奥庭がいいわ、と汗衫をつけた千歳が莉瑛の手首を引っ張った。莉瑛はぎょっとした。奥庭は瑯家当主の細君の管理下にあると聞く。しかもその月由と言えば昨日元皇女だと知ったばかりである。恐れ多過ぎる。……ということをまくしたてたところ、彼女はにっこりと笑い、

「お母様は文句なんて言わないわ。それに許可は取ってあるから」

 さらりといなしてほてほてと歩き出してしまった。そんな以前から考えていたのか。

 ——それを、どうして、今、やろうと言い出したのか。

 あまりにも頼りない歩き様にハラハラした莉瑛は前をいく子供の身体をそっと抱き上げた。肩に捕まらせ、ほっと一息つく。千歳は何が可笑しいのかくすくすと笑い出した。

「莉瑛って心配性よねぇ」

「千歳が迂闊過ぎるんです」

 初めて入った奥庭は予想以上に広かった。水仙が朝露にきらめき、溜池では睡蓮がたゆたっている。莉瑛は心臓が波打つのが分かった。千歳を降ろし、すうっと息を吸う。

「千歳、」

「うん」

 微笑みに、息が出来なくなる。本当に? 本当に、松柄の言葉は正しいのか。彼女は倒れたりしないのか。不安と疑念が渦巻き、焦燥感にやられそうになりながら、だけども莉瑛は願うことにした。膝をつき、目線を合わせ、小さな紅葉の手を握る。

「力を使い切るほどの全力で、花咲かせてください」

 千歳は目を見開いた。

「どうして?」

「————これが、合っているのか、合っていないのか。俺には分かりません。だけど、俺はあなたに長く生きていて欲しい。あなたのお父上が繋ぎ止めるようにつけた『千歳』のまま」

 千年。

 幸せも、不幸も分からない。長く生きれば良いというものじゃない。だけど。だけど、かのひとは願ったのだ。それでも生きて欲しくて。少しでも、長く。

「あなたの身体が成長しないのは、膨大な力を無理矢理に抑え込んでいる為だと推測されます。あなたのそれは、突然変異などではなく、強過ぎるのだと。その力が変な風に折り曲がり、捻れて、成長に干渉しているのだそうです。溜まりに溜まった力が持て余されて、外に出られない為に、——あんまり良い言い方ではないですが、容れ物に形態を留めているのです。ですがそれも限界がある。だから寝ている間に、無意識に力を消費しようと、あれほどまでに花を咲かすのです」

 積もり積もった力が溢れ出て、生存本能が意識のない、押さえのないうちになんとか抜け出そうとしていた。そういうことだと。彼の師は言った。

「……俺は、師父の言葉が真実であると祈っています。だけど違うかもしれない。俺はあなたにずっと在って欲しいから、全力で咲かせてくださいとあなたに乞うけれど、あなたが嫌ならば、」

「莉瑛。わたし、知ってるのよ」

 千歳は柔らかく莉瑛の言葉を遮った。無垢で、幼く、けれどどこかしなやかな微笑。風が吹く。草が揺れる。木々はざわめいた。美しい奥庭。瑯の細君が丁寧に、心を込めて管理している庭。

「このままのうのうと生きていくことは、わたしの血筋には許されない。少なくともわたしにとってはそうなのよ。二者択一。清々しいわ。ね、莉瑛」

 ふふ、と笑んで彼女は手を広げる。袂が揺れ、盤領の内から色の袙が覗く。

「それにね、莉瑛ってば、その言い方、他に選択なんて出来ないの、分かってる?」

 晴れやかに言われて莉瑛はぐっと詰まった。その、通りだった。千歳はいっそう笑みを深め、さくりと草を踏みながら一歩下がった。ふわ、と眠るように瞼が閉じる。思わず手を伸ばしそうになったのを、莉瑛は寸前ところで押し止めた。

 ぽう、ぽう、ぽう————淡い白が溢れ出すのに、そう時間はかからなかった。千歳のちいさな両手がひかりを帯びる。目紛しく渦巻いたそれはいつの間にか花びらに変わり、頭上からひらひらと芽吹いた蕾の花弁が舞い落ちる。ひら、ひら、ひらり。視界いっぱい花の色に埋まっていく。駆け巡る。淡い茶の幹が伸び始め、次々と息つく暇もなく咲き誇る。春。春の、匂いが、する。

