて会った日のことだよ。僕らは、その記憶だけは、奪われない。きみにすら奪えないほど強く、長殿に枷をかけてもらっているからね」 ヴィートは心底嬉しそうだった。その様子に、ああやはり、今回も駄目なのかもしれないと、シャールカは分かった。 「どうして、ヴィートたちは、わたしたちを恐れないのかしらね」 いっそ恐れてくれればいいのに。シャールカは鬼。 「僕らはね、はじめて会う瞬間に、恋に落ちる。もしくは、それに似た途方もない衝動。跪きたいという願望。もしくはすべてを捧げたいという欲求」 うつくしい湖水の瞳と、青みがかった夜の髪の彼らの血筋は、リー=ジェオの始祖がはじめに抱き寄せた人間を祖とする。それから呪縛は消えないままだ。鬼と人は、ある日、逢わせられる。 供給するものと、吸い取るもの。 つまり、永遠の餌として、ヴィートはシャールカのもとに連れてこられたのだ。 「僕の場合は、きみをすべて僕のものにしたいという、欲望だったけれど」 爽やかにそんなことを言う男を睨みつけて、シャールカは頬を真っ赤にした。 「まじめに、話しているのよ!」 「僕はいつも真剣だけどね」 「どこ、が――、っ」 赤くなった頬に落ちたくちづけが、鼻、くちの端、と降りてくる。そして最終的に、呼吸困難になりそうなほどの熱い接吻がシャールカを追いつめる。見た目ばかりは幼い少女相手というのにヴィートは容赦しない。ずる、と老木に寄っかかり、体勢を崩した彼女はほとんど仰向けで愛を受ける。体格差など気にも止めてくれないのだ。ヴィートは思う存分鬼を味わうと、最後にその首筋に痕をつけてようやく彼女を解放した。 シャールカは真っ赤になったままふるふると唇を震わせた。 「駅で会ったときは、我慢してたんだよ」 暢気に言わないでほしい。 「ヴィート、どうして、あなたはそう、もう、」 「嫌いになった?」 「大好きよ!」 叫んでから、はっとシャールカは固まった。ヴィートはでれっと嬉しそうな顔をしていた。 「うん、知っているよ」 シャールカは今度こそ撃沈した。はなびらが慰めるように降ってくる。ヴィートは、穏やかで優しくて紳士的だけど、なんだか、ずれている。と、彼は愛おしげに目を細めてシャールカのなめらかな頬を撫でた。 「その言葉で充分なんだよ、愛しいきみ。僕のすべてのひと。僕程度をのけられないなんて、きみはもう、随分と弱っている。……そろそろ、だろう」 「! ちが、」 違う、と言いかけたところを、くらりと目眩が襲った。落ちかけた額を押さえる。 凄まじい飢餓感が、食事を寄越せと訴える。 (いや。今度こそ、なくさないと決めたの) けれどその決意も虚しく、ヴィートは懐から四角い金属片を取り出して、あっさりと指を切った。ぽたた……と赤い血がしたたった。誘うようなあまい香り。凝縮された、彼の、 「きみが一年我慢した、僕の記憶だ」 ――――記憶の、匂い。 一年の間、シャールカと交わした言葉、思い出、旅の記憶。濃厚な知性と感情の原石。 「や、だ……っ」 「そうやって、苦しげに僕を見るきみの顔もたいへんそそるけどね。食べないと駄目だ」 死んでしまうだろう、と強い口調でヴィートが言った。 鬼は、花の下でひとの記憶を喰らう。 いや、場所も、人も、決まってなどいない。本当はどこでも、誰の記憶だって良い。けれど始祖は多くの人間の大切なものを奪うのを厭い、餌との関係を定めた。それは、確かに悪いことではなかった。けれども。 けれどもひとりの相手の記憶を奪うことは同じなのだ。 (これは罰ですか、始祖よ。罪深い鬼が背負わねばならぬ罰ですか) 何年、春を過ごしてきただろう。 彼がまだ少年の頃から、シャールカはずっと幼い少女の姿だ。