身体が成長しない、というのはきっと、思っている以上に困った事態だ。精神と肉体が噛み合わない。何よりこの幼い身体では生まれつきの弱さに対する抗力がたいそう低い。

 せめてどちらかだけでも改善出来たなら、と、おそらく莉瑛だけではなく松柄も——彼女の家族も思っていることだろう。

「おおう、よく来てくれた!」

 こんな無駄に明るく機嫌良さげな男でも。

 どうも、こんな姿で失礼します、と毎度のことながらお断りし、莉瑛は軽く苦笑した。相変わらず子供のように笑う人だ。

 大きな屋敷の執務部屋に通されて、高価な甘露を出される。たとえ煎茶と言えど、こんな一口いくらの茶を出されてはいつも喉がむやみやたらと引き締まってしまう。恐ろしい。

「薙衣老の具合はどうだい。この前腰を悪くしたとぼやいていると聞いてねぇ。心配だったのだけど、私はなかなかここから離れられないからね」

「ああ、元気そうでしたよ。腰は、まあ、師父に任せるしかないですけど」

「そうか……まあ、それなら安心していようか。そうだ、この前皇帝から最近流行の菓子をもらったよ。餡を包んだ柔らかい皮に粉をまぶしたやつでね、私でもわりと食べれたから、君に出そうと思ってね」

「ぶふっ」

 思わず茶を吹きかけた。

 げほ、ごほ、と盛んに咳を繰り返し、やっと落ち着いてから莉瑛は千歳の父、瑯家の当主來燈を青ざめ切った顔で睨みつけた。——このひとは、また、なんつうことを言うのか! 血筋か! 血筋なのか?!

「あああああのですね! そんな恐れ多いもの、いただけるわけないでしょう!」

「む、しかしだね、わりと美味しいんだよ。君も一度食べてみれば、」

「いえそういう問題じゃなくてですね! 陛下に下賜されたものを俺みたいな貧乏人が頂戴するわけにはいかないでしょう!」

「莉瑛くん、そういう言い方はよくないよ。だいたいそんなことをさも当然のように言われちゃあ、何も出せないじゃないか」

 さも当然って、いやだから当然のことなんですが。

 というかこの人、本当に瑯家の当主だったんだなぁ、としみじみ思ってしまうのがなんとなく情けない。瑯家と言えば大貴族。莉瑛は市井の出身だからあまりよく知らないが、皇室と姻戚関係を持つことも多々ある一族だということぐらいは知っている。千歳の母はまた眼玉が飛び出るほど高貴なお方らしい。そんな妻を持つ上、來燈はその血生臭そうな一族のれっきとした現当主。ほとんど雲の上の存在だ。……それがどうしてこう能天気なおっさんなのか。娘は娘で微妙に貴族らしさが足りないし。

「これはね、私が出したいと思っているから出すんだよ。——てことで、悪いが綾羽、あれ、持ってきてくれるかな」

「ってちょ、————」

「かしこまりました、旦那様」

  綾羽という顔見知りである召使いの娘はしずしずと腰を屈め、部屋を出ていった。にこにこしながら來燈が「ありがとー」と彼女の背に投げかける。頭が痛い。

 と、不意にその明るい表情が切り替わった。どこか物憂い、静かな面差しに。はたと瞬く。ああ、何か、怖いことを言われるような、予感がする。

 かちゃ、と茶器を置く。深い緑の椀から靄のような煙が立ち上る。來燈は目尻に穏やかな皺を寄せて、ひたと莉瑛を見た。

「君を呼んだのはね、伝えておきたいことがあったからなんだ」

 ——呼んだ。ああ、やっぱりあれは、何気なく千歳に莉瑛を呼ばせたということなのだろう。そして今、彼は優しく人払いをした。

 莉瑛は医師の卵だ。それ以外に割く脳はなく、故に政に携われるほどの学もない。來燈の気ままな話し相手になることは出来ても、難しい相談事に乗ることは出来ない。それなのに來燈がこのような真剣な顔で莉瑛と顔を突き合わせる。それはつまり、絶対に、千歳に関することなのだ。

「……俺に言って良い話ですか」

 それでもつい聞いてしまうのは、彼はまだ医師ではないからだということの他に、その内容が恐ろしいからだ。

 千歳。

 春の、匂いのする、幼子の姿の少女。花園で目覚めた姫君。

「君にだから、言っておきたいんだ」

 困ったように來燈は言った。苦笑いの顔だった。それに松柄は知っている、と苦しそうに続けて。それから囁く。

「————あの子の時間が、もう、少ない」

 莉瑛は目を見開いた。




 千歳は寝台に座り、手鞠歌を口ずさんでいた。よわい声。伏せた瞼が柔らかい春の風に揺れるのが分かる。身体の全てが、とても脆い。少し声を出しただけで息が上がる。ふう、と息を吐き出して、彼女は小さく苦笑した。袴より長襦袢の方が慣れてしまった。まるで死に装束のように真白の襦袢。伸ばした手も、転がした足も、もうずっと変わらない。それに慣れてしまっているから、來燈や松柄が心配してくれるほどの苦しさはないけれど、同じくらいの背だった莉瑛とどんどん離れてしまうのは、少しだけ淋しかった。今では大人と子供のよう。不器用に抱き上げる彼の腕のぬくさも覚えてしまうくらいに、時が経った。

