ハルラは昔、時計塔から落ちそうになったことがある。いや、実際に落ちた。彼女がまだ、千糸になって一年ほどの、七つの頃のこと。煉瓦で端を固められただけで、上部が丸く半円を描き、扉の外れた枠のようなそこから落ちるのは、そう難しいことではなかった。
 朝だった。たぶん、彼女は少し寝ぼけていて、それから少し酷い気持ちになっていた、らしい。ラギは牛の乳を搾る手伝いをしに、牧場へ向かうところだった。
 そのときふと空を見上げたのは、必然だったろうか。
 見上げた先で、陽光にきらめく長い髪が踊った。ラギは一瞬固まって、驚愕した。けれどもその間に彼女は落ちる。だから彼は無意識に、紡いだ。めちゃくちゃに、たぶん、恐慌状態で、何も考えずに。
 はじめて、紡ぎの力を使った。
 時が止まったようなまばたきひとつの間に、見開かれた亜麻色の瞳と目が合った。その直後に全身ものすごい衝撃に襲われる。圧されるまま、背中をしたたかに打って転倒する。数秒意識が飛んで、次にぼやけた視界に映ったのは、やはり麦穂の色の柔らかそうな髪。白くて、ラギよりずっと小さく、細すぎるくらいの腕。時計塔から転落した少女が、ラギの上に乗っかっていた。
 ひやりとしたラギだったが、すぐにか細い吐息が耳に届いて、ほっと安堵する。乗っかられたまま、青い空をなんともなしに見た。その日も、とても晴れていた。
 村の大人達が駆けつけてくるまで、ラギはずっとそうしていた。
 それが、ハルラとの出会いだった。
 
 
 
 
 
 
 ミルクを搾り、瓶詰めにして、それからチーズ作りを手伝う。発酵させたものを切って水分を出し、圧搾する。慣れた作業を繰り返して、その仕事が終われば、ラギはまた、北の丘に行く。村でいちばん眺めの良い場所。風が吹くと、ざわりと草原が揺れる。ぼうぼうに生えたそれらはラギの膝下あたりまである。ざくざくと進みながら、彼は村を見下ろした。いつ見ても、そう変わらない。けれどもラギはつい見てしまう。ラギが紡ぎ手だからだろうか。自分が、この村の紡ぎをしているから。
 ラギがはじめて紡いだあの時は気付いていなかったが、時計塔の天辺から、などという高さから落ちたにもかかわらず、ハルラが無事だったのは、ラギの紡ぎが成功して、上手く彼女を絡め取れたのと、ハルラが千糸だったからだろう。きっと彼女自身も無意識に紡いだはずだ。
 あの日以来、ラギは、毎日ハルラのいる時計塔へ行くようになった。ミルクと、チーズと、パンを携えて。ときどき、村の人の伝言も持って。
 丘の頂上まできて、彼はあれ、と瞬いた。先客がいた。
「サリエ? 朝からここにいたんだ?」
「……そんなわけねぇだろ」
 先客はサリエだった。ぎろりと不機嫌そうな目で睨まれる。腕枕をして草の中に埋まる彼は、何だか疲れているようにも見えた。
「ボルトさんに何か言われたの?」
「あの人はいつも穏やかだよ。俺が何をしようと、大して気に留めない」
 ボルト、というのは地主の一番上の息子、つまり長男だ。気難しい父親と違い、それなりに社交的な人間だった。
 サリエと二人の兄との間柄は、特別悪くも良くもない。サリエ自身、そんなに興味もないようだった。俺は本当の兄弟じゃねぇしな、と彼はいつか、そんなことも言っていた。
 ラギはサリエの横に腰を降ろし、あのさ、と口を開いた。
「ハルラ、喜んでたよ。うさぎに見えない、って」
「それどのへんが喜んでんだよ」
「サリエに言いたいことは、サリエに言うってさ」
 ぴたり、とサリエは止まった。
 伏せがちになった目のせいで、どう思ったのかは、よく分からなかった。ラギは草を二本抜き、おもむろに編み始める。やがてそれが草笛の形になる頃、サリエがぽつりと呟いた。
「……ラギ」
 それは本当にささやかな声だったから、ラギはつい聞き逃しそうになってしまった。幾分間を置いて、うん? と聞き返す。
「おまえ、ハルラが好きか」
 色のない声だった。ラギは草笛を口に挟み、ひゅうとすかすかした音を鳴らす。少し考えて、ちょっと笑った。
「サリエ、草笛いる?」
「聞けよ」
「だってさあ、それ、サリエが本当に聞きたいことじゃないだろ」
 不格好な草笛を、ラギはサリエの額に乗せた。いらっとした顔で、サリエが取る。だけど結局捨てはしない。それが少し可笑しくて、ラギはこっそり笑いを噛み殺した。
「…………ハルラ、は」
「うん」
「……元気、だったか」
「青ざめてたよ」
 鐘を鳴らした後は、と付け足すと、サリエの顔が苦々し気に歪む。低いため息がその口から吐き出る。
「嘘でも、元気だったって言うのが普通だろ」
「そんなこと言っても、おれはハルラの味方だからさ」
 ラギは毎日ハルラに逢いにいく。ハルラはそれをとても喜んでくれるけれど、だけど本当は、ハルラはサリエに会いたいのだ。ずっと。
 この一年、サリエはずっと、ハルラに会いにいかなかったから。ハルラは時計塔から出られないから。
 一年は、短いようで、とても、長い。
 サリエは少しだけ痛そうになった。彼も本当は会いにいきたいのだ。ラギはずっと二人の側にいたから、それくらい知っている。
「負けず嫌いだなあ」
「るっせ。……俺は、あいつに何もできない。今も、昔も、未来もだ」
 だから逢いにいくのは、一年に一度と決めたんだ、そんなことを彼は言う。一年に一度というのはつまり、新年祭の最後の日だけ、ということだろう。ラギは困って、眉尻をそろりと下げた。
 何もできないなんてこと、ないのだ。少なくとも、顔を見れば、彼女は安心できるだろうに。
 言葉を交わせたなら、ハルラは、どんなに嬉しいだろう。きっと、サリエだって。
「へたなぬいぐるみなんて持たせるくせにさあ」
 強情っ張りめ。
 とん、とサリエの隣にそのまま寝っ転がる。サリエはふんと鼻を鳴らした。うるさい、と言いたいらしい。
「……だいたいな。俺はせめてもの、と気を遣ってやってんだぞ」
「はあ? 何が」
「…………ふん」
「いや、ふん、じゃ分かんないんだけど」
 ごろり、と彼はラギの反対側へ横向きになった。気分を損ねたようだ。何だかよく分からない、と思いつつ、ラギは気にしないことにした。
 風が強い。雲の動きがとても早く、どんどん青い空を流れていく。
 ラギは目を閉じた。そうして浮かぶのは亜麻色の目と麦穂の髪の少女だ。いくら千糸と言えど、毎日、過度に力を使わせられ続ければ、憔悴して当たり前だ。力は無尽蔵ではない。無理をすると倒れてしまう。ある程度回復するまで少し休むのがいちばん良いのに、千糸にそれは許されない。
 この国いちの、理不尽。
 サリエ、とラギは友人を呼んだ。返答はない。けれども背中から、続きを促す気配がする。
「おれは、ハルラがすきだよ」
 きっと、一生。
 サリエは何も言わなかった。
 


 
 
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