時計塔の天辺。真昼の月がそうっと昇り始める青空が、よく見える場所。
 ハルラが閉じ込められている、場所。
 ドラードが階段を一段一段、踏みしめるように昇るのに対して、ハルラはずっと申し訳なさそうだった。何度か、おります、大丈夫です、と繰り返し、そのたびに、無理だ、と断言されていた。そうされると彼女は一瞬強くラギの手を握る。ほんの、一瞬。
 漸く辿り着いた石壁の部屋の中で、ドラードはどうにも重い顔をした。苦いものが口中に広がって、でもどうしようもなくて、だけどどうにかしたい。そういう顔だった。このひともこんな表情をするんだな、とラギは妙に驚いてしまった。
「……ありがとう、ございました。ドラード、さん」
 躊躇いがちな言葉に、ドラードはますます重たい顔になった。ともすれば俯きそうなハルラの頭に分厚い腕が伸び、
「そんな遠慮はいらん。おまえは……、——いや」
 麦穂の色の髪に、触れる寸前で引き返した。後悔のような、懺悔のような。ため息にも似た、声で。もう一度、いや、と呟いて彼は首を横に振る。
「……気にするな。ではな」
 さっと踵を返すドラードの背を細い腕が伸びて捕らえる。まってください、と。
「わたしが、塔を降りたこと、言いますか」
 ラギははっとした。そう、ドラードは、地主の——村長の息子なのだ。一気に不安がもたげてくる。が、ドラードは否と示した。
「今回は、おまえが正しかった。使者達も来ていたし、何か聞かれたらその見送りということで良いだろう。……それに、おまえはここに帰ってきている」
 ハルラは淡く微笑った。
 はい、と透明な水のような声で頷く。
「サリエのことも、同じように庇ってくださいますか」
 たぶん、彼女はそれがいちばん、不安だったのだろう。微笑みの中の必死さに、ドラードは息を詰めて、それから小さく首肯する。
「できる範囲ならな」
「はい」
「それから、おまえがそういう風に、俺に畏まる必要はない」
 ハルラが瞬くのを、ラギは見た。その瞳が一瞬揺らめいたのも。
 はい、とやはり水のような声で、彼女は先程と全く同じ調子で、再び首を縦にした。
 螺旋階段を下っていくドラードの背中が消えた頃、ラギは、いつのまにか離れていたハルラの手を握り直した。やわく。ハルラはぼうっとラギを見上げて、くしゃりと顔を歪めた。それでも頬は笑みを浮かべている。意地なのだ。きっと。ハルラとサリエは似ている。強情っ張りで、頑固。柔らかな水のようなハルラは、だけど何も受け入れない。つめたい水。
 ほろほろと、ハルラの眦をつめたくない水が伝ったのはそのときだった。
「……ごめん。ごめんね、ラギ。なんか、色々たくさんで」
 うん、とラギはばかみたいに頷いた。ごめんね、とハルラは繰り返す。きっと、ハルラは今、見た目ほど自分を憐れんでも悲しがってもいない。ただ、うまく整理のつかない感情が涙腺を刺激しているに過ぎないのだろう。涙ではないような涙。生理的な、温度のない、あふれるだけの涙。けれども、決して冷たくはないのだ。
 ハルラは、我慢してばっかりだな。不意に、そんなことを思った。
 ラギは、躊躇って、躊躇って、結局、おそるおそる、ハルラを抱き寄せた。猫の毛のようにやわらかい麦穂の色の髪が指先でふわりと絡まる。
 肩口に、ハルラの目のあたりを押し付けた。ひくっ、と彼女の喉が鳴って、止まって、それからじわりとそのあたりが濡れる。ラギはあやすように彼女の背を叩いた。ぽん、ぽん、と赤子にするように。
 ハルラが落ち着くまで、ずっと。
「……ラギ、ごめん、あ」
 ありがとう、と噛み締めるように、水底より深い声音で彼女は囁いた。
 それはたとえようもなく甘く、全身が痺れるように震え上がった。背筋からぶわりと総毛立ち、心臓がごとりと音を立てる。抱きしめたやわらかな、けれども平均的な少女より余程細い身体。四肢の全てが折れそうなほど。いつもは少しひんやりとしている彼女の手は、泣いたせいか、今はとても熱い。名残惜しいのをこらえて、ラギは少しばかり、彼女から離れた。間近に顔がある。濡れてぼんやりした亜麻色のまなこ。眼球。触ってみたい、と不意に思った。
「……ラギ?」
 視線に気付いたらしいハルラが不思議そうに彼を見上げる。ラギは言葉なんて考えていなかったから、暫し悩んで、それからぽつりと問うた。
「ハルラ、何言われたの?」
「……え」
 誤摩化すように笑ったハルラは、けれどもラギの逸れない眼差しに負けてか、少し口を噤んだ。それから俯く。
「……色々、だよ。自覚が足りないとか、国のことだけ考えろ、とか、色々」
「自覚?」
「むかし、ここから落ちたこと、あるでしょ。あれのこととかで、ね」
 えへへ、とらしくなく、へらりとした力ない笑み。それが、少しずつとけていく。
「……男だったら、良かったのにね、とか」
「男? 何で」
 紡ぎ手は、むしろ女性の方が多い。どうしてかは分からないが。
 意図を理解できないラギに、噛んで含めるように、して。
「結婚とかできないんだって」
 ひどいくらい優しい眼差しで、ハルラは言う。ラギは絶句した。
「ずっと、ここに籠っていなきゃいけない。毎日紡ぎの力を弛めちゃいけない。毎日、鐘を鳴らす時間を、逃してはいけない。常に、千糸として在らなきゃいけない。だから子供を産むなんてもっての他だ。繁殖は人間の重要な仕事の一つだが、この国においては千糸の仕事は千糸だけの逃してはならない仕事だ。だって」
「だって、って……」
「男だったらね、出産はないから。時間を取られることも、予定外のことも起きないから。でもわたしは女だから、もし子供を授かったら、鐘を鳴らす時間に、産まなきゃいけなくなるかもしれない。だから、」
 赤く腫れた眼が、痛そうだった。ハルラはラギの裾を握りしめる力を強くした。
「だから、誰かを好きになっちゃいけないんだって」
 ラギは茫然とした。先程のサリエのように。
 なんて、残酷な言葉だろう。
 たった十一の娘に、そんなことを、突きつけたのか。
「家族ともね、仲良くし過ぎちゃ駄目なんだって。役目を放棄して逃げ出すかもしれないって、疑われてるみたいだね」
 あはは、と空笑いして、それだけだよ、などと何でもないことみたいに締めくくる。そうして、白い指が、とん、とラギの心臓のあたりを押した。僅かに、身体が離れる。
「あのねぇ、ラギ。わたしはずっと、ラギに、たくさん、溢れるくらいたくさん、言いたいことがあったんだけど、でも、無理みたいだよ」
 だからね、ラギ。ハルラのひとさしゆびは螺旋階段、つまりはこの石壁の牢獄のような部屋の出口を示した。
「さよならだよ。ごめんね、ラギ。——もう、来ちゃ駄目」
 ハルラは水のように透明な笑みで、決然と言い切った。

 
 
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