夜中、微睡みから醒めたのは小さな物音のせいだった。

 目をこすり、身体を起こそうとするが、白い手に阻まれる。ぼんやりと枕に帰ってから、千歳は瞠目した。ひらひらと揺れる、月光の透ける薄い被衣、流れる一つに結んだ黒髪に、汚れ一つない菊綴をつけた水干姿。まるで白拍子のように清艶な美しさ。

「……陛下」

 寝る前に閉めた筈の窓が全開になっていた。恐らくそこから入ってきたのだろう。相も変わらず整った面立ちにため息が出る。憎らしいほどの美貌。

 千歳の従兄弟。

 長い睫毛を伏せ、彼はふわりと爪先を降ろした。とん、と裸足が柔らかく木の板を打ち、溢れた花を踏む。千歳は咳き込みながら、小さく苦笑した。

「はしたないです。皇帝陛下ともあろう方が裸足なんて」

「……すまぬ、起こしたな」

「いいえ。眠りが浅かったのです」

 ばればれの嘘だったけれど、ほんの少し、事実でもあったからそれ以上訂正はしなかった。市井の者に扮した現皇帝は未だ若いその面差しに微かな翳りを浮かべ、じっと彼女を見てきた。その瞳にはあるのは、変わらず懺悔のような色。分かりにくくはあるけれども。

 困ったな、と千歳は笑う。そんなに、気にしなくても良いのに。千歳がこうなのは彼のせいではないし、たとえ彼のせいだったとしても皇帝になった今ですら気にするようなことではない。

「お忍びは、あまり感心出来ません」

「……どうした。今日は、やけに大人しい」

 む、そうきますか。

 少しばかり、図星だった。——今日は、莉瑛が沈んでいたから。たぶん、千歳のせいで。だからだろう。

「……妹よ、薬は飲んでいるのか」

 妹じゃなくて従姉妹です、と何度言っても彼は聞き入れない。頑として、彼女を妹と呼び続ける。昔からそういう風に気にかけてもらってきたせいか、妹じゃないですよと口では諌めながらも彼を兄にように思ってしまっているのだから、まったく慣れとは恐ろしい。

「飲んでいますよ。成長の方はなんとも言えませんが、だから具合はそんなに悪くありません。……久しぶりのおとないですね。陛下の方も、お変わりなく?」

「ああ、相変わらず口うるさいジジイ共に揉まれている」

 麗しい顔に似合わず、この皇帝は妙に口が悪い。一体どこで聞いてくるのだろう。しかもほぼ無表情。このひとは奥方を迎えたら大分やきもきさせそうだ。

「でも、医師協会の助けになってくださって、ありがとうございます。今までならなす術なく亡くなっていたような方も随分減ったようですよ。わたしも、葬送の花を咲かすことも少なくなりました」

 莉瑛がいつも、皮肉りながらも嬉しそうに話すから、すっかり千歳も覚えてしまった。それに、今までせめてもの、と本部の人々に葬送の花を咲かすことも、本当に少なくなった。にこにこすると、皇帝はただ口を閉じる。迷うように視線を彷徨わせて、結局ゆるりと首を振った。

「……眠れ、我が妹よ。私が見ているから」

 何だかやけに優しい声で、彼は手を伸ばしてきた。とんと額を突かれる。その様子と口ぶりが、良い兄を演じようと必死になる子供みたいで、千歳はちょっと笑ってしまった。いつも喉の奥に隠れる言葉がふと口をつく。

「————うん、あにうえ」

 二人いる兄とは違う、それよりもずっと気安い『兄』が、千歳はとても好きだった。

 

 

 

 

 

 

 ぽう、と白い光が溢れた。

 否、花びらであろう。千歳が眠りについた瞬間、まるで力の暴走のように咲き狂う春の花々。皇帝屡炎は柳眉を寄せ、眠る幼子の手を握りしめた。ふわりと爪先から光の粒子が漏れる。灯のように流れる光が彼女を包み込んだ。

「…………咲かすな、千歳」

 彼女の異能を突然変異だと、瑯家の当主達は思っているようだが、それは少し違う。皇室の血を色濃く受け継ぐ娘。先代皇帝の姉、高潔なる月由の産んだ子。知られていないことだが、最も『螢』を多く輩出している一族は皇室——つまり王氏なのだ。

 千歳の異能。これは————

「——誰だ!」

 がたりと静寂を破った何者かに、屡炎は鋭い誰何を飛ばした。きいい、と木戸が開く。茫然とした表情の少年が目を剥いて立っていた。その姿に眉をひそめる。藤の花が刻まれた薄藍の甚平。深い夜空の色の髪は短い。

「……医師、か?」

 昨今の医師は甚平に白い前掛けをするという。彼の前に現れる医師は大抵甚平ではなく宮中用の正装をするから真偽は定かではないが。

 懐から蝙蝠扇を取り出し、つと少年の首に突き出す。

「答えろ」

「…………見習い、ですが。あなたは」

 見習い。ぱちりと瞬きし、屡炎は突きつけたまま、扇をばらりと開いた。そのまま顎へ跳ね上げさせ、反応を見る。……びくりと肩が揺れたが、それだけだ。それよりも気になることがある、とでも言いた気な。

