男の人と別れて、ラギとハルラは四番街へ移った。少しばかり日が暮れてきている。それからまた、空模様が悪い。
 はふ、と息を吐く。曇天を見上げる。うつくしい世界。うつくしい王国。ハルラが、たった十一の子供が守る、ちっぽけな国。
 なんて、かなしい、うつくしさだろう。
「ハルラ」
 ラギは少しだけ口許を笑みにして、彼女を呼んだ。うん、と返ってくる。同じように、穏やかで、それから少し、水の匂いのする声だった。
「次はどこにいく?」
 君が少しでも、優しい場所に在らたならいいのに。
 君が少しでも、子供のようでいられたらいいのに。
 優しさと愛情と幸福を、与えられる側であればいいのに。
「……あのね、お店、回りたいな」
 くるりとラギは振り返った。やわらかい目で穏やかにねだる小さな少女に、顔を近づける。
「うん」
 少しだけ、ラギの方が背が高い。だから少しだけ、腰を屈める。
 うん、行こう。
 どこへでも、君が笑える場所に。
 
 
 
 
 四番街の銀細工屋、細かに作られたレースの首飾り、花を模した指輪。色鮮やかな道回廊には、壁いっぱいに絵が描かれている。途中であたたかい蒸したパンを買い、食べながら歩いた。
 春鳴屋、という猫が看板の真下で居眠りしている小物屋の硝子扉を、ハルラがぼうっと見つめているのに気付いたのは、もう少しで五番街に入りそうな角についた時だった。ぼうっと、ぼうっと。何も言わずに見つめている。ラギはそっと彼女の顔を窺って、にこりと笑った。もう、日も暮れ始めている。いつもはやわらかな夕焼けの色を見せる空は、今日ばかりは今にも降り出しそうになっていた。
「ハルラ、入ろう」
 ラギはハルラの答えを聞かず、ずかずかと中に入り込んだ。からん、と扉についた小さな鈴が鳴る。春の鳴き声のよう。
 一歩。足を踏み入れて、ラギは息を呑んだ。
「え……」
 ハルラが茫然と零す。ぽかり、と天井を見上げる。
 きらきら、きらきら。
 夜色の世界に、光がきらめいている。
 星のように。
「いらっしゃい、ちいさなお客さん方」
 ふふ、と笑いを含んだ声が楽し気に招いた。はっと店の中央を見ると、勘定台に、ふかふかの白髭をたくわえる老爺が頬杖をついていた。
「どうだい、少し早い夜だよ」
「……夜空を閉じ込めたの?」
「まさか。夜空はみんなのものだ。これはお裾分け。仕掛けはあるよ、もちろんね。でもそんなこと、どうだって良いだろう? 私はこの作り物の夜が、とても好きなんだ。本物だって好きだけどね」
 無数の光の粒は柔らかく点滅し、ハルラの頬を月光の色に染める。店の中のものは見えないのではないか、とふと思ったけれど、不思議なことに品物のところは、そこだけ明るく見せられている。上部は夜空のようなのに。
「今日の夜は嵐がくるかもしれないから、お嬢さん方は早くお帰りなさい。ひとつ何か買っていってくれたら嬉しいがね」
「え……嵐? どうしてですか」
「どうしてって、君も気付いているだろう? 今日はほら、千糸様の調子が優れないのか、いつもより空気が不安定だ。まあ私にはこっちの方が慣れたもんだが、まさか嵐の中、お嬢さん方が帰るのを見送るわけにもいかんだろう」
 ラギはそっとハルラを窺った。ハルラは頷いて、穏やかに笑った。
「そのことなら、大丈夫です」
 水のような声で。
 店主の老爺は怪訝そうに首を傾げた。ハルラは構わず、中を見て回る。ラギもその後をついていく。
 小粒の色のついた透明な石を連ねた腕輪、リボンを首に巻く灰色のうさぎ、異国風の紋様を編まれたタペストリー。種類もばらばらのものが場所ごとに固まっている。
 ふと、ラギはレースの飾りリボンを見つけた。首や、腕、髪、どこにでも巻ける、少し瀟酒な、細かい意匠のリボン。小さな花の形の飾りと種類の違うリボンが中央に縫い付けられている。ラギはそれを手にとって、ハルラの髪に寄せた。気付いたハルラがきょとんとする。ラギは頬を緩める。
「うん、かわいい」
 ハルラの頬が、淡く赤に染まった。陽の沈み切る間際、鮮烈な夕焼けの色。ラギは、言葉を間違えただろうか、と少し不安になって眉尻を下げた。からかったつもりじゃないのだけど。
「ら、ラギ……」
「はっはっは、いい恋人さんだね、お嬢さん」
 ……何故大人というものはこう、この手の一歩間違えると心の痛手になりかねない冗談を唐突に口にするのだ。ラギの心が折れたらどうしてくれる。
「ハルラ、なんか良いのあった?」
「えっ、えっと……それ」
 狼狽えたようにわたわたしてから、ハルラはぱっとラギの手の中の飾りリボンを指した。あれ、気に入ったのか。ちょっと嬉しくなって、うん、そっか、とへらへらする。ハルラもつられたらしく、へらりと笑う。
