紺碧




Dream



 やあ、と彼は片手を上げた。ぴょこんと長い耳が揺れる。左右非対称な釦の目が、おそらくリルカを見つめている。花柄の右目、水玉の左目。布を継ぎ足した胴体。身体の中身は綿だとしか思えない、ぬいぐるみのうさぎ。
 ただし、リルカより背の高い、大人の男ほどある大きさである。
「やあ、リールカ。ごきげんいかがかい。今日は何をしようか」
「名前を伸ばさないで。どうして毎日、夢に出てくるの」
 あたりいちめん夜を塗りたくったような暗闇で、おかしなうさぎと会話する。夢らしいといえば夢らしいけれど、これが一ヶ月も続けば自分の精神状態が心配になってくる。
 うさぎは軽く首を傾げ、そりゃあねえ、とひげをそよがせた。
「きみがなかなか強情っぱりで、そしてけっこうな利己主義だからさ。まあ嫌いじゃないけれどねえ。さあ、何でもしてやろう。何がいい。人間には不可能なことにしよう」
「月にでも飛ばしてくれるの?」
「そんなロマンチックなことはお断りだね! じゃあ、花畑に行こう」
 それも充分ロマンチックだと思うのだが、彼の頭の中ではどう分けられているのだろう。と、ぼんやりそんなことを考えた途端、足許が消えた。ぶわりと風が舞い上がり、一直線にどこかへ落下する。悲鳴も出ないほどの急降下だ。とすん、と無事に着地できたのは、うさぎが腹をすくいあげてくれたからだ。ありがたいが、やったのはこいつである。睨みつけたが、何も効果はなかった。
「ほうら、見なよ。きれいだろ」
「花畑くらい、人の足でもいけるよ」
「一瞬ではいけないさ」
 周りを見渡せば、確かにきれいな花畑がどこまでも広がっていた。花びらが舞い上がり、ふんわりと踊る。群生する薄紅色の花と純白の花が風に薙がれるたびに、それは起こり、ずっとずっと遠くまできらめいた。まるで地平線のように。きれいだな、とリルカは不本意ながら思う。しかし空は溶けて消えたみたいに真っ白で、わずかに影を残すだけ。現実ではないのだから、何があってもおかしくはないが、微かな違和感を感じる。
 それに、そう、なんだかこの光景は見たことがあるような。
「リールカー、どうしたの」
 ニヤニヤしながら――声から判断したところ――うさぎが聞いてくる。うさぎの口は笑顔の形で赤い布が縫いつけられているから、彼はいつも笑顔なのだ。声もそうだけれど。
「……わかんない」
 言って、歩き出す。本当に分からなかった。けれどひどい焦燥感が胸を圧迫した。裸足が草を踏み、花を避け、土に汚れる。果てはどこにあるのだろう。くるぶしをくすぐる花びらはおののくほど柔らかい。簡単に、破れてしまいそう。
 ふと、気づく。うさぎの連れていく場所は、基本的に電子機器がない。電波もない。ワンピースの隠しに手をつっこんでも、端末は出てこない。何でもできるうさぎには、便利なものなど必要ないのか。
 歩く、歩く。
 花畑の先は見えない。ただきれいな情景がえんえんと続いている。きっと、こんな場所で仲睦まじい恋人たちが、穏やかな時間を過ごすのだろう。もしかしたら喧嘩もするかもしれない。喧嘩しながらも、手は繋いだままかもしれない。なぜか、そんな感想がごく自然に浮かんだ。見てきたようだな、と自分のことながら訝しむ。そんな場所にいったことがあっただろうか。
(花畑、花畑――)
 記憶に引っかかるものがあった。けれども確かそこには、大きな泉、が――
「おや、リールカー。落ちるね」
「え?」
 どぽん、と身体が冷たい水に飲まれたのはそのときだった。足を踏み外したのだ。投げ出された身体はどんどん沈んでいく。息ができない。ごぽ、ぽ、と泡が溢れる。水というのは重たい。けれどリルカの身体はもっと重たい。地上を仰げども光が暗く消えていくだけで何も見えない。混色を拒む青が手足を絡めとる。うさぎ。うさぎ。リルカは苦しげに顔を歪めた。これは何なのだ。なぜ溺れているのだ。うさぎ。どこいったの、うさぎ!
「あっははははは!」
 腹立たしい高笑いが聞こえたとともに、急激に視界がぶれた。次に目を開ければ、どこも濡れていないうさぎの顔面。布製のくせに、防水してあるのか。猫の子のように首根っこを掴まれている。引き上げてくれたらしい。できれば落ちる前に助けてほしかった。ぽたぽたと雫が頬を、髪を、服の袖を伝う。濡れて気持ち悪い。ヤーレンが言っていたことをまた思い出す。濡れるし最悪だよ。その通りだ。最悪。
「渇かしてよ」
「今からまた濡れるのに?」
 リルカはようやく、もう花畑から移動していたらしいことを知った。今度は海だ。砂浜も、島影も見えない、海のど真ん中。げんなりしてくる。光を受けてきらきらと輝く海面は確かに美しいが、なぜあえて足のつかない場所を選ぶのだろう。
 子どものように片腕へと抱き直される。波が寄せては返す。魚影がうっすらと泳いでいった。
「楽しいかい、リールカ」
「ぜんっぜん」
「あっはっはっはー! リールカは厳しいねえ。そっくり」
 でもあいつは結局きれいねって笑ってたけど、とうさぎが楽しげに言うのでリルカは思わず顔をあげた。
「それ、」
 言いかけたとき、上空が目に映った。そして瞠目する。真っ白だった。何もない、さきほどの花畑のときと同じ空。海はこんなに青いのに、なぜ空は白いのだろう。おかしいではないか。
「海がすべて、持ってったからさ」
 心を読んだかのようなうさぎの言葉に、どきりとする。海が、すべて。今度は見下ろす。波を。水を。奪われた青を。ふっと身体が浮いた。二度目の浮遊感ののち、ばしゃんと水面に手をつく。沈むかと思いきや、まるで浅瀬に踏み込んだかのように手をついたままの姿勢で止まった。意味が分からない。
「これはきみの夢だからね」
 なるほど、リルカは脱力する。夢、夢ね。ぺたんと座り込み――いったい、どこに自分は座っているのだろう――水を掬う。青い。手に取ってさえ、この水は青い。空から取られた色。取らなくたって、青い海になれるのに。
「取ったって結局、幻なんだけどねえ」
「そうなの?」
「そうさ。意味なんてない」
「うさぎ」
「ん?」
「なんで、わたしの夢に出てくるの」
「きみが見ているんだろ」
「わたしの夢なのに、なんでうさぎの思う通りになってるの」
「それもきみが見ているんだ」
「一ヶ月も?」
「きみの往生際が悪いからね」
 沈黙する。
「……うさぎは、よく、そういうことを言う。分からないよ」
「分かってるはずさ。この三ヶ月、悩んでいたんだろ」
 もっとはっきり言ってほしい。
「正直どうなってもいいんだけどねえ。ま、情くらいあるからね。生き物だし」
「ぬいぐるみのくせに」
「意思があるさ」
「生命はないでしょ」
「この身体にはね。ねえ、リールカー。いいのかい。時間は進むもので、進むというのは変化するということさ。そのままでいたいなら死ぬしかない」
 そしてそれは、とうさぎは言う。
「手に入らないものになるということだ」


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