桜が咲いている。 窓辺からひらりと舞い込んだ花びらを無感動に眺めた屡炎は重い御璽を持ち上げ、ばこんと判を押した。綺麗に朱色が滲む。つまらぬ気分になりながら次の書類に移ろうとした時、彼はふと瞬いた。 「……申せ」 は、と闇にとける男が口を開いた。間諜——通称『鴉』の一人だ。妙に陰鬱な表情なのが、それで本当に間諜かと突っ込みたくなる。沈鬱じゃなくてせめて無表情だろう。何故そんなに鬱々としている。こっちまで滅入ってくるだろうが。 「兼ねてよりお申し付けなさっていたかの姫君のことでございますが————」 けれども、続けられた言葉に彼は大きく目を見開いた。御璽を放り出し、緩慢に瞬く『鴉』の横を駆け抜ける。被衣を乱暴に手に取った。沓を脱ぎ捨てる。 「陛下?」 「————出る」 ひらり、と彼は窓から飛び降りた。
飛、と呼ばれる異能がある。 彼の妙に多くある異能の一つだった。移動する時は大抵これを使い、側近から逃げたりする。 それを使っても息を切らすほどの勢いで辿り着いた庭先に、見慣れた髪色を見つけた。——記憶よりも、随分と、伸びた背。 桜の瞳と目が合う。 「…………陛下?!」 ほっそりとした、少しばかり病弱そうな娘が驚いたように声を上げた。傍らの少年が「やっぱり陛下なんですか?!」と驚愕しながら叫ぶ。 屡炎は地に降り、ゆっくりと彼女に近づいた。 「……おまえは、」 声が掠れる。少女は首を傾げた。 「おまえが、私の、妹か」 少女は息を留めて、次に目を大きく瞠らせた。それからゆるやかに微笑む。幼い子供の、それで。 「……はい、兄上」 幸福そうに。 屡瑛は唇を微かに震わせた。はるか、むかし。彼は幼い従姉妹に、自分を兄だと言った。だから兄上と呼べ、と。彼女が歳を経るにつれ、さすがに呼ばれなくなってきていたというのに、少女はまるで宥めるように彼を呼んだ。屡炎が乞うた呼び方で。 ふいに、桜の双眸が瞬く。驚いたように。それから嬉しそうに花の唇を綻ばせた。不思議に思って、気付く。千歳の眸に映る自分は。 「……重畳だ、妹よ」 こぼれるように柔らかく、彼は世にも珍しい穏やかさで微笑んでいた。
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