そしてその頃からずっと、彼の記憶を奪い続けている。春がくるたび。飢餓に負け、魂から消えてしまいそうになるたび。何度も。何度も何度も何度も何度も! 心を交わした。想いが育った。恋は褪せない。時が過ぎるたびにそれは度を増して、微笑みに息ができなくなる。 ――――愛していると言ってくれた。 それを、恋だと。今年、はじめて、彼はくちにしてくれた。 ああ、もう、そんな風に想ってくれはしないかもしれないのに! 「シャールカ」 「記憶、なんて、いらない、もの」 「それではきみが消えてしまう」 「いや、」 いや、いや、いや。我が侭だと知っている。辛いのは奪われる彼の方だ。それを、もう恋人に戻れないかもしれないと、そんなことでだだをこねる自分は、随分と傲慢だろう。 「ヴィート、好きっていって」 彼は小さく瞬いた。花が揺れるよう。 そうして、ふわりと微笑む。優しく。 「ああ、好きだよ」 「あいしてるって、言って」 「愛している」 「もっと、」 「愛しているよ、本当に。きみが愛おしくて仕方がない。狂わしいほどに慕わしい。いとしいきみ、僕のうつくしいひと」 どうして、そんなに優しい声で、そう言ってくれるのだ。血のしたたる左手が、シャールカの口許に当てられた。なだめるように頭を撫でられる。あたたかな手。雪のようにつめたい鬼に熱をくれる。 「僕は覚えているよ。花の下、月に照らされた君の瞳は真紅に輝いて、銀の髪が風に踊っていた。貫かれるような、あんな衝撃、もう一生ない。きみが運命だと思った」 「うんめい」 「きみが、僕の、運命だと思ったんだ」 ひら、ひら。 花に変わる。 鮮血は凝り、シャールカの唇に触れ、はかない花びらに変わっていく。それはシャールカの頬へ押し寄せ、舞い狂い、彼女のなかへと溶けていく。ヴィートの蜂蜜みたいな声のように。 「僕が記憶をなくすたび、きみの執着は強くなる。きみのなかで僕は強く刻み付けられていく。今の僕が嫉妬するほど、一年前の僕がきみのなかにいる。ねえ、分かるかい、シャールカ。いとしいきみ。これはね、たいそう、堪え切れないことなんだよ」 はらはらと記憶は花に変わり、鬼のなかへ入っていく。 ひとの代わりに、刻まれていく。 「ごらんよ、春だ。うつくしいね。まあ、きみよりうつくしいひとはいないのだけど。……きみがいるだけで、世界はこんなにうつくしく満ち満ちている。だから、お別れもうつくしく行こう。きみもたまには僕のお願いをきいておくれ」 記憶がシャールカの体内に溢れ込んでくる。瑞々しく彼女の肉体を潤し、魂を留まらせる。シャールカは徐々に赤く燃え上がっていく両目をきらめかせ、ゆっくりと頷いた。どうすればいいの、ヴィート。呟く。 ヴィートは春風のように笑った。 「僕のためだけに、笑ってくれるかい」 とびきりがいい、と彼は言った。だからシャールカは、とびきりの甘い声で、いつもやってるじゃないの、と笑った。 一年分のヴィートの記憶が、花に変わって彼のなかから失われた。 気を失った彼が目を覚ましたのは数分後のことだった。年々、時間が短くなっている。やはり負荷がかかるのだろう。シャールカはきゅっと唇を噛み締めた。 「……っと、何で、僕、寝ているんでしょう……。あれ、あなたは――まさか――」 寝ぼけ顔から驚き、そしてどこか陶酔の表情に変化する愛しい男を振り返り、シャールカはもう一度、とびきりの笑顔を浮かべた。 「久しぶりね、ヴィート・ヴォツェク。わたしの顔、覚えている?」 春が終る。 ひとときの幸福は幕を下ろし、再び、シャールカとヴィートの一年が始まった。 (さあ、今度こそ、わたしが勝ってみせるわ) けれどその前にまず、もう一度あなたを振り向かせてみせるから。 |