紡ぎ、というものがある。この世界の糸を手繰る術。それはたとえば天気を少し良くしたり、傷の具合を少し良くしたり、ミルクの鮮度を少しあげたり、誰かの心を少し和らげたりするもの。
 それは大抵、一つの集団にひとりは使える者がいて、そうしてその集団の、かけらほどの平和を維持する。その程度と言われればその程度だが、少なくてもこの小さな王国ラルベでは、ほどほどに必要な人種だった。
 ラギは“紡ぐ”人間だ。血筋らしく、大抵、紡ぎの力を持っている。だからこの村ではラギが毎朝の紡ぎを成す。ラギの知らない昔では、ときどき持っていない者もいたそうだが、そういう場合は国の中央の方から役人として回してもらっていたらしい。今のところは順調なので、よくは知らないけれど。
 そんな紡ぎの力の中で、ただひとにぎり、特異なものがある。
 通常、紡げる糸はそんなに遠くまで及ばない。けれどもその特異な力を持つ者は、どこまでだって、紡ぎ、そして見通すことができる。
 文字通り、“みる”のだ。千里の先まで。
 それが、彼女、ハルラの異質な力だった。
 ハルラのような紡ぎの力を持つ者を、千糸、と呼ぶ。一代にひとりの、国の守人。
 ラルベを少しだけ守る役目を追う者。
 異質な紡ぎの力は、手繰れる範囲も違えば、もちろんその効力の強さも違う。それはまるで神様の贈り物のように、国全体を、少し、より少し強く、平和に維持する。
 国のいちばん北に立つ、この巨大な時計塔の中で。
 ずっと。
「ラギ、それなに?」
 指差されたものは、羊の毛を丸めて固めた人形だった。
「くま?」
 もの珍しいのか、ハルラは目をきらきらさせた。ラギはなんとなく気まずくて、曖昧に笑い、そっと目を逸らす。
「……うさぎ」
「えっ」
 ハルラは明らかに青ざめた。より正確に言えば、「しまった!」の顔だった。
 数秒おろおろした彼女は、けれどもやがてぱあっと笑った。顔中で。
「うさぎさん。可愛いね」
 くまさんにもなれるんだね、などとあさってなことまで言って。
 ラギは何だか胸が詰まって少し頬を赤らめ、何か言おうとし、結局口にできず、押し付けるようにそのうさぎの人形をハルラの手に落とした。きょとん、と彼女は不思議そうになる。ラギは笑った。そっと、顔を寄せる。視線が真っすぐに合い、けれどもけして額は触れ合わない位置。
「あげる。その為に持ってきたから」
 ハルラは驚いたように、息を呑んだ。微かに震えている。それからそうっと、彼女はせつないような顔で、かぼそい笑みを浮かべて、ほんのり俯いた。
「……ありがとう、ラギ」
 これは、と彼女はいとも簡単に、
「これは、サリエが作ったものだね」
 当てる。
 器用なようで、不器用なんだから、と。
 そのたとえようのない表情を見て、ラギは無性に、彼女のやわらかな髪に触れたくなった。すべらかな頬を、撫でて、細い首を抱き寄せて、それから、少しだけ、抱きしめたかった。
 やらないけれど。
「自分でくればいいのにね」
 ラギが、だから自分のその衝動に蓋をして、そんな誤摩化しを言えば、彼女はくすくすと笑いながら首を振る。
「しょうがないよ。サリエは、ほんとに不器用だから。ばかだよね」
 そんな風にけなしながらも、彼女は愛おしそうにへたな人形を見つめている。とても嬉しそうに。上げたり下げたり、子供のようにいじくって。
 こおん、と高い歌声が響いた。
 ハルラのゆびが踊る。きらきらと、その爪の先が燐光を纏う。紡ぎ、だ。光が集まって、見えないはずの糸の残滓がおぼろげに窺える。けれどもこの頼りない光の粒も、紡ぎの力のない人間には見えないのだ。
 ラギは目を細めて、ひそやかに、息を吸った。それから、吐く。
 意味を成さない言葉が謌に変わって、光のようにハルラの唇からあふれでる。ラギはその光景を、ぼんやりと見つめた。冷たい石の壁に背を預けて、大きく開いた窓とも言えない壁をくり抜いて端を煉瓦で固めた、時計台の文字盤の天辺に位置するそこから覗く、青空を見る。
 薄暗い室内に光差す外の世界は、今日も、ただ、穏やかだ。
 ふと、ハルラの謌が途切れる。その刹那、大時計の鐘の音が轟いた。鳥のはばたき。白い羽が青空に散った。
 まだ暫しの余韻を残して、鐘の音は鳴り止んでいく。ハルラが振り返る。ラギは息を詰めた。青ざめた、それでもなお柔らかな顔。とろけるように目尻が和む。ラギ、と彼女は幼子のようにつたなく、彼を呼んだ。繰り返した。ラギの名前を。
 ことん、と白いワンピースに覆われた膝が、落ちた。
「ハルラ!」
「ごめんね、煩かったよね」
「そうじゃなくて、……動いちゃ駄目だって」
 眉を下げてそう言えば、彼女は嬉しそうになる。うん、と甘い水みたいな声。うん、だいじょうぶ。つたなくて、透明で、けれども全てを諒解する、甘えのない声音。
 ラギはときどき、このやわい声を聞くと、無性にもどかしくなる。
 そうっと、手を伸ばした。ふわふわした、毛並みの良い猫みたいな髪ごと、彼女を引き寄せる。青い顔のハルラは拒まず、ラギの腕にほんの少しだけ、ひたいをもたげた。
「ラギ、草の匂いがするよ」
 ふふ、ああ、サリエの匂いもするね。そんな風に彼女は微笑う。鼻先を寄せて、目を細めて。白く、折れそうなほど、細い手がラギの汚れた服の裾を掴む。ハルラこそ、と早くなる鼓動の奥で、彼は反駁する。ハルラこそ、はかないひかりの匂いがする。とうめいな。
「……ハルラ、サリエに何か、伝言ある?」
 ハルラはほとりと瞬いた。長い睫毛が上下する。それから淡く笑んだ声で、
「ううん。サリエに言いたいことは、本人に言いたいから」
 はっきりと言った。
 
 

 
 
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