「すみません、これください」
「え!」
「あいよー」
 さっくり買って、ラギはあわあわと青くなるハルラに、袋を渡した。店主がにっこりと、言う。
「ありがとさん。お二人さんとも、気をつけて帰るんだよ。また来ておくれな」
「はい」
 ちょっと笑って、ラギとハルラは店を出た。ほてほてと歩き出す。ラギは財布の中を考える。……そろそろ、有金も尽きる頃合い。
「ラ、ラギ! いいの?」
「うん。その為に残してたお金だし」
 ハルラは戸惑った顔で俯いた。ラギはまた不安になった。
「……いらなかった?」
「ちが、違うよ! あ、あり、がとう。すごく、嬉しい」
 嬉しいよ、と泣くみたいな声。
 ラギの方こそ嬉しくなって、それから夕焼けをひとりぽっちで見たような、そんな気持ちになった。
 歩いて、歩いて、歩いて。
 もう向かう場所は決まっていた。ラギ達の住む村の隣町、その境。雑木林の森への一歩手前。
 空が、微かに泣きだした。
「……ラギには、すぐばれるね」
 大事そうに飾りリボンの入った袋を抱えて、ハルラはそうっと目を瞑った。
 ひらりとうつくしい瞬きひとつ。目を開ける。
 ラギは笑った。頑固なハルラ。
 ラギは、そういうハルラが、死んでもよくなるくらい、好きだ。
「もう夜になるからね。帰るんだろ?」
「うん。もう夜になっちゃうから、散歩は終わり。日付が変わる前に帰らないとね」
 そう、最初から。
 ラギも、たぶんハルラも、分かっていたし、諒解して、村を抜け出したのだ。
 だって、言ったから。一日って。はじめから。そうして、ラギは、その秘めやかな約束に念を押した。
 ——隣町まで、散歩に行こう。
 散歩は、必ず、家に戻るものだ。荷物も準備も何もないものだから。
 帰らなくちゃいけない。知っている。分かっていたから、出てきた。たった一日ぽっきりの、ハルラの外の世界。枠の外を見る日。
 連れ出したかった。かなしいことと、理不尽と、どうしようもないことばかりの、あの時計塔の内から。たった一日だけでも。
 ハルラはきっと、一日、とラギが言ったから、その意味を理解して、ラギの手を取った。ハルラはそういう子だった。ラギが、いちばんすきなおんなのこ。
「あのさ、ハルラ」
 かさり。森の湿った地面を草ごと踏む。ぽつぽつ降る雨は、あまり冷たくないけれど、いとも簡単に寒い空気を作り出す。
 雨の降る空。でも、夜空に変わったそこは、星々が煌々ときらめいている。月光は淡く、雲に隠れそうになりながら、ハルラに降り注ぐ。
 つめたい夜だ。でも。
「おれの目に映るこの世界が、こんなに綺麗なのは、ぜんぶ、ハルラのおかげだよ」
 くしゃりとハルラは泣く寸前の笑顔に変わる。サリエのそれと、よく似ていた。
「……うん。うん、ありがとう、ラギ。あのね」
 ハルラの手が伸びた。ラギの薄汚い服を掴む。濡れた麦穂の髪がハルラの白い頬にかかった。
「わたし、ラギが、すきだよ。たくさん。ずっと、ずっと、言いたかった。たくさん」
 ラギにすきって、言いたかった。
 ほろほろと、そう言うハルラの双眸から涙が溢れた。次から次へと流れていく。ラギはぼうっとして、それから、意味が分からなくて、一瞬、呼吸を止めた。
 漸く理解した時には、今度は心臓がびっくりするくらい駆け出していた。
「……それは、」
「いちばん、近くにいたいって、すき。朝目覚めて、いちばんにおもう、すき。ずっと、手を握っていたい、の、すき」
 伸びたハルラの指が今度はラギの手を取る。絡まる。距離が近くなる。
「あいしてるの、すき」
 涙の匂いがした。
 間近に亜麻色の瞳。サリエより少しばかり薄い。鼻先が触れそうな、距離。
 ああ、ハルラが泣いている。泣きながら、笑っている。とてもきれいに。
 涙は、拭わなきゃ。だって、ここに、ハルラが無心によりかかれるはずの、サリエはいない。
 ラギは、百年前からそうしていたように、ハルラの目尻に唇を寄せた。塩辛い涙をすくいとる。舐め上げるように、透明な涙を食べる。目尻、頬、鼻先。
 くちびる。
 食べるみたいに、ラギはハルラにくちづけた。絡めた指の力を強くする。引き寄せるように。
「ん、」
 ふかく、ついばむよう、あますことなく、ハルラを食べる。
 ああ、こういうこと。
 ハルラ。囁くように呼ぶ。くちづけながら。浅く、息をして。
 あいしてるって、そういうすき。
 たったひとつだけの。
 
 いつまでも手を握っていたいって、そういうすき。
 
 

 
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