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 宮廷用の礼服から着替えようとしていたらしい彼は、上衣の胸元をはだけさせたままぼけらっと妻を凝視した。口も利けないらしい。
「……な、なななな、なに、して—————あ?! ごごごめん! もしかして部屋間違っ……」
「間違っておりません。無礼と知りつつも、わたくし自ら参りました」
「なにゆえッ?!」
 絶叫である。
 あまりの取り乱しっぷりに苦笑して、月由はぽんぽんと自分の座る寝台を叩いた。
「お疲れでしょう。今日はいつもより随分遅いお帰りですもの」
「え……あ、ああ、うん。ちょっとごたごたがあって……あれ? ごめん、もしかしてそれで待っててくれたの? ありが、」
「違います」
 即答すると嬉しそうだった來燈の顔はずーんと重くなった。そ、そう……と哀しげな相槌が返ってくる。構わず月由は再び寝台を叩いた。躊躇していた來燈だったが、やがて諦めたように大人しく彼女の前に座った。そのまま居心地悪そうにしている。しかし今日の月由はそれにも頓着しなかった。
「お話があります」
 しまったな、と月由は思った。少し、硬い声になってしまったかもしれない。來燈がふと真面目な顔になる。少しだけ身を乗り出し、膝の上で握られた月由の手に己のそれを伸ばしてきた。ふわりと、ひどいくらい優しく触れられる。
「どうしたの。何かあった? ……嫌なことでも、言われた? それとも恐ろしい話でも聞いたかな」
 彼女のことを、よく分かっている言い方だ。恐ろしい話。皇国に関わる話。月由が憂慮するもの。当然のようにそれを危惧する彼の眼差しがとても真剣で、……心配そうで、やっぱり少し、泣きたくなる。鍵を外したまま、中身がぐちゃぐちゃになり過ぎて、蓋すら閉められなくなった箱の中身はとめどない。とくり、とくりと心音のように静かに、柔らかに、容赦なく溢れていく。
「いいえ。そうではないのです、旦那様」
 はじめて、彼女は來燈をそう呼んだ。彼は驚いたように瞬きをする。低く、鳥の声がした。窓の外、桜の向こうから。彼女はきつく拳を握りしめた。
「ごめんなさい」
 まず、謝罪を。
 來燈は不可解そうに首を傾げる。月由はゆるゆると笑んだ。
「……聞いてしまいました。昨日の、貴方と松柄殿のお話を」
「え」
 ひくりと來燈の頬が引きつった。一気に青ざめ、真白くなり、最終的に微かに赤みが増す。
「ど、————あ、そう、なの?」
「はい。ごめんなさい」
「……う、うん、いや、別に……あの、ちなみにどの点、を」
 予想外の歯切れの悪さに少々戸惑いつつ、月由はきゅっと息を吸い、覚悟を改めた。そう、ここですごすご引いてはいけないのだ。今気持ちが落ち着いているうちに話をしなくては。
「わたくしに、嫌がることをすると、仰っておられました」
 ぐ、と何故か來燈が詰まった。しかし月由はそんなことに頓着していられない。
「どうあっても、お心は変わらないのですか」
 ぴたりと來燈の挙動不審が止まる。窓の外はもう陽が落ち始め、室内は薄暗く変化する。彼は答えた。
「……うん。するよ。どうあっても、多分、僕は君が嫌がることをすると思う」
 そう言って、情けない顔をした。
 ごめんね、ととけるような声が聞こえた気がした。幼い頃みたいに、不器用な。
 月由は心臓が冷たくなるのが分かった。ざらりと撫でられたみたいだった。唇が震える。そうですか、と彼女は囁くように言った。
「分かり、ました」
「え? 分かる、って」
「荷造りをして参ります」
「は」
 決意を込めて宣言したところ、何故か彼は硬直した。みるみるその顔色が青ざめていく。
「え、ちょ、待って、そ、」
「今夜中に片付けて参ります。ですが、今宵ばかり、どうか明朝までこの屋敷にとめていただくのをお許しください」
「えええええええええっ?!」
 屋敷中に轟くような悲鳴だった。來燈は慌てたように腰をあげ、あわあわと両手を振り回し始めた。
