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 これは月由が斎宮————最上位の斎女の任より降りた直後の話である。


 

 

 

 

 

 

 

 


「…………はあ?」

 現皇帝の娘である彼女はいっかな肉親と言えど一歩間違えれば残首ものであろう声をあげて堂々と玉座にふんぞり返る父を見上げた。父の傍に控えた実弟がぎょっと目を剥き、何やら情けなくもあわあわする。だが姉である月由はまったく意に介さず、訝しむような目でちらりと隣を見やってから視線を戻した。にやり、と皇帝は頬骨を引き上げる。嫌な顔だ。月由はげんなりした。今直ぐ立ち上がって踵を返したいがそうもいかない。せめてもの意趣返しに恭手を解き、片手を地に押し当てて、息を吸う。

「もう一度、ご説明いただけますか、陛下」

「——説明も、何も」

 くすり、と面白そうにこの国で最も高貴な男は笑み零した。悠然と肘掛けにおいた腕を伸ばし月由の隣に叩頭する男を指し示す。彼はぴくりとも反応せずに主君の言葉を受け入れていた。その態度が、月由には、ものすごく、ものすごく、不気味でならなかった。

 皇帝は嗤う。

「我が娘よ。余はそなたに、そこな男と祝言をあげろ、と、そう命じただけだとあろう?」

 月由はできることなら皿でも神事用の玉串でも何でもあらん限りに父に投げつけてやりたい気持ちを全身全霊で抑え込んだのだった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 



 玉座の間を辞した月由と、めでたく花婿にされた男——瑯來燈は、気まずい沈黙で暫し硬直した。

 いや、気まずく思っていたのは、もしかすると月由だけであったのかもしれない。心底困った顔で彼女が見上げたところ、しかし彼は特に何の感慨も焦りも見せずぼんやりとしているのみ。月由は困惑して、來燈様、と呼びかけた。

 瑯来燈、十六歳。名門瑯家の直系長子。時期瑯家当主であり、名実ともに前斎宮を降嫁させる未だ歳若き官吏である。

 そして月由と來燈は、実のところ長年腐れ縁を続けている幼馴染みでもあった。子供の頃から彼女は來燈と遊び転げ、斎女になってからもよく話し相手になってもらっていた。見も知らぬ上に性癖も歳も分からぬ男に嫁ぐより余程気安い相手であることは確かだが、気安いからこそ困ることもある。だいたい、まさか彼と一緒になれるとはついぞ思わなんだ。正直月由は困り果てていた。

「なに?」

 だというのに、どうしてこのひとはこんなに何でもない顔をしているのか。

「なに、じゃありませんよ。どうしてそう平気な顔をなさってらっしゃるんです?」

 通常なら敬語を使うべきは彼の方であろう。だが以前そのことが原因で月由が盛大にへそを曲げた為か、それ以来彼は私事で接する場合一度も敬語を使ったことがなかった。それはありがたいことなのだが、平坦な声がいつも通り過ぎて不安になる。もともと怒りっぽい人でもないし、大抵穏やかで、ときどき頑固だったりするぐらいで、月由は彼が激昂するところなんて見たことはなかったが、こればかりは怒るだろうと思っていたのだ。何しろ。

 ————何しろ、このひとはおそらく、仄かなれども想い人がいるようなのだから。

 そう心中で確認するだに胃が痛くなる。顔色を悪くする彼女をちょっと心配そうに見て、來燈は「そんなこと言ってもね、」と眉を寄せた。

「そんなに取り乱すことかな」

「だ、——だって。一生を決めることですよ?!」

 遠い異国では違うようだが、この国は数百年ほど前から一夫一婦制である。故に離婚でもしない限り結婚とは相手と一生暮らすということと他ならない。……まあ、愛人を囲う者も多くいるが。

(でも、來燈様だもの。愛人なんて絶対無理だわ。……なんだかんだで、優しいひとだから)

 となれば残る手段は離婚だが、いかんせん自分は皇女である。それも前斎宮だ。皇室の威信にかけて、また瑯家の面目にかけてもそのようなことは許されまい。それならば結ぶ前に何事か手を打たねばならぬはず。だのに何故彼はまるで問題なさそうな顔をしているのか。とんと理解出来ない。

 ……それとも、もう諦めているのだろうか。そうかもしれない。この婚儀は皇帝直々に命じられたものである上、おそらく彼の様子を見るに事前に連絡がいっていたのだろう。つまるところ彼の父君に必ず娶れと言われればどんなに他に想う者がいようと撤回など出来まい。

 でも、と月由は無性に腹立たしい気持ちになる。でも。

(そんなに簡単な想いだったの?)

 迷惑をかける自分が腹を立てるのも如何なものかと思うが、それでもなんとなく悔しい。八つ当たりぐらい、してくれても良かったのだ。

「うーん、そう、言ってもね。……あれ、月由? どうしたの? そ、そんなに嫌だった?」

 月由の暗い顔のせいか、來燈は急に慌て出した。子供のようにぱたぱたと両手をうろつかせる。目尻が熱くなってきて、月由はぐっと両の拳を握りしめた。

「……来燈様。わたくし達は、ともだち、ですよね」

 ぴし、と來燈は固まった。その様子に不安になる。もしや今までそう思っていたのは自分だけだったのだろうか。

「…………あ、う、うん。そ、そうだ、ね。うん。友達だよ」

 ぎこちないながらも返ってきた答えにひとまずほっとする。良かった。そういえばこのひとは結構照れ屋で意地っ張りだから、こういうことは余り言わないひとだったような気がする。挙動不審さがいまいち不安を煽るけれど、嫌悪の色はなかったことに、彼女は自分の心臓がことりと音を立ててまで安堵するのを自覚した。

「來燈様は、よろしいのですか。友達を娶るなど」

「………………えーと。月由、は、そんなに、嫌なの……?」

「そんなわけありませんっ!」

 月由は血相を変えて否定した。そんなこと、あるはずがないのだ。だって自分、は。

 そこまで憤ってから、彼女はふと首を振った。いや、これはもう、考えないことにしていた。掘り返してはいけない。

(祝言を上げてから、愛人を勧めてみましょう。……肝心なのは、來燈様の片思いかそうじゃないか、だけど)

 ほっと胸を撫で下ろす來燈の様子からするに、なんとなく、彼の片思いの気がしてくる。……愛し合っていたらそれはそれで心苦しいのだけれど、これはこれでなんとも哀れ。どうしたものかと思いめぐらす彼女の手をとって、來燈はにこにこと微笑んだ。

「それじゃ、これからよろしくお願いします」

 月由は絶句した。なんて言葉だろうか。あっさりと言われたその意味に首筋から朱がのぼる。月由はまたも困り果てて、ただ、はい、とだけ呟いた。



 

 


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