あなたを取り戻す。 Drown in blue. 雨が降り止まない。 それはもう三ヶ月も前からのことだった。カフェの張り硝子の向こう側をぼんやりと見つめて、リルカは紙の本をめくった。最近、妙な夢を見る。たぶん身体はぐっすり眠っているのに、その夢見が悪いからだろうか、妙に怠くて、まだ眠くて、とても疲れている。自然、頁をめくる指ものろくなる。文字を追うにも頭がついていかない。まいったな。リルカは降り止まない雨の音と、硝子に弾かれた雫に、ひんやりとしのびよる冷気に、そして睡魔の歩みにそんなことを思う。 「リルカ、端末使わないよな」 向かいに座ったヤーレンが、頬杖をつきながら言った。彼はこの前発売されたばかりの、円形の極薄モデルを素早く操作していた。ヤーレンはこういうものが、とても好きだ。気づけば一日中のめりこんでいて、寝食も忘れるぐらい。男の子にしては細身で、キーを打つ指の頭ばかりがしっかりしている。その指が、寝癖を直すように前髪を引っ張る。やわらかい茶色の髪の毛と、多機能眼鏡の知的な銀のフレームが、微妙に合っていない。 「ヤーレンこそ、コンタクトにしないの」 「目ん玉につけるのは怖い。それに、眼鏡の方が容量があるし、操作も楽」 確かに。リルカは納得し、再び読書に戻る。端末でものを読むこともある。ただ、データだと配信が遅いし、最近虫食いウィルスが流行っているということもあって、紙を読む方が多い。それに紙物は流行りもののひとつだ。お洒落な女の子たちは、壊れやすそうで壊れ難い、繊細そうで丈夫な紙の小物を重用する。でも一番の人気の理由は、見た目がとてもきれいだということだろう。街を往く女性の鞄からひらひらと揺れる紙の飾りを、よく目にした。 まあそれも、三ヶ月前までの話だけれど。 もうもうと煙立つ白い雨。もう春先を過ぎたというのに、リルカたちは未だコートを手放せずにいる。身を責めたてる寒さに、街はだいぶうんざりしていた。それはヤーレンも同様らしく、ぶるっと身震いしながらしかめ面してあたたかいチャイを飲んでいる。ずっと西の、果物の美味しい国からきたこのお茶が、この店の人気メニューのひとつだった。リルカのはもうひとつの定番、粉砂糖と潰した干し苺入りの熱いチョコラータ。ヤーレン曰く胸焼けするほど甘ったるい。でも、そこが良いのだ。 ずず、とチョコラータをすする。物語は終盤に差し掛かっている。 「この雨もさあ」 いいところで、ヤーレンが話しかけてくる。リルカは眉間に皺を寄せる。しかし彼は構わない。 「そろそろ止んでくれてもいいんじゃないのかねえ。慣れたかっていえば、慣れたけどさ。寒いし、憂鬱だし、濡れるし」 最悪だよ、と彼は言う。もしこれが、ときどき降るふつうの雨だったら、リルカは恐らく、そう? と首を傾げた。でも、わたしは嫌いじゃないよ、と。 けれどもこの雨は確かに異常なのだ。このあたりは比較的温暖な地方で、ときどきの雨は恵みでさえあった。植物園や人工農場にも、良い雨が降ればよく育つ。普段なら、そろそろ雨降らないかなあと思うものだっていただろう。でも、今は降り過ぎだった。店内に雨宿り――止むまで、ではなくしばらくの休憩として――にきている客は暖房でも防げない寒さに、背を丸めて寄り集まっている。こぞって熱い飲み物を、それも何度も頼むので、店主の機嫌は悪くなさそうだが。 それにさ、と幾分真剣な、そしてどこか気落ちした声に、リルカは視線を向けた。 「それに?」 「……こういう雨ってさ、悪魔を生むんじゃなかったっけ」 「ああ」 悪魔は、霧のような雨と憂鬱と哀しみと妬みから生まれる。たとえば、降り止まない雨への不満、なぜこの街だけ、という苛立ち、本当に止まないのではないかという不安。憂鬱。そして雨はまさに悪魔を生む姿だ。条件が揃い過ぎている、とさらに憂鬱になるのも分かる。 彼ら悪魔は、ひとの見えないものを食べていく。記憶とか、魂とか、感情とか、願いとか。 愛とか。 「悪魔にあっても撃退できるって言ってなかったっけ」 「ばっかおまえ、出任せに決まってんだろ。一般人なめんな」 「えばることじゃなくない。でも、まあ、悪魔、ね」 ああ、とヤーレンが眉を開く。 「リルカは姉ちゃんいるもんな」 「んー……」 小指につけた簡易時計を見る。そろそろ時間だ。最後まで読めなかったけれど、仕方ない。ヤーレンうるさいし。 「わたし、いく」 「おー、姉ちゃんにくれぐれもよろしく。俺のこともぜひ全力で守って」 「たぶん無理」 「速えよ」 店を出ると、どんよりと白灰色の空が広がっていた。 |