紺碧




I miss you.



 昇降機の中で軽く雨水を落とす。吐いた息は冷たくて、どこか白く曇る。水たまりも構わずめちゃくちゃに走ったせいで、ふくらはぎに泥が飛んでいた。今日も白猫が一匹、一緒に乗り込んでいたけれど、そいつは迷惑そうにリルカを見上げた。リルカは情けない顔で猫を見下ろした。百十二階に着くと、いつもはゆっくり進む廊下を弾かれたように駆け出す。日当りの悪い、奥の奥の部屋。勢いよく扉を開ける。突然やってきた妹に、ソファの上のミルリカは驚いた顔をした。
「どうしたの、リルカ。何か、忘れ物があったの」
 やわらかい微笑み、口許に浮かぶ穏やかな微笑み、優しい目許。でもどこか夢見るようで、リルカを見ないその眼差しが、彼女はいつも不安だった。痩せた身体も顔色の悪さも、すべて。
 仕事が忙しいせいだと思いたかった。心は元気なのだと思いたかった。
 姉は嘘をつかないのだと、リルカは思い込みたかった。
「姉さん」
「なあに」
「何が、もう少し、なの?」
「え?」
「言っていたじゃない。もう少しだから、って。それは、雨が止むってこと?」
「リルカ」
 ミルリカがどこか弱々しく眉を下げる。その表情に、喉の奥で言葉が絡げる。息が詰まる。
「……姉さんは、帰ってこないの?」
「リルカ、……違うわ」
「姉さん、わたし、へいきじゃないよ。さみしいよ。ごはんを作る気もおきないの。今日もね、野菜しか食べてない」
「……それはだめよ。ちゃんと食べなさい」
「雨は寒いし、でもひとりだから暖房はつけるのはもったいないし、姉さんは心配だし」
「ごめんなさいね」
「姉さん」
「なあに」
「姉さんの、恋人は、死んだの?」
 ミルリカは黙った。優しい手が、リルカを撫でた。リルカの髪は姉のものと違って、羊の毛みたいにもわもわしていて、指の通りはよくないはずだ。でも姉はよくこうやってリルカを撫でる。そういうとき、このひとは言葉を選んでいるのだ。ふと、思考の片隅で猫の姿が消えていることに気づいた。
「……いいえ。わたしが殺したのよ」
 悪魔だったから。静かな呟きには色んな意味が込められていた。悪魔だから、ということだけが、理由ではないのだろう。だって、姉は無害な悪魔は浄めるし、放置する。でも、殺さなきゃいけない事態になったのだ。それがどういうときだったのかは分からない。きっと、教えても貰えない。
「それが、哀しいの?」
「そうね」
「わたし、そのひとに会ってる?」
「ええ。でも忘れているでしょう。そういうものなの」
「それが、悪魔が死ぬってこと?」
「そうよ」
「……取り戻したいの?」
 ミルリカが破顔する。花咲くような無邪気な笑顔だった。彼女はしっかりと頷く。
「ええ、そうよ」
 どこか遠くを見る、恍惚とした双眸が甘く蕩ける。あと少しでほしいものが手に入る、そう信じている顔。
 でも、そんなわけがないのだ。
 リルカは姉の首許を見た。湿布が貼ってある場所。手を伸ばす。そっと、湿布を剥がした。そうして、思わず呻きが洩れる。ああ。ああ、これは。
「……違う悪魔に、願ったんだね」
 円形の複雑精緻な模様が、小さく刻まれている。印だ。願った人間を見失わないように、悪魔がつけるもの。
 雨は、姉の願いを叶えるために降っているのか。……悪魔を、生むために?
