Dear my sister 白猫塔。 という呼ばれ方をしている、それがこの白亜の建物である。のっぺりと純白な外見からだけではなく、この近辺によく白い猫たちが闊歩しているから、そう呼ばれている。この塔以外では、白い野良猫など滅多に見かけない。リルカは認証パネルにパスを当てて、自動扉をくぐり、昇降機に乗り込む。ついでに白猫も乗ってきた。中まで入ってくるのは珍しい。ちらと視線を交わしてから、パネルの百十二回を選ぶ。ふっと身体が軽くなる感覚がして、数秒のうちに到着を知らせる音が鳴った。真っ先に白猫が抜け出る。 白猫塔は街の中枢施設で、住民票の登録、管理調整や電波の中継地の役割などを担っている、らしい。詳しいことはよく分からない。とにかく、生活に困ったときはまずここの二十七回窓口に行けば良いということだけは承知している。 そしてもうひとつ。ここは、悪魔対策専門の役人が常駐している場所でもある。 扉を三つ抜け、真っ白な廊下を歩み、奥の奥の部屋まで行く。パスに特別に埋め込まれたチップが、厳重にロックのかかった扉と反応し合う。部屋の中には巨大な円形のソファ、それを隠すように天井から吊るされたレースのカーテン。靄がかったような、ほっそりとした人影。 「姉さん」 静かに呼びかけると、影がゆるやかに動いた。少し疲労の滲む、それでもなお美しい女がソファの上で優しく微笑んだ。 「リルカ。ありがとう、きてくれたのね」 「うん。頼まれてたのと差し入れ、持ってきたよ。あと、新しい記録帳」 荷物を差し出すと、姉ミルリカは嬉しそうに目尻を下げた。ていねいに受け取る。ほう、と息をつく姉は、しかし、顔色が悪い、と思う。 最近の姉は、仕事が忙しいのか、家にも帰ってこない。だからときどき着替えや下着といった必要な物資をリルカが届けている。ついでに、姉の様子を見にきている。ソファの上に散らばる書類の山や、電源の落ちたタブレットや、不可思議な色の液体が入った小壜を見るにつけ、リルカは姉の負担を思って少し苛立ち、しかし――少し安堵する。 姉は、仕事で忙しいのだ。 悪魔を退け、ときに溶かす。何より、悪魔に目をつけられたひと――そういうひとには、身体のどこかに印が出る――から彼らを引き離すこと。それが姉の仕事だ。彼女の多忙は、おそらくこの雨での悪魔の増長によるものだ。けれど、恋人と別れたから、というのもあるかもしれないのは、ちょっと呆れる。もう四ヶ月ほども前のことだ。けっこう長い間付き合っていた相手で、別れたばかりらしかった頃は、今よりずいぶん塞ぎ込んでいたものだ。手品が得意なひとだった、と思う。あまりよく覚えていないけれど。それはともかく、悪魔である。願いと引き換えにひとの何かを奪う厄介な生き物だが、目をつけられなければ即排除するということもない程度の存在だ。野生の獣をむやみやたらと乱獲してはいけないように、挨拶でとどめられる悪魔は放置するものらしい。というより、きりがないのだろう。なんだか適当だなあ、と思わなくもないけれど。 ミルリカの清らかな白い手。艶の落ちた髪。首のあたりに湿布がある。リルカは呟く。 「ねえ」 「なあに」 「少し、休めないの」 姉は苦笑した。 「無理ね。わたし以外も詰めたままだし、ひとりだけ帰るなんてできないわ」 「交替し合えばいいじゃない」 「普段ならね。……ごめんなさいね、リルカ。たぶん、もう少しだから」 責めているわけではないのだ。リルカは困った顔をした。悪魔退治については、素質があるものでないと行えない。もともと人が足りていないのだ。仕方ないことなのだろう。 「わたしは、へいきだよ」 「……そうね」 白い手が、優しくリルカの髪を撫ぜた。冷たくて、でもやっぱり優しい手だった。穏やかな微笑みが、慈愛に満ちている。そして、どこか遠くを見る目をした。その表情に、リルカはいつも少し、不安になる。 ああだめだな。こんな風では、悪魔に魅入られてしまう。 姉と別れ、家に帰る。暗い部屋の中で、青い明かりがちらちらと瞬く。ひとりきりの家では、食事を作る気がおきない。固形栄養剤をいくつか腹に入れ、寝台に直行する。今日も、何も進まない一日だった。ヤーレンの言葉を思い出す。こういう雨ってさ。ヤーレンは不安げな顔をしていた。悪魔を生むんじゃなかったっけ。リルカは目を閉じる。そうだよ。両腕で顔を覆う。そうだよ、こういう雨は、悪魔を生むんだ。憂鬱と哀しみと妬みと、そこへの回路を開く不満と不安が、悪魔を。 わたしは知っている。 もうもうと世界をやわらかく押し潰す霧雨の中から、ゆっくりと生まれる悪魔というものを。 なぜって、悪魔を退治する姉の傍で、わたしはずっと暮らしてきたのだから。 悪魔。 嘲るように美しく嗤いながら、ひとを踏みつけにしていく、相容れない生き物。 (ほんとうに?) 睡魔が押し寄せる。疲れているのは姉だけではないらしい。リルカは呆気なく、夢の中へと落ちていった。 |