 本当言うと、あまり辛くはないのだ。自分以上に酷い状態の人間などいくらでもいるし、貴族の娘である自分はそれなりに快適に過ごせていると言える。生まれのせいか、権力に対する執着の薄い父母のおかげもあって、しがらみの多い血筋にあるにもかかわらず自由に生きているのも事実だ。申し訳ないと思うけれど、そのことに鬱々と思い悩む時期は過ぎてしまった。だけども周囲はそうは思わないものらしい。一族のものはみんな、憐れみか同情か、はたまた役に立たぬという蔑みか、純粋な情でもって嘆いてくれる。ああ、申し訳ないなぁ、と千歳は彼らに会うたび思うのだけども、莉瑛と会う時だけは、ひどく情けない気分になる。あのひとの目に映る自分は、とても幼い。よわくて、やわくて、簡単に握りつぶされてしまいそうな、幼子。抱きしめてくれる腕に憐憫も何もないけれど、身体を気遣うような仕草がいつだってくるしくて、そのたびこのままでいてはいけないのだろうと自覚する。痛くて、苦しくて、突き刺すようだけど、だからこそ千歳は莉瑛に逢いたくなる。たんと己を理解出来る、その瞬間。それがなければ、自分はただのうのうと淡々と、現実も忘れて生かされるだけになってしまう。贅沢な望みかもしれない。だけども誰の役にも立てないなら、せめてそれぐらいは認識していたかった。

 宙に指先を走らせる。それだけで噎せ返るような春の匂いがした。春薔薇、躑躅、空木の花、黄蓮、水仙、沈丁花。混ざり合って充満する匂いとともに花びらが舞い狂う。春の花は、淡く、白に近い色が多い。どこか儚く、光を含む。遠くへ行けない千歳は野に咲く花をあまり知らない。莉瑛と出会った花園は随分以前のことで記憶は朧、その他には、医師協会本部の薬草園や、屋敷の奥庭程度だった。

 莉瑛が言うには、花降る川は光を含んだ水が流れ、鬱蒼と覆い茂る木々から咲き乱れる蕾と柔らかな雨のように落ちる花弁、膝ほどまである野草は青々ときらめいているそうだ。まるで夢のような世界。

「……千歳様?」

 急に響いた声に千歳はハッと現実へ引き戻された。髪にまとわりついた花びらを払うように大きく首を振り、部屋の戸の方を見る。

「綾羽……? どうしたの?」

 確か彼女はまだ父と友人に付き添っていた筈だが。

 戸惑うような表情の綾羽のもとへ行こうと、寝台を降りる。すると彼女は慌てたように声を上げ、手振り身振りで千歳を押し止めた。

「駄目です! 起き上がっては……お願いですから、暫く安静にしていてくださいませ」

「大丈夫、さっき莉瑛に逢ったから、具合はいいの」

「そんなわけないでしょう!」

 泣きそうな綾羽の剣幕につい笑ってしまう。差し出された両手にすっと指を伸ばす。そうすると彼女は反射のようにはっしと掴むのだ。——まるで、存在を確かめるように。

「本当よ、病は気からっていうもの」

「それはもっと軽度のものです。本当にそうならこの世の重病人は幾人も助かっておりますわ」

 ……耳に痛い言葉だ。そうね、と千歳は苦笑した。だけど、莉瑛に逢うと具合がよくなる気がするのは本当だ。たぶん、少しだけ、気が楽になるからだろう。

「綾羽、どうしてここにいるの? お話は終ったの?」

「いいえ、——人払いをされまして。花背包を持ってくるように、と」

「ああ……それじゃあ、そろそろわたしも危ないのね」

「千歳様!」

 綾羽はあまり千歳に嘘をつかない。どうしてか彼女は全て伝えた上で、千歳に仕えようとするのだ。実際の主は父である筈なのだけど、彼女にとっては千歳が主であるらしい。年も近く、幼い頃につけられたからだろうか。綾羽といると、良い主になれたらいいのにと、痛烈に思う。そういう風に、ひとはひとと接して何かを痛感するのだと、短い生の中で千歳は理解するようになった。

「じゃあ、莉瑛はまだ来ないのね」

「……あ、はい。あの、もしかすると、今日は」

「来るわ。莉瑛は、律儀だから」

 そう、安心させるように微笑う。満面で。だけどもそうすると綾羽はさらに泣きそうになるのだ。もう、わたしより年上なのに。くすくすと声を立てて、千歳はゆっくりと綾羽の頭に手を伸ばした。宥めるように撫でる。伝え切れない感謝を込めて。


 

 

 


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