あの子の声が、透明な水のようだと、そう思ったのはいつの頃からだったろう。
 

 
1.
 

祈りが止まれば呼吸も止まるよ

 

 

 

 村の北にあるなだらかな丘の、ふかふかに覆い茂った草原の上で、ラギはぼんやりと空を見上げていた。今日も目に沁みるくらい晴れがましい青空。うとうとと瞼が落ちかける。
「ラギ」
 ふと、聞き慣れた声が耳朶を打った。ひとつ、ふたつ瞬いてから、声のした方を見る。端がちょっと金色じみた、茶色い髪と茶色い眼。ラギとそう変わらない背格好。声はまだ少し幼い。でもラギよりは低い。あー、とラギはふぬけた声を出した。
「サリエ。おはよ」
「おはよ、じゃねぇよ。トンクじいさんが探してたぞ」
「うええ? 今日の紡ぎは終わったはずだけど」
「知らね」
 素っ気なく言って、サリエはラギの横に寝っ転がった。ぶわりと長い草が揺れる。反対にラギは身を起こして、丘の下に見える小さな村を眺めた。町、とも呼べない町があって、そこから繋がって集落になっている。それをひっくるめて村と呼ぶ。赤やら茶色やらのちっぽけな屋根が、ぽつぽつとあって、少し離れたところには羊の群れ。その反対側には牛の家。それからもっと内側に小さな畑が、ぼちぼちある。
 だけど、一番目につくのは、この朴訥とした、悪く言うと大して面白いものもない村では少し異質なものが、南の一番端にある。
 天を突かんばかりの、巨大な時計塔。色とりどりの硝子の破片が埋め込まれた美しき芸術品。象牙の文字盤の上で、先端に宝石のきらめく秒針が、かちりこちりと動いている。
「……ハルラは、今日も時計台?」
「そりゃな」
 ぽつりと零した言葉に返ったのは、どうにも淡白で、そしてどこか不本意そうなものだった。ラギは苦笑して、また草原に倒れ込む。地が揺れたからか、サリエは迷惑そうになった。
「地主の息子がこんなとこで油売ってていいの」
「知らん。俺はあのくそつまんねぇ文字を読み流すより、山羊の世話をしている方がよっぽど良いんだよ」
「何言ってんだか」
 サリエには二人兄がいる。どちらも優秀で、どちらもまあまあ普通な人間だ。人格者、というのとは、また違うかもしれないが。だからと言って悪人でもない。
 だけどもサリエはきっと、村の人間が思っている以上に、賢しらだ。言わないし、示さないし、それを喜びもしないから、恐らくそれはないと同じようなものかもしれないけれど。
 ごてん、と首を巡らせて、仏頂面のサリエを見る。眇めた両目は冷めて、興味もなさそうに鼻先を泳ぐ蝶を睨んでいた。
 なんだか、とラギはまた、頭を正面に向かせた。視界いっぱい、青空で埋まる。
 なんだか、今日もいつも通りだ。
 それが平和なのか、罪悪なのか。まだ、理解はできない。


 
 
 
 

 羊の毛を編み込んだ布製の靴は、あまり走るのに向いていない。
 だからラギはいつもゆっくりと歩く。この巨大な時計塔の中を昇る時も。鉄製の螺旋階段を一段一段、踏みしめるように、して。
 掠れた足音が鉄のきざはしを擦っていく。ラギは上向いて、ただ上をだけを目指して、昇っていく。足許は見ない。落ちたらどうしよう、とも思わない。
 この時計塔の中で、彼はただひとりのことしか考えない。
 時計塔。の、天辺。
 いちばん高い場所。
 その薄暗い箱のような部屋に、彼女はいる。
「ハルラ」
 ふわりと、光に透ける麦穂の色の髪が巻かれるようにして、振り返る。真白の長いワンピースを着た少女の、亜麻色の双眸が柔らかく笑みほころぶ。
 ラギ、と彼女は呼ばわった。
 ああ、心臓が砕けそうだ、と彼は思った。


 
 
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