 ほう、と屡炎は微かに唇の端を引き上げた。なるほど、この男が莉瑛。『妹』の話によく出てくる男か。

「私は屡炎。この通り怪しいが、千歳を害すつもりはない。——すまんな、気が立っていた」

 はあ、と気の抜けた声を出す少年の首から扇を胸許へ戻す。ぱちりと閉じ、懐に仕舞い込んだ。

「……屡炎……?」

 どこかで聞いたことが、とぶつぶつ言いながら、彼はおそるおそる近づいてきた。どうやら皇帝の名前と結び付かないらしい。わざわざ宣言することでもあるまい、と屡炎は何も言わなかった。

「……悪いが、今おまえに構っている暇はない。疑問は後にしろ」

 言い捨てる。少年ははっと息を呑んだ。床を埋め尽くす花を踏んで寝台に駆け寄る。屡炎が術を使っていることを知ってか知らずか、彼は千歳を覗き込んだ。

「……千歳…………本当に、花を」

「…………」

 この男は知っているのだろうか、と屡炎はふと思った。『螢』は身体の弱いものが多い。力が強ければ強いほど、その代償のように身体が弱くなる。だから『螢』としても能力の高い屡炎もあまり頑健な人間ではなかった。

 螢。随分厭味な名だ、と、屡炎は昔嘲ったことがある。この国の螢は大抵寿命が短く、光も弱い。ゆらり、ゆらりと生まれたての星のように小さく光る。

 千歳はほとんど身じろぎせずに眠っている。まるで生きていないかのようだ。じっと目を凝らさなければ、胸が上下しているのも分からない。————どうしてこうなったのか。今でも屡炎には分からない。來燈に連れられてきた千歳は、屡炎の異能に触れた瞬間、意識を失ったのだ。糸が切れたかのように、ふっと。

 あの、心臓が凍り付くような感覚はずっと胸に染み付いている。初め、彼女を妹と呼び、彼女が目覚めてからたびたび訪れるようになったのは、きっと、贖罪だった。けれども今は。

 今は、血の繋がった妹のように、亡くすのが恐ろしい。

 ——ふいに屡炎は花の暴走が緩やかになったのに気付いた。

 彼の力の効果もあるだろうが、これほど沈静化するのは初めてだった。千歳を訪れる時はいつもこうして、彼女の力を沈めていたが、こんな風に目で分かることなどついぞなかった。

「……おまえ、『螢』か?」

「え、——あ、俺? い、いえ、違います、けど」

 屡炎はその返答に眉をしかめた。ならば、何故。思ってから、ふと気付いた。朝が近づいている。千歳の呼吸も浅くなっていた。……浮き上がってきた意識がうっすらと、この男の存在を感じているのだろうか。随分と執着深い。

「あの……あなたは、一体」

 誰なのですか、と彼は酷く困惑した眼差しで問うてきた。

 屡炎は少し迷ってから面倒になって、言ってしまうことにした。下手に勘ぐられるより良いだろう。

「現皇帝屡炎。知らぬか」

「こ、————」

 ぱかん、と少年は口をかっ開いた。驚愕しているらしい。……面白い。

「な、ななな、何で皇帝陛下が、」

「千歳は私の従姉妹だからな」

「いっ?」

「知らなかったのか?」

「え、だって、ええ? ……あ、でも、千歳の母君がとんでもなく高貴な方、だって」

 知らなかったのか。というか瑯家よりも高貴、と聞いてもうちょっと予想しても良いものだろうに。屡炎は呆れたが、口には出さなかった。と、何かに思い至ったように少年は頭を抱えていた手を止めた。

「そういえば、皇太子に会って、意識を……」

「——その皇太子が私だ」

「あ、そうなんです、か」

 まだ混乱しているらしい。目を白黒させている。軽く眉を跳ね上げ、屡炎は首を傾げた。……珍しい反応だ。

「……つまり、千歳のこれは私のせいということになる」

「え、そうなんですか?」

「……おまえは何を聞いていた」

「だってもう、千歳は目覚めたじゃないですか。この症状が陛下のせいだと、何故断言出来るんです」

 喉が、詰まった。

 重く垂れ込めた雲が少しだけ軽くなる。そのような。——確かに、断言出来ることではない。だが。

「だが、後遺症ということもある」

「それでも、陛下のせい、というのはやっぱり何だか違う気がしますけどね」

 納得いかない顔ながらそう言う男を、屡炎はひたと見据えた。途端、彼はぴしりと背筋を正した。今更身分を意識したのか、頬が青ざめている。

 奇妙な男だ、と屡炎は思った。

「じきに夜が明ける。そろそろ戻れと言いたいところだが……おまえは千歳のこの症状を今日知ったか」

「……はい」

「……この娘の名を、知っているか」

「…………はい」

 そうか、と僅かに首を振る。そうか、良かった。と。

「ならば、気をつけてやれ。少し、……危うい」

 憂うように零せば彼は良い歳をして泣きそうに顔を歪めた。けれどもはい、と深く頷く。それを見て屡炎は少しだけほっとした。

「ではな」

 え、と戸惑う男をおいて、屡炎はひらりと窓枠に手をかけて身をくぐらせる。白々と、陽が登り始めていた。

 

 

 

 

 あの男が妹の救いになればいい、と屡炎は心底思った。

 

 



 

 

 


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