いつの間に時計塔から出ていたのか、我に返った時には羊が飼われている牧草地の方へ向かっていた。そこでどうして正気に戻れたかと言えば、どこぞから連れてきたのか山羊を抱えたサリエを見つけたからだった。
 潰れたような鳴き声が真っ白くて小さな山羊の口から聞こえてくる。まだ子供なのだろう。ちょっと落窪んだような目が印象的だった。
 藁芝の上で座り込んでいるサリエの姿が、なんだか、ひどく哀しい。サリエ、とラギは言うこともないのに呼びかけた。サリエはラギがいることに気付いていたのだろう、顔も上げず、顎を少しだけ引く。いつもより顔色が悪かった。
「……サリエ、」
「ラギ、ハルラから追い出されたのか」
「え、うん」
「ふん」
 やっぱな、あいつは、そういうやつだから。愛おしむような悔しがるような声で彼は独白した。ラギはたまらなくなった。サリエも、ハルラも、お互いにこんなに相手を理解して、こんなに愛しているのに。
 何もかも、ままならない。どうすればいいのかも、分からない。子供であることに甘えてきた自分は、こんなに何も、できていない。
 ——ああ、とふいに、ラギは思った。サリエが一年もずっと、ハルラのところに行かなかったのは、こういう気持ちだったからだろうか。あまりの自分の無力さと愚かしさに、吐き気がするような。おままごとみたいに生きてはいけない。そういう。
 ならばハルラはもっと昔に思い知っていたのだろう。自分が、どれほど自由の効かない身であるのか。ついた諦め癖が、今日も、彼女の手を押し止める。水のように、透明な声と微笑。感情を匂わせない、大人びたというには少し哀し過ぎる、静けさ。
 そんなのは、あんまりだ。
「サリエ、ハルラのところに行きなよ」
「……俺は、」
「ハルラはずっと、サリエに会いたいんだ。ずっとずっと、毎日、あんなところで一人ぽっちで、くるのは役場の人間とかおれとか、そんなの、あんまりだろ。サリエに会いたいんだよ。ハルラは、サリエがいちばん、必要なんだ」
 透明なあの子の、唯一、滲み出るような願い。彼女の絶対的に、頼ることのできる人間。よりかかれる相手。
 サリエだけなのに。
 ラギの不器用な友人は、苦々しく唇を歪めた。眉根が寄り、苦しそうに息を詰める。
「……思い違いだ」
「そんなわけないだろ! ハルラが大事なら、どんなにハルラが嫌がっても、遠慮しても、サリエの胃が痛くなっても、会いに行きなよ! 確かに苦しいかもしれないけど、ハルラももっと辛くなるかもしれないけど、それでも、ハルラはサリエに寄りかかれるんだ!」
「……その言葉、そっくりおまえに返してやりてぇよ」
 頭がぐらぐらするみたいに沸騰する。そうやって激するラギと反対に、サリエはとても静かだ。ひた、と感情の窺えない眼差しに射られる。
「分かってねぇな。確かに俺はハルラに会いにいくべきかもしれない。だけど、ハルラの唯一は、おまえだろ」
「……え?」
「もし、おまえが俺みたいに会いにいかなかったら、ハルラはとっくに駄目になってたろうな」
「……そりゃ、毎日ひとりじゃ、おかしくもなるだろ」
「そういう意味じゃねぇよ」
 ラギ、と強い口調で言って、サリエがラギを睨んだ。
「ハルラが好きなんだろ」
 ラギは頷いた。サリエは嗤う。
「じゃあ、あいつに、おまえの一生をあげてくれ」
 折しも、別れたばかりのハルラのように、決然とした声だった。
 
 
 