「ま、え、それつまり離縁? 離縁ってこと?! うそお待って待って待ってそんなに嫌だったの?! ごめん待って分かった話し合おう!」
「いいえ。來燈様のご決定です。わたくしは抗いません。きちんと、この足で皇城に戻ります」
「いやだかっ……え、あれ? んんん? なんか話噛み合ってなくない?」
 その何だか間の抜けた声音に月由はムッと眉を寄せた。ひとが決意を固めたというのに。
「何がですか。仰ったではありませんか、わたくしの嫌がることをすると」
「え、あ——うん。あの……それがどういうことか、分かって、るんだよ、ね?」
 ぷちっ、ときた。
 恐る恐る、といった様相が、とても、とても腹立たしい。なんて質問だ。酷いにも程がある。噛み付かんばかりに声を張り上げた。
「分かっております! ですから、わたくしが自ら出ていくと申し上げているのです!」
「え、待って、分かっててその結論?! そんなに嫌なのッ?! 出ていきたいほど?!」
「何を今更……あなたが、わたくしに居て欲しくないのでしょう」
 言ってから、ふと気付いた。確かに、どうも見解の相違があるようだった。徐々に冷静さを取り戻し、彼女は首を捻った。同様に來燈も不思議そうになっている。
「……えっと、話、聞いてたんだよね?」
「最後のところだけ、ですけど」
「最後?! そこだけ?! あ、そ、そう。なるほど……」
 ……何故ほっとした顔をするのだろう。胸も撫で下ろすし。
 ここに至って、それならばやはりもう一方の懸念が当たっていたのだろうか。それとももっと違う、瑯家としての、こと? けれどもそのような重要な話ならばあんな風に聞かれやすいところでしないだろう。色恋事は何だかんだ言ってあまりおおごとになることでもない。誰かが少し辛い想いをするか、誰かが少し幸せな想いをするか。究極的に言えばそのようなものだろう。
 月由は思い切って聞いてみることにした。
「それは国に関わることですか」
「え? いや、そうではない、かな。一概にそうと言い切れるわけではないけど」
「ではやはり色恋事ですか」
「ごほっ」
 あ、咽せた。
 どうやらこちらのようだ。分かりやすいなぁ、と生温い気持ちになる。昔からこのひとはこうなのだ。政に関わればまた違うのだろうが、月由と接している時は大抵何でも顔に出ていた。
「……わたくし、は、離縁の話だと、思っておりました」
 ぽつりと零すと來燈は目を剥いた。
「どうして」
 ひどくて、優しい言葉だった。月由は苦しくなった。
「わたくし、知っております」
「何を……」
「來燈様に想う方がいらっしゃること」
 今度こそ彼は言葉をなくしたようだった。ぱかりと開かれた口が漸う掠れた声を出すのは暫しの時が必要だった。
「……えっと、」
「はい」
「……月由は、それを、誰だと思っているの」
 むか、と彼女は再びへそを曲げた。何だそれは。仮にも一応暫定妻に向かってその質問はさすがにどうなのだ。
「知りませんよ來燈様の恋愛遍歴なんて!」
「恋愛遍れ……っ、いやいやいや何?! 何それ?! そんなのないから!」
「だから知りませんってば! わたくしはずっと斎女として籠っていたのですから、あなたの交友関係も、松柄殿くらいしか知りません!」
 叫んでしまってから、歪んでくる視界を明瞭にする為、がり、と唇を噛む。そう、知らない。このひとがどういう相手を想っているのか。何も。
 でも、そんなこと、どうだっていいのだ。
「……妾、なら、良いのです。お側に置いて、くださるなら。それは決してわたくしの『いやがること』ではございません」
「め—————は? ちょっと待って何でそういう……っていう、か、ね、あのね、月由。僕は今までただ一人にしか恋愛感情を抱いたことはないし、結婚したいとか側にいたいとか思ったこともないんだけど」
 

 


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