青空は目に沁みるよう。
 あの日食べたあの子の味が、まだ、残っている。

 
 

 
5.
 

教会の鐘が、鳴っている

 

 

 
 
 
 

 「何で帰ってきたんだよ」
 いつもみたいに草原に寝っ転がっていたラギの真上から、開口一番サリエは怒鳴った。
 一日ぶりの彼の顔を見て、ああ、と気のない声を出す。
「おはよ、サリエ。一日ぶり」
「おはよ、じゃねぇよ! せっかく手伝ってやったのに、何ノコノコ帰ってきてんだっつってんの」
「……サリエ、ハルラの兄さんだろ。ハルラが身一つで逃げるような性分じゃないって、分かってて、脱走させたんじゃないの」
 うぐ、とサリエは詰まった。この詰まり方は、なんだかドラードに似ていた。ああ、血が繋がってなくても、兄弟だなあ、と場違いなことを思う。
「そこを、何とか説得すんのが、恋人の役割だろ」
「そんな苦虫噛み潰したみたいな顔で恋人とか言われても」
 兄の顔で、サリエはふんとそっぽを向いた。何やかやと言って、サリエは妹に虫がつくのを、前面的に喜んではいないのだ。世の兄達と同様に。本人は自覚していないようだが。ラギはため息をついて、まっさらな空を見上げた。ハルラはもう、朝の鐘を鳴らし終わっている。まるで何事もなかったように。
 帰ったラギ達を待っていたのは地主の憤死しそうな姿と、それを宥める三兄弟、そして前の村の紡ぎ手だった父の姿だった。使者達もまだ残っているというが、それは、サリエが口八丁手八丁で、つまりあんたらに人手を割いていたのとあんたらが『千糸様』にいちゃもんつけるからこうなったんだよ、というようなことを畳み掛けたらしい。ここぞとばかりに虐める姿が目に浮かぶようだった。
 ラギもハルラも、思った以上怒られなかった。
 たぶん、今回一番迷惑をかけただろう父は、ラギの行為を当然のように受け止めて、ただ、仕事を無断でさぼったことだけをきつく叱りつけた。これから一週間、牛の世話を倍の時間手伝わされる。
「おれの財布はね、一日で消え失せるくらいうすっぺらなんだ」
「は?」
 逃げ出せるわけがないと知っていた。ずっとラギは子供で、ハルラを一生外に連れ逃げられるくらいの力も手段もなかったことも。そんなものは夢物語で、そしてきっと、ハルラにとってだって、幸せなんかではなかった。千糸の存在はどこにでも囁かれる。頑固で優しいハルラは、結局、必ず時計塔に戻るのだ。
 だから、たった一日。枠の無い空を。
「……ハルラに一生をあげてやれ、って俺は言ったんだがな?」
 その言葉にラギはむっとした。勢いよく起き上がる。
「そんなの、言われるずっと前から、とっくにあげてた」
 当然だ。これからだって、ラギの一生は、ハルラのものなのだ。
 でもそれはハルラは知らなくたって良い。そんな重たいのはいらない。ラギが分かっていればいい。ラギは、ハルラの、青空みたいにまっさらな笑顔が好きなのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 とん、と螺旋階段を上がる。ハルラの高らかな歌い声が聞こえてくる。昇り切ったラギは眩しさに目を細めた。今日は一段と気合いが入っている。
「ラギ」 
 謌が止む。ハルラが振り返る。
 いつものように、水のように透明な、けれども温度のある声で。
 ラギはほっと笑って、ハルラの側まで少しだけ早足になる。と、不意に目に飛び込んできたものを見て、彼は瞠目した。
 サリエのへたくそなうさぎ、に。
 昨日あげたばかりの、飾りリボン。
 ぶふ、と不意を突かれたせいで笑いを堪え切れず、ラギは腹を抱えて笑ってしまった。何に笑われているのか気付いたらしいハルラは顔を真っ赤にして言い訳を始めた。そのちっちゃな身体をぎゅうと引き寄せる。少しだけラギより背の低い少女。を、やわらかに抱きしめる。
「……あのね、月がない日だけ、街に出ていいって」
「————え?」
「地主様が、そう言ったんだって」
 よくよく聞くところによると、今回のことにやり過ぎたと懲りたらしい。それなら知っている中で動け、ということだそうだ。
 ただ、街を歩いただけ。
 けれどもそれは、ほんの少し、分からないくらいの、よいことに繋がったのだろうか。
 ただ、街を歩くだけ。
 たったのそれだけ。だけどもハルラは、心底嬉しそうだった。だから、きっと、よいことなのだ。
 ラギは少し身を離した。ハルラに顔を寄せる。あまい、水のにおい。
「……ラギ。わたしは結婚できないんだよ」
「うん。知ってる」
 でも、おれは一生ハルラが好きだからさ。
 ラギは、たぶん、はじめて睦言を囁いた。ハルラは泣きそうな顔で、それでも嬉色を浮かべ、花がこぼれるようにわらった。
 ハルラの唇にそっと触れる。ぴり、と雷みたいな秘めやかな衝撃が走る。食むように、深く、ハルラを侵食する。ハルラの指がラギの背にまわり、それから離れ、軽やかに踊った。
 時計塔の鐘の音が鳴り響く。
 ハルラの作り出すその音を聞きながら、ラギは彼女にくちづけた。
 
 
 
 青空は止まない。
 ラギの手は、いつだって、ハルラのちいさな手を離さなければいけない。
 それは、少しかなしくて、けれどもうつくしい、ラギのいちばんすきなひとのように綺麗な国の、いっとう美しい時計塔のある、ある、小さな、村でのこと。
 
 青空を見るたびに、目裏に浮かび上がる、いっとうあいするひとのこと。

 
 
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