「姉さん……無理だよ」
「あら、どうして」
「だって、そのひと、死んじゃった」
「そうね」
「この雨で悪魔が生まれても、そのひとと同じひとは生まれないよ」
「そうかしら。でも、もう少しよ」
「どうして?」
「悪魔が、そう言ってたのよ」
「……悪魔だって、嘘をつくよ」
 大きなソファに腰掛けて、美しく微笑む姉が、哀しくて仕方なかった。だめだよ。思わず、その首にしがみつく。ぎゅう、と抱きしめる。だめだよ、姉さん。
「ヤーレン、悪魔に襲われかけたって」
 ぴくりと姉の肩が揺れた。そう、と頷く声が、けれど少し正気づいていた。リルカは彼が言っていたことをよく思い出す。悪魔がぼやいていたこと。雨なのに雨じゃない。
 空から奪った青は、結局海のものにはなっていない。夢を見ているだけ。
「この雨は、ほんもの?」
 声が震える。
「リルカ?」
 姉の首の印に触れる。悪魔は、これをされるのが嫌いだという。きっと、現れる。
「姉さん、あのね。そのひとね、夢のなかに出てきたよ」
「……え?」
「うさぎだった。手品、やっぱり上手かった。でもあれ、手品じゃなくて、なんかそういう、悪魔のそういうのだったんだね」
「うさぎ?」
「なんか楽しそうだよ、いつも」
「……あのひとは、いつも何でも楽しがってたわ」
「姉さん、そのひとが悪魔だって、知ってた?」
「そうじゃないかな、と思ったことがあるわね」
「悪魔ってなんでもできるんだね」
「そうね」
「でも、なんでもできるわけじゃ、ないんだよね」
 そっと身を起こす。ミルリカは感情の読めない目をしていた。リルカはどうすればこの気持ちが伝わるのか分からなくて、困って、だからあいまいに笑った。なんでもは、むりなんだ。
「この雨がもし悪魔を生み出せたとしても、やっぱりあのひとはもう現れないよ。それは、できないことなんだよ。ねえ、姉さん。こんな雨じゃあ、もとからいる悪魔が、暴れちゃうだけなんだよ」
「そんなことはないさ」
 ふいに割り込んできた声に、視線を動かす。黒い靄が揺らめいている。その真ん中に、人影のようなものがあった。ちょっと遅かったなあ、と思う。それとも、ふたりを観察していたのだろうか。
「でも、この雨は、違うんでしょ」
「まあね」
 悪魔は悪びれもせずに言う。
「でも、彼女お望みの相手を創り出せばいいのさ」
「それじゃ、意味ないでしょ。姉さんは、取り戻したいんだよ。そもそもそれ、ぜんぜん違うひとだよ」
「どうして言い切れる」
「創る、って新しいものってことじゃない」
「そんなことはないと思うけどな。だいたいあんたが首を突っ込んでも、そこの女が望めば契約は続く」
 悪魔の言葉にミルリカが微笑む。
「はやく、わたしにあのひとを取り戻させて」
「姉さん」
「だいじょうぶよ、リルカ」
「何も大丈夫じゃないよ、ぜんぜんやばいよ。あのひと言ってたよ、死ぬっていうのは、もう手に入らないものになるってことだって」
「――いやよ」
 はじめて、ミルリカの笑みが崩れた。いやよ、いや。そう繰り返す。妹の腕をぎゅうと掴み、苦しげに声を絞り出した。
「どうして、取り戻してはいけないの。どうして、無理なの。そんなはずはないの。悪魔はなんだってできる――あのひとだってそうだった。だから、取り戻せるの」
「違うよ」
 リルカは否定する。それしかできない。説得なんてできない。それができたのは、姉の方だ。悪魔と離れさせるために、姉は優しく説いてきた。でもリルカにはそんなことはできないのだ。
