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 泣き腫らした顔で眠る妻の、赤くなった目許を拭って、彼はふっとため息をついた。ずっと、ずうっと焦がれてきた少女。高潔なる歴代で最も優れていただろう斎宮。彼女の婚儀の話が持ち上がった時、主君に土下座して頼み込んだのも、もう遠い昔のことのように感じる。その為に皇帝の無茶難題をやり通し、反対に、その過程で得た数多の闇を駆使し、脅すようにして引き寄せた。
 ……ずっと、昔。たぶん、初めて会った時からもう駄目だったのだ。こわごわと近寄ってきて、ふわりと花がこぼれるように笑うあの無垢な娘に、彼はあっさり落とされた。気付けば会えない時は死にそうな気持ちで彼女のことばかり考えていて、会っている時は他のことを欠片も考えられなかった。ためいきのようにこぼれる熱。胸の底から爪先まで溢れる花のように甘いもの。夫婦などという夢のような状況を無理矢理手に入れた。本当はくちづけだってしたかったし、出迎えてくれるたびに抱きしめたくて仕方がなかった。けれどももし嫌がられでもしたら自分は一生立ち直れなかっただろう。そして一生嫌われたままかもしれない。それだけは何としてでも避けたかった。漸く側にいられるのだ。これ以上の幸福を望むのは酷だろう、と少しばかり諦めていたのだが、それが余計彼女を不安にさせていたらしい。彼はそっと柔らかな髪を撫でやった。それにしても彼女はどうしてあんなとんでもない誤解をしていたのだろうか。今度、そう、彼女が起きた時にでも聞いてみよう。彼は蕩けるように笑って身を屈め、眠る愛しい女の足首にふわりと淡くくちづけた。さながら花びらをそっと落とすかのように。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 この二年後、瑯家当主の細君はその後継を早くも出産することとなる。その頃になると既に彼女と庭師の手に任せられた奥庭が、端々から見事に多種多様な種類の花を咲かせるようになったのも、瑯家の人々の心を和ませるちいさな功績なのだった。
 
 

 


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