 
 一日の終わりの鐘の音が鳴った。今日の、ハルラの最後の役目。
 ラギは夜道をサリエの手に引かれ、時計塔に向かって走っていた。丁度鐘の余韻が終わる頃、塔の真下につく。村の南、雑木林に半円に囲まれたその場所で、今日の昼間にサリエが罵声を轟かせていたのだ。
「ラギ、あの木に登れ」
 サリエの言葉に頷いて、一番時計塔に近い木に登る。天辺までいき、それから震える腕を必死に伸ばして、塔の細い枠に飛び移った。下を見ないようにしながら伝い行き、文字盤の上を通り、ハルラのところまで忍び込んだ。地に足つけて、心底ほっと息をつき、ばくばくと鳴る心臓を押さえていると、かたりと室内から物音がした。
「……え、ラギ……?」
 茫然としたハルラの声が耳朶を打った。眠ろうとしていたのか、少しぼんやりしている。だからか、いつもより幼く感じた。ラギはふうと笑った。
「ハルラ、一日、外に行かない?」
 拒まれるかもしれない。ラギはサリエではないから。それでも、誘いをかけるように、てのひらを差し伸べる。
 ハルラは言葉が出ないようだった。けれども、漸く事態を呑み込めたらしい彼女は、くしゃくしゃに、とても苦く、笑った。
「……きちゃだめ、って……言ったのに。どうして……?」
「ハルラ、あのさ。おれもね、たくさん言いたいことがあったんだよ」
「言いたいこと?」
 うん、と内心の心臓の音を無視して、何でもないことみたいに頷いて。
「おれは、ハルラがすきだよ。いちばん」
 ラギは秘め事みたいにささやかに呟いた。
 ハルラにとっては、迷惑かもしれないけれど。
 だけどもラギはハルラが好きなのだ。だから、こんなのは、ハルラが痛いばかりなのは、たまらなく嫌だった。
 ハルラは目を見開いて、白い頬を徐々に赤らめた。亜麻色の双眸が僅かに水気を帯びる。ふらり、と彼女は近付いてきた。そうして、枯れ枝のように、細い腕を、伸ばす。
 ラギのてのひらまで。
 一瞬、ラギはそれがどういうことか分からなくて、目を丸くした。ハルラが負けたみたいな顔で、ラギの手を握りしめる。
「どこに行くの? ラギ」
 ラギは唇を微かに震わせ、それから、そうだね、と考える。
「隣町まで、散歩に行こう」
 ラギはハルラを時計塔から連れ出した。
 
 
 
 
 危うい道を何とか渡り、木に移り、そこまでいって、がくんと足を踏み外した。やばい、と青くなるとハルラの双眸がきらめいた。燐光が溢れる。紡いだ、のだ。落ちた時衝撃の少ないように。
 が、落ちていくことには違いない。ざざざざざ、と滑り落ちてどすんと尻餅をつく。ハルラがラギの上に乗っかっていて、怪我がないのがせめてもの、だろうか。
「何やってんだよ」
 目を回しかけていたところでサリエの呆れたような声が降ってきた。顔を上げると腕を引っ張られる。
「うわ、と」
「ハルラ、大丈夫か」
「サリエ……?」
 ラギには構わず、サリエはハルラの服の汚れをぱんぱんと払った。それから、彼女の額に自分のそれをこつりと当てる。
「……ごめんな。あと、昼間はありがとう」
 サリエにしてはひどく丁寧な言葉だった。そしてとんでもなく不器用。 
 さっと彼女から離れたサリエが、ラギの肩を押す。もうしかめっつらに早変わりしていた。
「早く行け! 今日は使者のやつらの摂待で、警備のおっちゃんがいねぇけど、万が一もある。見つからないうちに、さっさと行くんだ」
 ラギは言い返そうとして、けれどもサリエの眼光に負けて、ハルラの腕を引っ張った。そうして言われた通りに南方、隣町の方向へ走り出す。サリエの馬鹿野郎、と内心毒吐きながら。
 腕を引かれたハルラがサリエを振り返る。彼女は瞬きもせずに、サリエを見た。
「サリ、————お、」
 長らく、彼女が我慢して、ずっと音にしてこなかった、それが、彼女の口を突いて、出る。あふれるように。
「お兄ちゃん…………っ!」
 サリエは久しぶりに、心底嬉しそうな、兄の顔で笑っていた。
 
 

 
 
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