「姉さんの恋人は、女の子ひとり月に飛ばせないし、姉さんのもとに自力で戻ってもこれないし、水に落ちる前に助けてもくれないよ。ぜんぜん駄目駄目だよ。そういうひとでしょ? 代替品で満足するの? 新しく創ったって、もう一回、同じ時間を過ごしたって、そのひとはそのひとにならないよ。だって、もう、永遠に失われちゃったんだ」
「じゃあ、どうすればいいの! どうすれば良かったの! あのひとは、わたしが消してしまった!」
「どうもできない。哀しむしかない。泣くしかない。それしかできないよ」
「ははっ、酷い妹だな」
「うるさい黙って。――姉さん、でも、でもさあ、せめて姉さんはいなくならないでよ」
 打ちのめされた顔の姉の手をきつくきつく握りしめる。こわいよ、と囁く。こわいよ、姉さん。さみしいの。
「あのひとを取り戻そうとして、そこの悪魔に騙されて、それでなんでもあげちゃうの? 姉さんの魂も、感情も、あげちゃうの? 何をおいても取り戻したいって、取り戻せなかったら意味ないよ。取り戻したって、欲しがった姉さんがいなかったら馬鹿みたいだよ。なにより、わたしの姉さんがいなくなっちゃうよ。姉さんはわたしに悪魔に願わせたいわけ?」
 ミルリカは虚ろな目を、悪魔に向けた。爆発しそうな感情が、きっと彼女の身体のなかで暴れ回っている。嘘だと叫びたい気持ちと、本当は理解していた気持ちが、ないまぜになっているのだろう。
 それほどまでに、彼女は恋人を愛していたのだ。リルカの言葉にきっとぼろぼろにされた心のまま、ミルリカが思わずというように問う。
「……本当に、取り戻せないの」
 顔のよく見えない悪魔は、口許だけでにんまりと嗤った。
「ああ、実はね」
 表情を絶望に染め上げるミルリカを見て、悪魔はたいそう愉快げに哄笑した。無茶な願いだと思っていたけど、なかなかいいものが見れたなあ、などと言って。その瞬間、ミルリカは気絶した。苦虫を噛み潰すような気分で、リルカは悪魔を睨みつけた。
「交渉決裂だよ。さっさとどっかいきなよ」
「おやあ、ここまで色々やったのに無報酬はいやだなあ」
「知らないよそんなの。ばかばーか」
「あんた怖いもの知らずだなあ。いいさ、勝手に持っていく、……っと?」
 投げつけた電子時計が、靄の向こう側に落っこちる。リルカは次に端末を突きつけた。咄嗟に履歴を開き、ヤーレンに電話をかけた状態にする。悪魔は嫌そうに仰け反る。
「へーえ……」
 それでも寄ってくる悪魔に向かって、通信型の簡易遊戯盤やタブレットも取り出す。そして放電式の安全ベル。痴漢撃退用だけれど、悪魔もぜひ撃退されてほしい。ぶんぶんと振り回したが、悪魔はすばやく手を伸ばしてきてミルリカの頭を掴んだ。ぞっと肝が冷える。反射的に端末で殴るみたいに腹を突いた。
「……ッ」
 電話が繋がり、焦ったようなヤーレンの声がする。『おまえ、なに? 何してんの? なんなの? 怖い!』ヤーレンの声が届く。悪魔は心底忌々しげに端末を見つめ、長い溜息を吐いた。
「まーいいや、どうせ叶えられなさそう願いだったし、適当に丸めこんで美味しいとこ持ってこうと思ってたんだよな」
「最低だよ! ほんと最低だよ!」
「きゃんきゃんうるさいなあ。いいや、こんだけどろどろしたもんもらえたし」
「え!? 何、それ。返しなよ!」
「おれといたこの数ヶ月の記憶」
「……は?」
 ぐいぐいと端末で威嚇しながら、意図が掴めず眉をひそめる。それは、もらってどうするんだ。……いや、食べるのか。
 悪魔はにやりと笑う。
「それでよかったとでも思ってそうだなあ。でもな、つまり、この女、繰り返すかもよ」
 リルカは冷たい目をした。
「関係ないよね。さっさと雨を止めて、出てけ」


BACK TOP NEXT



inserted by FC2 system