あふあ、と大欠伸をした松柄は旧友が微妙な表情をしているのを見て眉根を寄せた。……あ、なんか面倒臭げな予感する。逃げよ。
くるり、と踵を返したところをはっしと掴まれる。しかもそれが首の襟だったため、危うく後ろ向きにすってんころりと転びそうになった。ふんぬと踏みとどまり、キッと相手を睨みつける。
「こぅら來燈ぃ! んにしてくれんじゃ!」
「ちょっと聞いてくれよ松柄!」
「お前が人の話を聞け!」
「僕月由と結婚することになったんだけどさ!」
聞いてない。
松柄はげんなりして、ぽりぽりと頭を掻いた。結婚? なんだそれは惚気か。しかも王宮のど真ん中で。
典医ではないが、たびたびその腕を狙って招請される松柄は、自分より十も二十も年上の典医達に治療法やら何やらを教えに王宮へ来ていた。意味が分からない。俺ぁ知らんよ、と言いたいところだがお上の命令じゃ逆らえない。だから自由気ままに街医者やってこうと思ってたのに……何でどこで誰からバレるんだ……と、彼は内心打ちひしがれていたりする。
「あっそ良かったな。俺は帰って寝る」
「聞いてくれよ!」
「ぐげぇ! おま、何で人体の急所だけは心得てんだよつーかなんつうツボ押しやがる!」
首の後ろの急所を軽く撃打され松柄は反射的に友人を蹴っ飛ばした。ぜいぜいと息を吐きつつ見下ろすと來燈は情けない顔で座り込んでいる。……。…………。大していないがしかし確かに数人いる周りの視線が痛い!
「立て!」
「松柄が蹴っ飛ばしたからだろー……?」
それはその通りだがこんなところでさりげなく殺人を犯そうとした男に言われたくなかった。盛大に舌打ちし、しぶしぶ聞いてやる。
「結婚するからどうした。悪いがじり貧なんで御祝儀はやれんぞ」
「あのねぇ、皇女様との祝言で貧乏医師に金せびったりしないよ。僕はもちろん、うちの親族もね」
「相変わらず見栄っ張りな一家だな」
「本当にねぇ。まあバカ達のことはどうでも良いんだけど」
冷めた目で肉親一同をずばっと切り捨てた瑯家の若君は一気にしょんぼりと落ち込んだ。うぜぇ、と松柄は隠すことなく顔にだした。
「なんかさ、月由、僕と結婚したくないみたいなんだよね」
「まあ、夫がお前って相当うぜぇよな」
「そうじゃなくて! その、別にさ、嫌われてるわけじゃないみたい、だけど、なんか乗気じゃないっていう、か……その、」
「はっきり言え」
苛々してきた松柄は吐き捨てるように切った。
「月由、僕のこと、友達だよね、って言うんだよ!」
自棄になったらしい友人の叫びに目を点にした貧乏医師は、一拍おいてから爆笑した。
「ぶはははははははッ! そりゃいい気味、じゃねぇトーゼンじゃねぇの? だって月姫っちゃ斎女の中の斎女だろ。だいたいお前らちょっと前まで本当に『オトモダチ』だったじゃねぇか。どっこもおかしくねぇよ」
月姫、というのは月由の通り名だ。たかが市井の町医者が天下の皇女様をみだりに本名で呼ぶことは少ない。もう一人星綾と陽蓮、耀水という皇女達がいるが、彼らもそれぞれ星姫、陽姫、水姫と呼ばれる。公式の場ではさすがに本名だが、どうせお目通りすることもないしがない庶民はそれで充分なのである。
友達、というだけでも規格外のうちに入る。が、そんなおめでたい本人は不満らしい。贅沢なことだ。
「そりゃ、まあ、そうだけど……何も正面切って聞かなくてもさぁ……」
「嫌われてるより良いじゃねぇか。ま、ちょっとずつ頑張れば?」
「……そこまで期待してない」
いじけやがった。
面倒臭ぇな、と顔を歪ませると、來燈はゆっくり首を振った。そうじゃなくてね、と続ける。
「僕はさ、あんまり、月由に優しくしてこなかったんだよ。昔っから純情だったんで、わりとまずいこと口走って泣かせたこともあるし」
「いや純情って誰だよ。つーかよくお前生きてんな」
「反対に月由はいつでも優しいんだ」
「…………おま、色々駄目だな」
ずーん、と暗くなる友人を、松柄はひきつった顔で見つめた。とりあえず、そろそろ解放して欲しい。良い加減寝たい。これでも三日徹夜続きなのだ。