 噎せ返るほどの微睡みの春。

「桜、が……!」

 桜というのは、あまり強い種ではない。挿し木されたものがほとんどと聞く。それがぐんぐんと育っていく。花開き、舞い、今が時よとばかりに散り落ちる。

 狂い咲き。

 雪のように舞いすさぶ花びらの向こうで幼子が心底嬉しそうに微笑うのが見えた。いっぱいに開いた腕の合間からひかりが溢れては溢れ、花と変化していく。その双眸がしあわせそうなまま、不意に苦痛に歪んだ。はっと莉瑛は我に返り、慌てて彼女のもとへ駆け出した。千歳、と叫んだ声が届いたかどうか。ぐらりと前のめりになった身体を寸でのところで受け止める。

「……っ、う……、ぃ」

 息が荒れている。大量に吹き出した汗が玉となって白い額から伝った。灰がかりの金の髪が花びらを含んで垂れる。苦痛にか、ぎりぎりと小さな手が莉瑛の腕を握りしめた。

 それでも、彼女は花を咲かす。

「千歳! もう、」

「……ぅ、ま——だ。駄目……ッ」

 血が滲むほど唇を噛み締めて全身で花を咲かし続ける。彼女の身体全体が淡いひかりを帯びた。発光するように、ひら、ひらと。

 莉瑛はぞっとした。血の気が引く。これではまるでこのまま、とけて消えてしまうようではないか。この、狂い咲く桜のように儚く!

 焦る間にも彼女は目に痛いほどの白に包まれていく。ひかり。はなびら。その全てに、奪われる。

「……っ、」

 すでに千歳の顔色は土気色だった。紙のように白くなった爪が莉瑛の腕に食い込む。その時爆ぜるように脳裏に甦ったのは、会ったばかりの皇帝だという男の言葉だった。

『……この娘の名を、知っているか』

 是、と自分は答えた。それに対して、あの怪しい男はひどく安心した風情でそうかと頷いたのだ。

 ちとせ。

 今も彼女は気を失いそうなていで、だというのに未だやめようともしない。歯を食いしばって、色を失う唇を噛み締めて、——莉瑛と、松柄の言葉に賭けている。咲く。咲く、咲く、咲く。桜が。はなが。はなびらが。

 咲き乱れる。

 命ごと、根こそぎ、奪う、よう、に。

 

「——————桜綺!!」

 

 一瞬。

 ほんの刹那。ぴたりと、彼女の動きが止まった。ぎりぎりまで大きなまなこが見開かれ、愕然と莉瑛を見る。その怖いほど直ぐな眼差しに、莉瑛は息を止めた。何事か千歳が口を開きかけたとき、——カッ、と冷たかった幼子の身体が熱を走らせた。光が膨脹する。桜が悲鳴をあげるようにざわめいた。思わず目を瞑る。どん、と胸から突き飛ばされたのはそのすぐ後だった。どさっと尻餅をついて瞼を押し上げると、もうもうと煙が上がっていた。花びらはただふわふわと浮遊するだけで、光もない。代わりに真っ白な煙。

「…………は?」

 なんだ。何が起こった。ぽかんとしてしまってから怖い想像が過り、莉瑛はざっと顔色を変えた。煙の内にまろぶように駆け寄る。——硬直、した。

 まず、灰色がかった金の髪が、見えた。

 それから、滑るように白い頬。

 乱れた衣服。

 桜の双眸。

 僅かに開いた辺りを舞う花びらのような唇。

 地を這う細いてのひら。

 莉瑛より、少し小さいくらいの、姫神もかくやという美貌の、少女。

「…………り、えい?」

 幼子の声よりよほどつたなく頼りない声で、彼女は莉瑛の名を呼んだ。

「…………————千歳!」

 矢も盾もたまらなくなって莉瑛はその美しい少女を力の限り抱きしめた。戸惑ったように長い腕が背へまわされる。可笑しい。当の彼女は泣いていないのに、莉瑛の涙腺はあっさりと崩壊し、堪え切れずに涙を溢れさせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の産まれた時に授かった名を、桜綺という。

 けれどもその後、彼女の成長が止まり、生死も危うくなった際にに來燈が願ったのだ。——せんねん、いきてくれ、と。

 それ以来彼女は、祈るように千歳と呼ばれ続けた。古代の言葉で千年を示す二つ目の名で。

 

 一瞬で儚く散る桜ではなく、たとえ生き汚くても長く生き続けるようにと、勁く。

 

 

 


 


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