腹ごしらえをしてから、ラギは円形劇場に向かった。ハルラの手をぎゅっと握ったまま。その温度だけを頼りに。ハルラは目に映る全てに物珍しそうにしながら、ふらふら危なっかしくついてくる。塔の中で静かに笑っていた彼女から想像できないほど、幼い姿だった。
 円形劇場は三番街の東南にどっしりと建っている。大抵、流しの一座や劇団員が入れ替わり立ち替わり何かを上演していて、そのうちの朝と夜の、決まった時間は無償で見ることができた。ただ、そういう場合は案内も何もなく、ただ好きなところに座ってぼんやりと眺めるだけだけども。
 今日の演し物はサーカスだった。猿が花を咲かせたり、獅子が火の輪潜りをし、道化の男が高らかに口上を歌い上げる。七色の火が上空にきらめいて空を燃やし、魚の形を模した水が吹き荒れる。硬そうな布の大きな玉に乗った、黒と白の模様の熊のような動物が曲芸を繰り広げる。きらきら、きらきら。そのどれもに、彼女は目を輝かせた。何かが起こるたびに彼女は身を乗り出して、そのたびにラギは慌ててハルラの腰を引き戻さなければいけなかった。
 上演が終わり、顔を真っ赤にさせて亜麻色の双眸を見たこともないくらい煌めかせるハルラの汗を吹いてやると、彼女はかなりばつの悪い顔で、恥ずかしそうになった。いい、いいよ、と嫌がるのが妙に年頃じみている。呆れて吹き出してしまうと、ハルラはもっと情けない顔で、ひどい、ラギ、と文句を言った。
 その時、背後で誰かが、ラギと同じように吹き出した。
 ぎょっとして振り返ると、壮年の男が微笑ましそうにラギ達を見ている。
「いやいや、すまんね。君達のやりとりが随分可愛らしいから」
「かわい……」
 そんな馬鹿な、とラギは絶句した。ハルラも同様のようだった。男の人は優しい顔で、ハルラに視線を合わせる。
「サーカスは初めてかい?」
「あ、はい」
「こちらはお兄さん? それともちっちゃい恋人かな?」
 ぼっ、とハルラの顔が真っ赤に染まった。ハルラはこういうからかいを受けたことがないから、たぶん、ものすごくびっくりしたのだろう。ラギはハルラの口から心の折れるような発言が出る前に「そんなことより!」と叫んだ。
「あの、おじさんも、サーカス見にきたんですか?」
「ああ、気晴らしにね。私はこの街の役所で紡ぎ手の仕事をしているんだが」
「え……」 
 ひやり、と心臓が撫で上げられたような心地がした。
 ハルラも微かに色をなくしている。男はその様子をどう勘違いしたのか、慌てたように手を振った。
「いや、いや、本当だよ。男では珍しいとは思うがね。別にこんなことを言って君達を騙くらかそうとしているわけじゃない。そう警戒しないでくれ」
「あ、すみ、ません」
「いやいや、気持ちは分かるからね。……そういえば、今日は糸が乱れているな」
 ふと、彼は今気付いたように独白して空を見上げた。真っ青だった空は、少し曇りがかってきていた。
「千糸様の体調でも、優れないんだろうか」
 ぞわっ——と背筋が粟立った。ハルラは口を押さえて、ラギの手を握る力を強くする。どうして。どうして、そんな風に、すぐに分かるのだ。
 男はやはりまた勘違いをして、済まなそうになった。済まないのは、こっちの方なのに。
「ああ、すまん、すまんな。不安にさせるようなことを言ってしまったな。いや、今の時期は少し寒いから、きっとお風邪を召しているだけさ。明日にはよくなっていらっしゃるだろう。というか、私の勘違いかもしれないしな。千糸様も人間だ。不調の時もあるだろう」
「……あ、の……どうして、分かるんですか」
「ん? ああ、言っただろう。私はこれでも紡ぎ手でね。空を見て、目を凝らして、集中すれば、少しの乱れくらいは察せられるんだよ。千糸様は、この国の全ての糸をいつも優しく手繰ってくださっている。特に今代の方はね。本当に、ありがたいことだ」
 目を、それこそ優しく細めて、目尻と口の端を緩めて、彼は本当にありがたそうな顔で微笑んだ。泣きそうだった。嬉しくて、哀しくて、ありがたくて、やるせなくて。
 ああ、苦しい。
「君達の世代では、物心つくくらいにはもう、今の千糸様はお役目についていらっしゃっただろう。でもなあ、その前の、千糸様の不在の間は、少し、かなしい国だったよ」
 それは、千糸様の恩恵に慣れた私達大人の甘えだったかもしれないけどね、と少し苦笑いして。
「特にね、紡ぎ手、その中でもいっとうそれを生業にして、力を高めて生きている人間には、空がまるで綺麗に見えないんだ。綺麗だけど、かなしい。不安になる。ああ、今日も、千糸様はいらっしゃらない。世界は少しだけ、痛みを持って、今日も、少しだけ、かなしく回る。そんな気持ちになって、苦しくなるんだ」
 そう続けて、眩し気に、彼はラギ達を見た。君達の空は綺麗だろう、と言うみたいに。
「千糸様には、感謝してもし切れないよ」
 ハルラがぎゅうと、爪が食い入るくらい強く、ラギの手を握る。
 ラギは必死に笑った。無邪気な、そう、英雄譚でも耳にした子供のような顔を作って。
「千糸様のお名前を、知ってますか」
 紡ぎ手の男の人は、ちょっと不思議そうに瞬きをして、嬉しそうに頷いた。
「ああ、聞いたことがあるよ。ハルラ様、とおっしゃるんだ」
 ハルラは堪え切れなくなったように、俯いた。一瞬だけ。すぐに顔をあげて、いつもよりへたくそな笑顔になる。
「おじさん、ありがとう」
 男の人は、たぶんまた意味を取り違えて、誇らし気に、でも少し照れたように笑った。
 
 

 
 
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